城山キリスト教会礼拝説教          
二〇二一年七月二五日             関根弘興牧師
               使徒の働き二章一節〜一三節
 使徒の働き連続説教2
    「新しい言葉」
 
 1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか」と言った。13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいた。(新改訳聖書第三版)
 
 先週は、イエス様が天に昇って行かれる時に、弟子たちに「エルサレムに留まって、父の約束を待ちなさい」とお命じになったことを学びました。
 父なる神様の約束とは何でしょうか。イエス様の代わりに、今度は、聖霊が来て、いつも共にいてくださるようになるという約束です。聖霊は、「もう一人の助け主」「慰め主」とも呼ばれる方です。人として来てくださったイエス様は、一つの場所にいて限られた人と共にしかいることができませんが、聖霊は、いつでもどこでも一人一人と共にいて必要な導きや力を与えることがおできになるのです。
 1章8節でイエス様は聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と言われました。
 私たちは、イエス様の証人とされていますが、自分の熱意や気負いだけではすぐに行き詰まってしまいますね。しかし、聖霊がともにいて、導き、励まし、慰め、力を与えてくださるというのです。そして、聖霊の力によって、世界中に福音が伝えられ、教会が生まれ、成長し、広がっていくのです。その実際の様子が、この「使徒の働き」に記録されているのですね。
 さて、弟子たちは、イエス様が天に上げられていくのを見送った後、命じられた通りにエルサレムに留まり、毎日一つ所に集まって祈っていました。1章の後半を見ると、百二十名ほどが集まっていたようです。その中には、イエス様の弟たちや母マリヤ、そして、十二弟子のうちイスカリオテのユダを除いた十一人の弟子たちもいました。
 十二弟子というのは、多くの弟子たちの中から特別に選ばれて、イエス様といつも行動を共にし、イエス様のことを身近で見聞きしていた人々です。この十二人は、特に「使徒」と呼ばれています。ただ、その中のイスカリオテのユダがイエス様を裏切って脱落してしまったので、そのユダの代わりに使徒となる人を選ぶことになりました。1章21節ー22節には、使徒となるための条件が記されています。「主イエスが私たちといっしょに生活された間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」つまり、使徒となるためには、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けて公の活動を開始なさった最初の時から最後に天に昇って行かれるまでの間、いつもイエス様と一緒にいて、イエス様の語られたこと、イエス様のなさったことを実際に見聞きしたという条件を満たす必要がありました。その条件に合う人として二人の候補者が選ばれたのですが、最後は、皆で神様に導きを求めて祈りつつくじを引いた結果、マッテヤが選ばれました。
 使徒とは、決して名誉職でもなく、他の弟子より高い位が与えられたということでもありません。使徒とは、神様に選ばれた目撃証言者です。イエス様とずっと行動をともにしていた彼らは、復活したイエス様にお会いしたとき、確かにそれが本物のイエス様だとわかりました。だから、「イエス様は確かに復活し、今も生きておられる」と大胆に証言し、「このイエス様こそ、旧約聖書の預言者たちが預言していたまことの救い主であり、神の御子なる方なのだ」と力強く宣べ伝えていくことができたのです。そして、この使徒たちの証言があるからこそ、実際にイエス・キリストに会ったことのない人々も信じることができ、世界中に教会が生まれていったわけですね。
 エペソ2章20節には、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に立てられており、キリスト・イエス御自身がその礎石です」とあります。私たちの信仰の土台は、「旧約聖書の預言通りに救い主が来られた」という使徒たちの目撃証言によって築かれているのです。つまり、私たちの信仰は、作り話や幻想を基にしているのではなく、確かな目撃証言のある事実に基づいているということです。ですから、どうぞ自信を持ってください。そして、使徒たちの目撃証言によって信じた私たち一人一人も、それぞれ役割や立場の違いはありますが、皆、イエス様の証人とされているのです。
 ところで、1章では、使徒の欠員が補充されましたが、この後は、欠員が出ても補充されることはありませんでした。12章では、使徒ヤコブが殺されてしまうのですが補充はされませんでした。前回もお話ししましたが、「使徒」とは、広い意味では、すべてのクリスチャンが使徒であると言うこともできますが、狭い意味では、最初にイエス様に選ばれた十一人と補充されたマッテヤ、それに9章で異邦人の使徒として召されたパウロの十三人だけです。この使徒たちによって信仰と教会の土台が据えられたのです。
 さて、使徒たちや弟子たちが集まって祈っていると、イエス様の昇天から十日後の五旬節(ペンテコステ)の日に、不思議な出来事が起こりました。
 五旬節というのは、過越の祭りの翌日から七週目の五十日目の祭りという意味で、小麦の初穂をささげる感謝の祭りでした。ユダヤの三大祭りの一つで、エルサレムから三十二キロ圏内に住むユダヤ人の男子は、この祭りに参加することが法律で定められていました。また、遠くの地域や外国に住むユダヤ人たちや、ユダヤ教に改宗した異邦人たちも、こぞってエルサレムに集まってきていたのです。ですから、エルサレムは群衆でごった返していたことでしょう。そんな中で突然、今日の箇所の出来事が起こったのです。
 
1 聖霊のしるし
 
(1)「天から激しい風が吹いてくるような響きが起こった」
 
 「風」という言葉は、聖書の中では時々、聖霊の象徴として用いられています。ヨハネ3章8節で、イエス様は、「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」と言われました。また、「大きな響き」というのは、旧約聖書の中で神様の臨在を表す表現として時々出てきます。つまり、「天から激しい風が吹いてくるような響き」は、いよいよ神様のもとから聖霊が送られてきて、聖霊の力強いみわざが始まるのだということを明確に力強く示すものだったのです。
 
(2)「炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった」
 
 「舌」とは、「国語、言語」とも訳せる言葉で、11節では同じ言葉が「国ことば」と訳されています。この「炎のような舌」というのは、聖霊の姿形を表しているのではありません。聖霊は目に見えない方ですから。「炎のような舌」は、聖霊がどのようなみわざをなさるのかということを象徴的に示すものでした。では、聖霊がなさるみわざとはどのようなものでしょうか。
 
2 聖霊のみわざ
 
 4節に、こう書かれていますね。「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した。」弟子たちは、急に様々な外国語で語り出したのです。大きな物音に驚いて集まってきた人々は、弟子たちが語る言葉を聞いて驚き呆れて言いました。「私たちは、いろいろな国や地域から来たのに、この人たちが私たちめいめいの国の国語で神の大きなみわざを語るのを聞くとは、いったいどうしたことだ。」
 
(1)他国の言葉で
 
 この記事を読む度に、語学で苦しんできた私などは、たいへんうらやましくなりますね。弟子たちは、特別な教育を受けたわけでもなく、特に教養のある人々でもありませんでした。しかし、急に、流暢な外国語を話せるようになったのです。群衆も驚きましたが、話している弟子たち自身は、もっと驚いたことでしょう。
 実は、この出来事は、とても大切なことを教えています。それは、教会は「めいめいの国の言葉」で語られるところから始まったということです。これは、たいへん意義深いことです。なぜなら、イエス様がもたらす永遠の救いを与える福音が「めいめいの国」に届けられる世界的なものであることを教えているからです。
 考えてみてください。今、国際会議では、普通、英語が中心的な言語として使われますね。この「使徒の働き」が書かれた時代の主要な言語は何かと言えば、ペルシャ帝国時代に使われていたアラム語とギリシャ語でした。いろいろな国からエルサレムにやってきた人々は、アラム語かギリシャ語のどちらかは知っていたはずです。ですから、弟子たちがどちらかを使って話をすれば、ほとんどの人は理解しましたし、それが一番伝えやすく、合理的なわけです。
 しかし、聖霊なる神様は、不思議な方法をおとりになりました。それぞれの国言葉を弟子たちに語らせたのです。わかる人もいれば、何を話しているのかさっぱりわからない人もいるわけですね。ですから、「弟子たちは酔っ払って訳のわからないことを言っている」とあざ笑う人もいたのです。
 ただ、この後も弟子たちが外国語を語り続けたというわけではありません。弟子たちは各地に伝道に出かけていくわけですが、ペテロはギリシャ語が堪能ではなかったのでアラム語で語り、通訳を同行させていました。パウロは当時の公用語であるギリシャ語を用いて伝道しました。新約聖書もギリシャ語で書かれました。
 しかし、弟子たちが最初に公に語り始めた時、それぞれの国言葉が用いられたということは、福音とは本来、身近な言葉で伝えられていくべきものだということを表しています。
 「キリスト教は西洋の宗教だから嫌いだ」という方がいます。本当は、アジアからスタートしたのですが、ヨーロッパ経由で伝えられので、バター臭さを感じる人もいるでしょう。「キリスト教は横文字ばかり並んでわからん!」と言われることもあります。
 でも、皆さん、想像してください。もし、このペンテコステの出来事の当日にあなたがエルサレムにいたらどうでしょう。日本語で、それも小田原なまりで語る言葉を聞いたことでしょうね。
 私達は、それぞれの国民性があります。民族性や地方色があります。しかし、聖書は、それらを全部統一しろなどとは決して言いません。それぞれの特色、それぞれの独自性を大切にしながら、それらを用いてイエス様のみわざを証ししていくことによって、聞く側の人々が親しみを持ち、福音を身近に感じることができるようになることが大切なのです。もっと砕いていうなら、普段使っている言葉でイエス様の福音を語ることが大切だということですね。
 北海道で行われた「ライフラインの集い」に行ったとき、音楽ゲストとその御主人と一緒に各地を回りました。御主人は洗礼を受けて間もないということでしたが、こう言われたのです。「関根先生、私は教会に行き始めてしばらくは、教会で使われている言葉が理解できず、まるで火星にでも行ったかのような感じがしましたよ。使ったことの無い言葉ばかりで戸惑いました。」説教者にしてみれば、耳の痛い話ですね。生活に密着していない言葉を使って、難解な、わけのわからない話をしていたら、聞いている人は、別の言語を聞いているかのように感じてしまうでしょう。
 相手に合わせ、相手の理解できる言葉で語ることが大切なのです。
 
(2)神の大きなみわざ
 
 では、弟子たちは、それぞれの国言葉で何を語ったのでしょうか。「神の大きなみわざ」を語ったと書かれていますね。
 神の大きなみわざ、それは、私たちの救いのために十字架で死なれたイエス様が三日目によみがえらって今も生きておられる、ということにほかなりません。イエス様は、よみがえられたことによって、御自分が神のもとから来たまことの救い主であること、また、イエス・キリストを信じる人はだれでも新しいいのちを持って生きることができることを証明されたのです。イエス様は、弟子たちに、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、地の果てにまで、わたしの証人となります」と言われましたが、その通りに、聖霊に満たされた弟子たちは、イエス様の復活の証人として大胆に語り始めたのです。
 
3 新しい言葉
 
 さて、今日の箇所で最も大切なのは、4節に書かれているように、弟子たちが「御霊が話させてくださるとおりに」話したということです。といっても、弟子たちが恍惚状態になって操り人形のように語ったということではありません。聖霊が弟子たちを新しい言葉を語る者にしてくださったということです。
 皆さん、舌を制御することは、本当に難しいですね。言葉で失敗したことがないという人は、いないと思います。もし、自分が一日に発する言葉を録音してみたら、冷たい言葉、傷つける言葉、自分勝手な言葉、無責任な言葉を語っていることがわかるのではないでしょうか。
 ヤコブの手紙3章2節ー4節にはこう書かれています。「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です 馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。」
 また、箴言12章18節には「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす」、箴言15章4節には「穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌はたましいの破滅」と書かれています。思わずうなずいてしまいますね。
 私たちは、人を癒やし生かす言葉を語りたいと思っても、かえって、つい人を傷つけ破壊するような言葉を発していまいます。いくら自分で押さえようと思っても、否定的な言葉が内側から思わず出てきてしまうのですね。
 しかし、マルコ16章17節で、イエス様は「信じる人々は、新しいことばを語るようになる」と約束してくださいました。その約束通り、聖霊に満たされた弟子たちは新しい言葉を語り始めたのです。私たちもイエス様を信じた時、聖霊が内に宿ってくださり、内側から新しくしてくださり、新しい言葉を語る者に変えてくださるのです。
 その新しい言葉とはどのような言葉でしょうか。
 
(1)人と通じ合う言葉
 
 弟子たちが聞いている人々の国言葉を話したというのは、今まで通じなかった人と通じ合えるようになったことを象徴的に表す出来事です。
 その反対の出来事が、旧約聖書の創世記11章に書かれていましたね。バベルの塔の出来事です。人々が神のようになろうとしてバベルの地に高い塔を建て始めましたが、お互いの言葉が通じなくなってしまったために、塔の建設は頓挫し、皆散り散りになっていった、という話でした。皆さん、神のようになろうとした代償は、高くつきますね。お互いが理解し得ない存在になってしまったというのですから。高慢は、必ず人間関係を破壊していきます。
 しかし、救い主イエスを信じる人々は、聖霊によって互いに通じ合える言葉を語ることができるようになるというのです。
 パウロは、エペソ2章14節で、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし」と書いています。キリストを信じる人々が集まって教会が誕生し、福音が世界中に伝えられていく中で、民族、人種、言葉、文化、習慣、社会的地位などの様々な違いを乗り越えて、皆がキリストにあって神の家族、兄弟姉妹として互いに通じ合う者とされていくのです。そして、最終的には、ともに天の御国に住む者とされているのですから、感謝ですね。
 
(2)人を生かす言葉
 
 弟子たちが新しい言葉で語ったのは「神の大きなみわざ」でした。神様が私たちのために完成してくださった永遠の救いのみわざです。つまり、新しい言葉とは、神様の素晴らしさをたたえる賛美と感謝の言葉であるとともに、聞いた人々に救いといやしといのちと希望を与える言葉なのです。
 それは、聖霊が語らせてくださる言葉です。いつどこで何をどう語ったらいいのだろうかと自分で心配する必要はありません。聖霊が、語るべき時に語るべき相手に語るべき言葉を語らせてくださるでしょう。
 ですから、私たちは、自分の気負いを捨て、聖霊に身を委ね、キリストの恵みと愛の中で生きていきましょう。
 
 今日の箇所では、聖霊が臨まれた時に大きな響きが聞こえ、炎のような舌が見えました。それは、信じる者に聖霊が与えられることを、まず最初にはっきりわかる形で示すためだったのでしょう。この後、同じ出来事が再び起こったという記録はありません。しかし、イエス・キリストを信じる一人一人には、ペンテコステの出来事と同じように、必ず聖霊が宿ってくださるのです。何も聞こえず何も見えなくても、その事実は決して変わることはありません。ですから、その聖霊のみわざにゆだね、期待しながら歩んでいきましょう。