城山キリスト教会礼拝説教          
二〇二一年七月二五日             関根弘興牧師
         使徒の働き二章一四〜二四節、三七〜四二節
 使徒の働き連続説教3
    「最初の説教」
 
 14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』
22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。(以下、36節まで省略)」
  37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。(新改訳聖書第三版)
 
 前回の箇所には、五旬節(ペンテコステ)の日に起こった不思議な出来事が書かれていましたね。イエス・キリストの弟子たちがエルサレムで一つ所に集まって祈っていると、天から激しい風が吹いてくるような響きが起こり、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまりました。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで神の大いなるみわざを語り出したというのです。
 5節に「エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいた」とあります。その人々が大きな物音を聞いて何事が起こったかと集まってきたのですが、弟子たちが自分たちそれぞれの国ことばで流暢に話しているので驚いてしまいました。中には、弟子たちが酔っ払っているのではないかとあざ笑う人もいました。そこで、使徒と呼ばれる十二弟子が群衆の前に立ち、ペテロが語り始めたのです。これは、教会の歴史に残る一番最初の説教です。14節から36節までの長い説教ですが、どんな内容でしょうか。
 
1 ヨエルの預言
 
 説教で大切なのは、聖書の真理をわかりやすく伝えることです。でも、皆さん、ペテロの説教は、なかなか難しいですね。旧約聖書から三つの箇所を引用して語っているのですが、私たちには何のことやらチンプンカンプンですね。
 でも、この時の聞き手のほとんどはユダヤ人でした。ユダヤ人は幼い頃から、旧約聖書を読み聞かされていましたから、普通の人でも旧約聖書の内容をよく知っていました。ですから、ユダヤ人たちに対しては、彼らが大切にしている旧約聖書の言葉を引用しながら語るのが一番良い方法だったのです。
 ペテロは、まずヨエル書2章28節ー32節を引用しました。酔っ払っているんだろうとあざ笑う人がいたから「ヨエル(酔える)」書を引用したわけではありませんよ。ヨエルは預言者です。「預言者」とは、神様の言葉を預かって語る人のことです。
 ヨエルは、こう預言しました。「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」ペテロは、この言葉を引用して、「今日、この預言のとおり、神様の霊がすべての人に注がれるという出来事が始まったのだ。今は、終わりの日なのだ」と語ったのです。
 聖書は、この世界には初めと終わりがあると教えています。終わりの日とは、一日だけを意味するのではなく、世界の終末が近づいている期間だととらえていいでしょう。ヨエルは、その終わりの時には様々な困難があるけれども、旧約時代からずっと待ち望んでいた救い主が来てくださり、信じる人は、みな救われて、神様の霊が注がれるのだと預言しているのです。
 そのヨエルの預言から数百年後、ペテロたちの時代に救い主イエス様が来てくださいました。また、イエス様を信じる一人一人の上に聖霊が注がれるということが目に見える形で示されました。ですから、ペテロは、今、ヨエルの預言どおりのことが起こったのだ、終わりの時代を迎えているのだ、と語ったわけです。
 と言っても、私たちは動揺したり心配する必要はありません。この世界がいつ終わるのかは私たちは知る必要がない、神様にお任せして落ち着いて生活していればいいのだ、と聖書は教えています。終わりの日は明日来るかもしれないし、何千年も後に来るのかもしれないけれど、神様が守ってくださることを確信して安心して生きていきなさい、というのです。
 ところで、旧約聖書の中には、一時的に神の霊が臨み、不思議な力を受ける、ということがありました。たとえば、怪力の持ち主サムソンやダビデなどもそういう経験をしました。しかし、終わりの日には、特別な特定の人ではなく、すべての人に神の霊が注がれると神様は約束されたのです。そして、聖霊は、人々に預言をさせ、幻や夢を見させてくださるというのですね。これは、どういうことでしょうか。
 まず、「預言」ですが、これは、先ほどもお話ししたように「神様の言葉を預かって語る」ことです。ヨハネ14章26節で、イエス様はこう言われました。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」聖霊は、すべてのこと、つまり、聖書に書かれている父なる神様とイエス様の言葉やみわざを思い起こさせてくださいます。聖霊によって、私たちは聖書の言葉に教えられ、励まされ、イエス様の救いの広さ、高さ、深さ、また、神様の愛と恵みの豊かさを知ることができます。そして、だからこそ、人々をいやし、励まし、希望を与えることばを語ることができるようになるのです。
 それから、「幻を見る」とありますね。
 「幻」とは「ビジョン」とも言いますが、神秘的で不思議な幻影を見るという意味ではありません。「目標」のようなものだと思っている人はたくさんいますが、そうでしょうか。
 もうだいぶ前ですが、ある著名な牧師先生から、こう言われたことがありました。「関根君、君には才能がある。しかし不足しているものが二つある。それはビジョンと努力だ。」私は「そのとおり」と思いましたね。
 この教会がまだ開拓途上の時、私は、いろいろなセミナーに参加しました。出来たばかりの教会で人も少なく、どのようにしたら人が集まって来るのだろうかと焦っていたのです。あるセミナーの講師が「明確なビジョンを持って、それを告白し続けなさい」と教えていました。そこで、私は、セミナーから戻ると、早速、聖書の裏表紙にビジョンを書き留めることにしました。「ビジョン1 数年の内に礼拝出席者百人になる。ビジョン2 毎週新しい人が教会に来る。ビジョン3 十年後に千人教会達成。」このように聖書の裏表紙に書いて、毎日、それを口に出して唱えていたのです。しかし、しばらくして、ふと思いました。「待てよ。私は、これをビジョンと言っているけれど、これは単なる自分の願望であり、ただの自己満足の思いつきではないか」と。聖書が教える幻、ビジョンとは、自己満足のために自己実現の目標を設定することではないはずだ、と思ったのです。
 もちろん、目標を立てることは悪いことではありませんし、大勢の人が教会に来るのは素晴らしいことです。しかし、ペテロやパウロや弟子たちは「数年内に何千人教会を達成」などという標語を掲げて福音を伝えていったでしょうか。彼らは、ただ聖霊に導かれるままに導かれた場所に行き、聖霊に示されたことを語り、行なったのです。その結果、多くの人々が信じるという素晴らしい経験を味わうこともあれば、逆に、苦しみにあったり、行き詰まって失望することもありました。でも、彼らは、ただ神様に従って歩んでいったのです。
 では、ヨエルの預言した「幻」とは何を意味しているのでしょうか。それは、エレミヤ書に記されているように「あなたに将来と希望を与える神様からの幻」です。出口が見えないような状況の中でも、聖霊は、将来の希望を与えてくださるのです。
 今は、コロナ禍で不自由を強いられていますね。でも、私は、幻を見ています。それは単に人数が増えるというようなことではなく、この毎週の礼拝を通してイエス様が与える救いの素晴らしさを味わい知る人たちが起こされていくという幻です。また、今、困難の中にある人たちが、支えられ、勇気を持って一歩踏み出し、永遠の希望をもって主を見上げて生きていくという幻です。
 それから、「老人は夢を見る」とあります。「夢なら毎晩見ています」と言われるかも知れませんね。でも、ヨエルが言う夢とは、その夢のことではありません。人生に楽しみや喜びを与えてくれるものです。夢のない人生なんてつまらないですね。年を取ると、いろいろなものが失われていきます。健康を失い、社会的立場を失い、愛する者を失うこともあります。失うことばかりが多くて夢など何もない、と思うこともあるかも知れません。しかし、私たちは、永遠の御国で神様とともに生きるという夢が与えられています。そして、その夢が必ず実現することを確信して生きていくことができるのです。
 
2 救い主イエス
 
 さて、ペテロは、次に、22節ー23節で、最も伝えたい福音の中心的な内容を語っています。イエス様が力あるわざと不思議としるしを行われたこと、それによってイエス様が神様に遣わされたまことの救い主であることが示されたこと、そして、イエス様は神の御計画に従って十字架につけられたけれども、死を打ち破ってよみがえられたということです。
 そして、ペテロは、続けて、25節から、ユダヤ人が特に尊敬していた先祖の一人であるダビデ王が書いた詩篇16篇と110篇を引用しています。この二つの詩篇の中で、ダビデは、「将来来られる救い主は、死んだままでいることはない」ということと「救い主は、神の右の座に着座される」ということを預言しています。ペテロは、「ダビデがここで預言していたのは、イエス様のことだ」と説明しました。そして、32節-33節でこう宣言しています。「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」
 
3 救われるために
 
 そして、説教の最後に、ペテロは、「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」と厳しく語りました。
 もちろん、イエス様を十字架に付けた直接の責任は、ユダヤの宗教指導者たちにあります。彼らは、イエス様をねたみ、陥れて、逮捕し、裁判で有罪の判決を下し、群衆を扇動して十字架につけさせたのです。しかし、他の人々もイエス様を救い主と認めず無視していたという点では、宗教指導者たちと大きな違いはありませんでした。ですから、多くの人がペテロの言葉に心を刺されて、「私たちはどうしたらよいでしょうか」、つまり、「罪を赦されて、救われるためにはどうしたらいいのでしょうか」と尋ねたのです。
 すると、ペテロは、答えました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」ペテロは、ここで、二つの勧めと二つの約束を語っていますね。
 
(1)二つの勧め
 
@悔い改めなさい
 
 「悔い改める」とは、「方向を変える、向き変える」という意味です。今までイエス様に背を向けて生きてきたけれど、向きを百八十度変えて、イエス様の方を向いて生きていきますという応答です。聖書には「悔い改めなさい」という言葉が何回も記されています。なぜでしょうか。それは、向きを百八十度変えたその場所に、愛と恵みとまことに富むイエス・キリストがいてくださるからです。もし向きを変えても何もなければ、向きを変える意味がありませんね。「悔い改め」とは、神なしの世界から神ありの世界へ向きを変えることです。救い主などいるはずがないという世界から、イエス様こそ救い主であるという方向に向きを変えるのです。自分が頑張るしかない世界から、イエス様の恵みの中へ向きを変えるのです。この地上だけのことしか考えない世界から、永遠を見つめて生きる世界へ向きを変えるのです。皆さん、神様は、私たちの後ろ姿は見飽きておられます。私たちが神様の方に向きを変えて正面の姿を見せるのを待っておられるのです。
 
Aバプテスマを受けなさい
 
 もう一つの勧めは、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさいということです。バプテスマとは洗礼のことです。イエス様の方に向きを変え、イエス様を救い主と信じたしるしとして洗礼を受けることをペテロは勧めているのです。誤解しないでいただきたいのですが、洗礼を受けることは救いの条件ではありません。ただイエス様を救い主として信じさえすれば救われます。洗礼は、イエス様によって罪が赦され、きよめられ、新しいいのちによって生かされるようになったことを象徴的に表す儀式なのです。
 
(2)二つの約束
 
 そして、ペテロは、悔い改めてイエス様を信じて洗礼をうける人々に二つのことを約束しています。
 
@罪が赦される
 
 人が自分の力でどうしてもできないことが二つあります。一つは、自分の罪を消すこと、もう一つは、死から逃れることです。だから、救い主が必要なのです。イエス様は、私たちのすべての罪を背負って私たちの受けるべき罰を代わりに受けてくださいました。そのイエス様を信じるなら、私たちは罪を赦され、罪のない者と認められるのです。
 
A聖霊を受ける
 
 罪を赦され聖なる者とされた私たちの内には、聖霊が宿ってくださいます。それは、神様の永遠のいのちによって生かされるようになるということでもあります。私たちは、この地上で生きている間も、また肉体が滅びた後も、永遠に神様とともに、神様の愛と恵みの中で生きる者とされるのです。
 この使徒の働き2章で弟子たちに聖霊が下ったときには、大きな響きや炎の舌という不思議な現象が起こりました。それは、天に昇られたイエス様が聖霊を送ってくださった証拠を人々に示す必要があったからでしょう。でも、特別なしるしや不思議な出来事がなくても、イエス様を救い主と信じるすべての人に聖霊が与えられるのです。
                         
4 ペテロの説教の結果
 
 さて、その日、ペテロの説教を聞いた三千人がイエス様を信じ、洗礼を受けたと書かれています。すごい人数ですね。信じた人たちは、どのような生活をしていたでしょうか。
 
(1)使徒の教えを堅く守っていた
 
 使徒の教えとは、今で言えば、聖書です。みなさん、教会は聖書が基本です。教会は、聖書を離れては教会ではありません。もし、聖書に書いていないことを語るのであるなら、そこから、教会のいのちは失われていくのです。
 
(2)交わりを大切にしていた
 
 彼らは共に集まり、パンを裂き、祈っていました。また、46節から47節には「毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し」と書かれています。クリスチャンは、神様をあがめ、キリストを救い主として信頼しているという点で心が一つになっています。そして、皆、神の子ども、兄弟姉妹として神の家族の一員です。互いに愛し合い、赦し合い、励まし合い、助け合いながら、キリストのからだである教会を建て上げていく者とされています。ですから、父なる神様やイエス・キリストとの交わりを大切にするとともに、お互いの交わりも大切にするのです。「パンを裂き」というのは、聖餐式のことです。十字架にかかってくださったイエス様の愛と恵みを覚えるために行う儀式です。お互いにイエス様の十字架によって罪赦された者であることを覚えながら、互いに神様に祈り、賛美し、また自分の持っているものを提供して助け合っていたのです。
 そのようなクリスチャンたちの姿は「すべての民に好意を持たれた」と47節に書かれています。そして、「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」と書かれています。別の訳では、「ところが主のほうでは、救われる人々を毎日仲間に加えてくださった」となっています。
 教会が聖書の教えを大切にし、心を一つにして神様を礼拝し感謝と賛美と祈りをささげ、互いに愛のある交わりを保っていくならば、神様が救われる人々を仲間に加えてくださるというのです。
 ですから、特別伝道集会やクルセードで人を集めたり、いろいろな企画を立てることよりも、神様が教会を御覧になって「皆が喜んで礼拝し、賛美と感謝があふれているな。よし、ここに人を送ろう」と思っていただけるような教会であることが大切なのですね。この城山教会も神様にそう思っていただけることを期待して、幻と夢を見つつ歩んで行こうではありませんか。