城山キリスト教会礼拝説教          
二〇二一年八月八日              関根弘興牧師
               使徒の働き三章一節〜一〇節
 使徒の働き連続説教4
    「美しの門にて」
 
 1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。(新改訳聖書第三版)
 
 先週は、五旬節すなわちペンテコステの祭りの日に弟子たちに聖霊が下り、ペテロが語った最初の説教を聞いて、なんと三千人もの人たちがクリスチャンになったという出来事を読みました。弟子たちは、聖霊の力を受け、聖霊によって一つ心となって、共に祈り、礼拝をささげ、神様を賛美し、互いに神様の恵みを分かち合っていきました。
 ですから、このペンテコステの日は教会の誕生日とも言われます。「教会」という日本語の訳を聞くと、ただ聖書を教える場所のような感じがしますが、原語のギリシャ語では「エクレシア」、つまり「神様に召された人々」という意味です。イエス・キリストの十字架と復活を信じ、聖霊を受けた人々が集まっているなら、そこが教会なのです。そして、そこで人々が救いの恵みに感謝し、賛美と喜びをもって神様を心から礼拝し、互いに愛し、助け合っているなら、神様の方で、そこに人々を導いて仲間に加えてくださるというのです。
 ところで、聖書は、人が人として生きていくための三つのあるべき関係を教えています。
 
(1)神様との関係:天地万物の創造者として崇め、礼拝しなさい。
(2)人との関係:自分を愛するように隣人を愛しなさい。
(3)物との関係:神様から与えられた物を、自分のために、また、他者のために適切に用いなさい。
 
 この三つの関係が整っているときには、人生に調和と平安が生まれます。しかし、この関係がずれたり、壊れてしまうと、人生に様々な問題が生じてきます。周りを見回すと、三つの関係に問題があるケースをたくさん目にしますね。
 たとえば、神様が礼拝の対象ではなく、自分のために利用する対象となっていることがあります。
 こんな笑い話があります。ある男性が大病を患い、一生懸命お祈りをしていました。「神様、助けてください。助かったあかつきには、家にあるお金を全部を神様にささげますから。」すると、それを聞いた奥さんが、血相変えて旦那に詰め寄ったのです。「あんた、どこにそんなお金があるのよ」そうすると、旦那が、「しっ、黙っていろ。いま神様をだましているんだから」なんだか滑稽ですね。
 「苦しいときの神だのみ」という言葉がありますね。もちろん、苦しいときに神様に助けを求めることは、悪いことではありませんし、自然な姿です。しかし、神様をただ自分の都合のいいように利用する便利屋さんのように扱っているだけでは、本当の神様の愛や恵みを知ることはできないでしょう。神様は、私たちの状況如何に関わらず、いつでもどこででも礼拝されるべき方なのです。
 その神様との関係がずれていると、人との関係もずれてしまうことになります。聖書は「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と教えていますが、まず、ありのままの自分が神様に愛され、受け入れられているということがわからないと、自分自身を愛することもできないし、他の人を愛することもできません。また、神様に背を向けていると、自分の価値がわからなくなってしまうので、人から称賛され、脚光を浴びることで優越感を持とうとしたり、自己卑下して劣等感にさいなまれることになります。ありのままの自分が受け入れられなずに、いつも自分と他の人を比較して優劣を付けたがるのです。また、自分で自分の人生を支配しようとする高慢な思いを持って、あたかも自分が神であるかのように振る舞ってしまうことがありますし、神様の代わりに人を崇めて、その人に支配されてしまうこともあるのです。
 皆さん、あなたは、あなた以上ではないし、あなた以下でもないんです。あなたはあなたなのです。まず、そのあなたをありのまま受け入れてくださる神様の愛を知って、自分を受け入れ、また、他者を受け入れて生きていくことができるようになることを神様は願っておられるのです。
 では、物との関係はどうでしょうか。物は、人が賢く用いるために神様が与えてくださったのです。しかし、いつのまにか、物が愛する対象になったり、物が礼拝の対象になったりすることがあります。物質主義の波の中で、物さえあれば万事OKという発想が出てくるのです。でも、そのような人生は、不安定で壊れやすいものです。 私たちは、与えられている様々な物を適切に管理し、人間生活の営みのためにそれを有益に利用していくことが求められているのです。
 さて、最初にエルサレムで誕生した教会には、神様を愛し、互いに愛し合い、自分に与えられた物を用いて互いに助け合うという麗しい姿がありました。もちろん不完全な人間の集まりですから、問題や軋轢が生じることもありましたが、神様は教会を通して、様々な素晴らしいみわざを表してくださったのです。その一例が今日の箇所の出来事です。
 
1 美しの門
 
 今日の出来事は、エルサレムの神殿の「美しの門」という名の門のところで起こりました。
 当時のエルサレム神殿は、金や大理石が豊富に使われ、パレスチナ随一を誇る壮麗な建物でした。神殿には、いくつもの門がありましたが、中でも「美しの門」は、分厚い金銀と真鍮で飾られた見事な門だったのです。
 そこに、生まれつき足のなえた人が運ばれて来ました。神殿に入る人たちから施しを受けるためです。この人には、それしか生活の糧を得る手段がありませんでした。当時、施しをすることは、大切な善行の一つに数えられていましたから、この人もある程度の施しは受けることができていたのでしょう。
 ただ、壮麗な美しい門と、薄汚れた足の不自由な人というのは、なんともアンバランスな光景ですね。
 でも、今を生きる私たちはこうした光景をいつも見ているように思います。今は豊かさの時代です。華やかな時代です。美しい建物があちこちに建てられ、「美しの門」のような華やかさがあります。しかし、その傍らに自分の足で歩むことのできない人たちがいることも事実なのです。科学も技術も進歩しました。教育水準は世界でも屈指の国になりました。私たちはその恩恵をたくさん受けていますが、一方では、自分はどう生きていったらよいのだろう、自分は本当に生きる価値があるのだろうか、生きている意味があるのだろうか、と前に向かって歩くことができずに座り込んでいる人がたくさんいます。つまり、私たちは「美しの門」を造ることはできても、人間の永遠の救いということについては、まったく無力なのですね。
 
2 イエス・キリストの名によって
 
 さて、そこにペテロとヨハネがやって来ました。以前の彼らだったら、「この人は、自分か先祖が罪を犯したから、その罰で歩けなくなったのだろう。まあ、施しぐらいはしてやろう」ぐらいに思ったかもしれません。
 しかし、今は違います。この人が施しを求めると、ペテロは、ヨハネと共にこの人を見つめ、きっぱりとこう言ったのです。「私たちを見なさい」と。なんと大胆な言葉でしょう。皆さん、「私たちを見なさい」とはなかなか言いづらいですね。「私でなくお隣の方を見てください」、これなら言えるかもしれませんが、「私たちを見なさい」というのは、何かの自信がなければ言えません。その力強い言葉を聞いて、足の萎えた人は、施しをたくさんもらえると期待したことでしょう。
 しかし、ペテロは続けて、「金銀は私にはない」と言ったのです。普通は、「金銀は私にはないから、私たちを見ないでくださいね」と言うでしょう。
 クリスチャンというのは、不思議な人たちですね。自分には何もなくても、「私たちを見なさい」と大胆に語ることができるのですから。なぜでしょう。なぜなら、素晴らしいものを持っているからです。ペテロは、「私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」と言いました。クリスチャンが持っているのは、「イエス・キリストの名」なのです。
 「名」には、権威があります。例えば、この教会は宗教法人を取得しましたが、その認可証には当時の知事の署名があります。もし、署名がなければ、ただの紙切れです。有効とは認められません。知事の名によって、許認可権を付与することができるわけです。
 皆さん、私たちは、すばらしいイエス様の御名をもっています。そして、イエス様の御名には、すべてのものに優る権威があります。マタイ28章18節で、イエス様はこう言われました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」イエス様の御名は、いっさいの権威が与えられた御名であり、すべての人に救いを与えることのできる御名です。だから、人を立ち上がらせることができるのです。
 また、イエス様は、ヨハネ14章14節で「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」と約束されました。だから、私たちはイエス様の御名によって祈るのです。御名によって祈り、その祈りが答えられることを期待することができるのです。
 ただし、忘れないでください。「イエス様の御名によって祈る」とは、イエス様の御性質に沿った祈りをするということでもあります。私たちは、何でも率直に神様に祈り求めていいのですが、自分勝手な願いや、人を呪ったり貶めたりする祈りには、神様が「NO」と言われる場合もあります。また、「わたしが最善の時に最善のことを行うから待ちなさい」と言われることもあります。いろいろな祈りの中で神様と応答していくうちに、私たちは、しだいにイエス様の御性質に沿った祈りをすることができるようになっていくでしょう。聖霊が私たちを成長させ、祈りを教えてくださるからです。
 さて、神殿には、他にも病気の人や体の不自由な人がたくさんいたでしょうが、ペテロたちは、聖霊に導かれて、美しの門にいた人に向かって「ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」と語り、その人の右手を取って立たせました。「するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った」と書かれていますね。
 それを見た人々は驚いてペテロとヨハネのもとに集まってきました。その人々に向かって、ペテロはこう語りました。「この人が歩けるようになったのは、私たちの力や信仰深さによるのではありません。十字架にかかって死んだイエス様を神様がよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、この人を歩けるようにしたのです。神様が旧約聖書の預言者たちを通して語っておられた救い主についての預言が実現したのです。だから、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」4章4節を見ると、このペテロの説教を聞いて信じた人が男だけで五千人ほどになったと書かれています。
 そこに神殿を管理する祭司たちや宗教指導者たちがやってきました。彼らは、イエス様を救い主だと認めず、十字架につけた張本人です。ですから、「イエス様が復活した。イエス様こそまことの救い主だ」と宣べ伝えているペテロたちを逮捕しました。そして、翌日、大祭司、民の指導者、長老、学者たちが集まり、使徒たちを真ん中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」と尋問したのです。
 すると、ペテロは、聖霊に満たされて、こう語りました。「この人の足が直ったのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたイエス・キリストの御名によるのです。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」
 ペテロは、イエス様の御名にこそすべての人を救う力があると確信をもって宣言したのです。
 十三世紀、イタリアの聖人で、アッシジのフランシスコという修道僧がいました。彼がローマ教皇に謁見したとき、教皇は、彼に数々の宝物を見せ、誇らしげにこう言ったのです。「私は、あの使徒たちのように『金銀は私にはない』などとは言いかねるようだ。」すると、フランシスコはこう答えたそうです。「父よ、もっともでございます。同様に私どもは、『ナザレのイエスキリストの名によって歩け』とも言えなくなりましたね。」
 教会は、建物を誇り、富を誇り、暮らし向きの自慢をする場所ではありません。何がなくても、イエス・キリストの名によって互いに祈り合い、救われ、癒やされ、喜びをもって生かされていく場所なのです。イエス様は今も生きておられるからです。
 クリスチャンの方、もう一度確信してください。私達は、すばらしい救いの御名、イエス様の御名を持ち、その御名によって支えられ、守られているのです。
 さて、ペテロたちを尋問した宗教指導者たちは、実際にイエス・キリストの御名によって癒やされた人がいて、また、そのことがエルサレム中に知れ渡っていたので、ペテロたちに反論することができませんでした。そこで、「これからは、イエスの名によって語ったり教えたりしてはならない」と脅して二人を釈放しました。ペテロは「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」ときっぱり答え、仲間のところに戻って報告しました。仲間たちは心を一つにして、「主よ。私たちにみことばを大胆に語らせてください。イエス様の御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください」と祈り、聖霊に満たされて、その後も救い主イエス様のことを語り続けていったのです。
 
3 いやされた人
 
 ところで、いやされた人は、どんな人だったでしょうか。4章22節に「四十歳あまりであった」と書かれていますから、四十年以上も歩くことができずにいたのです。
 この人に何か立派な信仰があったのでしょうか。いいえ、そんなものはありませんでした。特別祈り深い人だったでしょうか。違います。いやしを求めていたでしょうか。いいえ、一生この生活を続けるしかないとあきらめて、施しを求めていたのです。特別な努力や修行をしたわけでもありません。彼はただ「イエス・キリストの名によって歩きなさい」という言葉を聞いて、単純にペテロが差し出した手を借りて立ち上がろうとしただけです。つまり、彼がいやされたのは、ただ神様の一方的な恵みによったのです。
 聖書が一貫して教えているのは、私たちの救いは、いつも神様の一方的な恵みによってなされるということです。救われるための条件など一切ありません。神様は、「あなたが立派になったら救ってあげよう」とか「頑張って私の言葉に従ったら救ってあげよう」などとはおっしゃいません。私たちは、ただ差しのばされた救いの手に自らの手を伸ばせばいいのです。
 さて、歩き出したこの人の人生はどう変わったでしょうか。もちろん、歩けることのすばらしさを知りました。踊ったり、跳ねたり、喜びに満たされて神様を賛美しました。
 第二コリント5章17節には、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」とあります。イエス様の救いを受け取った人は、新しい人生を歩むようになるのです。
 しかし、どうでしょうか。具体的な生活を考えると、この人は、もう歩けるのですから、このまま施しを求めて生きていくわけにはいきません。自分で仕事をして生活の糧を得なければならなくなったのです。喜びの後で、将来に対する不安も感じたかもしれません。
 時々、クリスチャンになっても大丈夫だろうかと心配する方がいます。毎週礼拝に出席することなどできるだろうか。お墓の問題はどうなるのだろうか。クリスチャンになったら、様々な制約を受けるのではないだろうか。やりたいことができなくなるのではないだろうか。いろいろ心配してしまうわけですね。 もちろん、クリスチャンになったが故に、以前では考えなかったことを考え、悩むこともあります。誠実に生きようと考えたとき、これまで生活のスタイルを見直さなければならないこともあるでしょう。
 でも、心配無用です。詩篇37章5節には、「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」とあります。また、ローマ9章33節には、「彼に信頼する者は、失望させられることがない」と書かれています。いろいろな問題に直面することがあっても、主が導き、知恵を与え、最善のことを行ってくださるでしょう。ですから、主に信頼するなら、決して失望に終わることはありません。かえって、主の愛の豊かさを味わっていくことができるのです。
 主イエス・キリストの御名によって、今週も生かされていきましょう。