城山キリスト教会 礼拝説教          
二〇二一年八月二二日             関根弘興牧師
            使徒の働き四章三二節〜五章一一節
 使徒の働き連続説教5
    「偽りがもたらすもの」
 
 32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子と呼ばれていたヨセフも、37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
 1 ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、2 妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。4 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」5 アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。6 青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。 7 三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずに入って来た。8 ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」彼女は「はい。その値段です」と言った。9 そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」10 すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。入って来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。11 そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。(新改訳聖書第三版)
 
 ペンテコステは、ユダヤの三大祭りの一つですが、その日、弟子たちの上に聖霊が下り、弟子たちが様々な国の言葉で神様の恵みを語り始めるという不思議な出来事が起こりましたね。その日から、弟子たちは、イエス様こそまことの救い主であることを大胆に宣べ伝え始めました。そして、言葉だけでなく、弟子たちを通して神様の驚くべきみわざが行われるようになったのです。前回の箇所では、神殿の美しの門で物乞いをしていた生まれつき足の不自由な人に、ペテロが「イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言うと、その人がたちまちいやされたという出来事が起こりましたね。
 そういう弟子たちの姿を苦々しい思いで見ていたユダヤ当局は、彼らを逮捕し、「これ以上、イエスの名によって語ってはならない」と脅しましたが、弟子たちは、屈せずに、神様の導きと守りを確信して、さらに大胆にイエス様の救いを宣べ伝えていったのです。
 さて、ペンテコステの日から短い間に、クリスチャンの数は爆発的に増えていきました。ペンテコステの日だけで三千人、足の不自由な人が癒やされた日には男だけで五千人がイエス様を信じたと書かれています。
 私たちは、こういう記事を読むと、すぐに同じような結果を求めて方法論を探ろうとすることが多いですね。「こうすれば、あなたも成長する」というような「How toもの」はいつも人気があります。こういうやり方をすれば人が来るのではないか、このように工夫すれば教会は成長するのではないか、といろいろな方法を考えるわけですね。もちろん、それが悪いわけではありません。人々が教会に来やすくなるように配慮したり、教会のことを知ってもらうために様々な工夫をすることは大切です。
 しかし、肝心なことを忘れてはなりません。第一コリント12章3節に「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」と書かれています。人がイエス・キリストを信じるのは、私たちの知恵や力によるのではなく、聖霊によるのです。
 また、この使徒の働きの2章44節ー47節には、こう書かれていましたね。「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」クリスチャンたちが心をひとつにして神様の恵みを喜び、賛美し、互いに愛し合っているなら、「主が救われる人々を仲間に加えてくださる」というのです。
 つまり、大切なのは、、神様を愛し、賛美し、主の恵みに生かされていることを喜びあう教会であることです。そういう教会を神様は喜び、聖霊が豊かに働いてくださるでしょう。しかし、もし教会からその麗しい姿が失われてしまったら、どんな方法論も虚しいものになってしまうのです。
 
1 初代教会の姿
 
 さて、今日の箇所の最初にも初代教会の姿が記されていますね。「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。」
 この箇所を読んで、こう思う方がいるかもしれませんね。「自分の持ち物をすべて捧げなくてはならないなんて、私にはできない。クリスチャンになるのはやめよう」と。でも、ここに書かれているのは、そういうことではありません。
 5章4節でペテロがこう言っていますね。「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。」つまり、私たちは神様から与えられた様々なものを持っていますが、それをどのように使うかは、強制されたり、規則で決められたりするのではなく、自分で自由に決めることができるということなのです。
 また、第一コリント13章3節にはこう書かれています。「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」つまり、ただ持ち物を全部与えればいいというのではなく、動機が大切だというのですね。
 もし、強制されて嫌々ささげるのであれば、あるいは、自分が立派なクリスチャンであるかのように見せるためにたくさんささげようとするのであれば、それは、神様に喜ばれるささげものとはならないでしょう。
 ピリピ2章13節に「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」とあります。大切なのは、全員が一律に同じことをするのではなく、一人一人が神様に与えられた志に従って、愛をもって自分のできることを行っていくということなのです。
 これは今も同じです。教会では献金がありますが、これは決して強いられて行うものではないのです。
 さて、今日の箇所で大切なのは、次の二つの言葉です。
 
(1)「だれひとりその持ち物を自分のものと言わず」(32節)
 
 これは、自分のものを一切持たないとか、自分のものを全部ささげて手元に何も残さないということではありません。「自分のものと言わない」のです。
 これは、逆のことを考えるとわかりやすいかも知れません。人は、「私のものは私のもの、あなたのものも私のもの」というような奪い合う態度で生きてしまう傾向がありますね。また、いつも受けることしか考えない生き方をすることもあります。それは、突き詰めていくと、「あなたがどうあろうと関係ない。
自分さえよければよい」という生き方です。
 第一ペテロの手紙4章10節には「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」と書かれています。私たちは自分に与えられたものを管理し、生かしていくことが勧められているわけです。初代教会の姿は、自分の持っているもの管理し、自分だけのものとして用いるのではなく、互いに仕えることのために用いていく姿があったのです。
 
(2)「彼らの中には、ひとりも乏しい者はなかった」(34節)
 
教会に集まってくる人たちの中には、経済的に富む人もいれば、貧しい人もいました。みんなが同じものを着て、同じ食べ物を食べて生活をしていたわけではありません。
職業も暮らし向きも様々です。しかし、「ひとりも乏しい者はなかった」というのです。
 詩篇23篇に「主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません」とありますが、神様は、乏しい者がないように、それぞれの人に志を与え、自分の持っているものを必要な人に与えるえることができるようにしてくださったのですね。イエス様によって集められた教会には、経済力や社会的な立場の違いを越えて、誰ひとり乏しさを感じさない豊かさがあったというのです。教会は、誰もが何かの引け目を感じさせることのない場所となっていきました。
 
2 神への偽り
 
 しかし、その麗しい姿の教会の中に、問題が起こりました。献金に関して偽りを言い、神様を欺こうとした者がいたというのです。
 今日の箇所には、教会に献金をした二組の人物が出てきますね。
 まず、4章の後半では、バルナバと呼ばれるヨセフが自分の畑を売った代金をささげています。この人は、使徒たちが「バルナバ」つまり「慰めの子」と呼んでいたぐらいですから、教会の中で信頼され、良い働きをしていたのでしょう。後に、パウロと伝道旅行に出かけた人ですので、どうぞ覚えておいてください。
 次に、5章で、アナニヤとサッピラの夫婦が地所を売った代金をささげに来ました。彼らには、もしかしたら、バルナバに対抗しようとする思いがあったのかもしれません。バルナバが自分の畑を売って代金をささげたということは、まわりのクリスチャンたちに伝えられていったでしょうし、使徒たちも喜んでいたことでしょう。それで、アナニヤたちは、自分たちも教会の中で脚光を浴びたいと思ったのかもしれません。
 ところが、ささげ方に問題がありました。アナニヤ夫妻は、「地所を売った代金を全額ささげます」と言ったのですが、実は、代金の一部を自分たちのためにこっそり取り分けてあったのです。もし、彼らが「代金の一部をささげます」と正直に言っていたら、問題はなかったでしょう。しかし、彼らは、偽りを言ってごまかしたのです。
 ペテロは、そんなアナニヤに対して、「あなたは、サタンに心を奪われて、聖霊を欺いた」「人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」ときっぱり言いました。また、後から来た妻のサッピラに対しても「あなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みた」と厳しく非難したのです。そして、アナニヤもサッピラも、その場で息絶えてしまいました。
 これは、聖書に記録されているものとしては、初代教会内部で起こった最初の問題です。それは「偽り」という問題でした。
 ところで、この記事を読んで、「少しでも嘘を言ったら、死ななければならないのか」と不安を感じる方がおられるかもしれませんね。あるいは、「この夫婦は、お金の一部をごまかしてちょっと嘘を言っただけなのに、死なせてしまうなんて、神様は厳しすぎるんじゃないか」と思う方もいるでしょう。
 しかし、神様は、この出来事を通して、大切なことを教えてくださっているのです。
 
(1)偽りの危険性
 
 まず、偽りを軽く見てはいけないということです。偽りは、神様との関係を破壊してしまう深刻な原因となるからです。
 「偽り」とは、演技するという意味から出た言葉です。見栄を張って、あたかも立派であるかのように演技して生きていくことです。でも、神様は、私たちのありのままの姿をご存じなのですから、神様の前で格好つける必要はないですね。人に対しては、相手の状態に合わせて配慮をする必要がありますが、神様に対しては、何でも正直に告白するのがいいのです。弱さがあるなら、その弱さを告白し、不安があるなら、「不安です」と打ち明ければいいのです。クリスチャンとはこうあるべきだという型に自分を嵌め込んで見栄を張る生活をしていたら疲れますし、神様の愛の深さを味わうこともできません。もし献金するのが惜しくなったら、「惜しくなりました」と正直に言えばいいのです。もしつい偽りを言ってしまったら、正直に過ちを認めて謝ればいいのです。神様の前では、自分を偽らずに正直に生きていくことが大切なのです。なぜなら、そうすることによって神様との親密な関わりを持つことができ、神様の愛や恵みを十分に受け取っていくことができるからです。
 イエス様は、当時の宗教指導者たちが、うわべだけは熱心に信仰生活を送っているように見せかけていながら、心は高慢と虚栄心と私利私欲に満ちている姿を見て、「偽善者」だと厳しく批判なさいました。
 第一サムエル16章7節に「人はうわべを見るが、主は心を見る」と書かれています。神様は、私たちの心の奥底までご存じなのです。その神様の前で自分を偽り、神様を欺こうと試みるのは愚かなことですね。
 
(2)心からささげることの大切さ
 
 その神様に何かをささげるときに大切なのは、「何をささげるか」、ではなくて、「どのような心でささげるか」ということです。
 昔、モーセがイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から脱出させ荒野を旅していた時のことです。神様は、御自分が民とともにいることの象徴として幕屋を作るようお命じになりました。モーセは、幕屋の材料となる様々な色の糸、装飾品、宝石、動物の皮などをささげるよう呼びかけました。すると、あり余るほどの多くのささげものが集まったのですが、出エジプト記35章21節、29節にはこう書かれています。「感動した者と、心から進んでする者とはみな、・・・主への奉納物を持って来た」「イスラエル人は、男も女もみな、・・・心から進んでささげたのであって、彼らはそれを進んでささげるささげ物として主に持って来た。」
 神様の臨在を示す幕屋は、神様の愛と恵みに感動した人々が心から進んでささげたささげ物によって建てられました。教会も同じです。救い主イエス・キリストを与えてくださった神様に感謝し、救いの素晴らしさに感動した人々が心からささげるささげものによって建て上げられていくのです。
 ですから、パウロも第一コリント9章7-8節でこう教えています。「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」
 神様は、ささげるものの質や量ではなく、心からささげる姿を喜んでくださるのです。逆に、強制されて仕方なくささげるささげものや不純な心をもってささげるささげものは、それがどんなに素晴らしいものであっても喜ばれないのです。
 考えてみてください。もしペテロたちがアナニヤにこう言ったらどうでしょう。「献金してさえくれれば、動機はどうでもいいですよ。お金が集まれば教会の働きに使えますからね。」もし、ペテロたちがそう言ったら、それは教会が命を失う危機に瀕することになるのです。お金は集まるかもしれませんが、最も大切な神様の祝福を失うことになるからです。
 この教会も献金によって支えられていますが、献金は決して強制されるものではありません。また、自分の見栄のためにするものでもありません。それぞれが神様の恵みに感謝して、心に示された額をささげればいいのです。ですから、誰がいくら献金したかを公表したり、比べたりする必要はありません。そして、教会は、ささげられたものを適切に管理し、主の働きが進むことを願いつつ用いていくことが大切です。献金の管理に不明朗な点がないように気を配る必要があるのです。一人一人が心からささげられたものを用いて、神様は麗しいキリストの教会を建て上げていってくださるでしょう。
 
(3)神様を正しく恐れることの大切さ
 
 さて、アナニヤ夫婦の身に起こった出来事によって、教会に「非常な恐れが生じた」と書かれていますね。
 神様は、愛に満ち、悔い改めれば何度でも赦し、弱さを受け入れてくださる方です。ですから、私たちは、安心してありのままの姿で神様の御前に出ることができるのですが、気をつけないと、それがかえって神様を軽く見たり、侮ったりする高慢に繋がることがあるのです。「謝れば赦してもらえるんだから何をしたっていいんだ」とか「このくらいのことは見逃してくれるだろう。試しにやってみよう」などと思って自分勝手な欲望に引きずられてしまうことがあるのですね。
 しかし、アナニヤ夫妻の事件は、神様の大切な一面を思い起こさせるものとなりました。神様は、完全に聖なる方であり、最終的なさばきの権威を持っておられる方だということです。
 マタイ10章28節でイエス様もこう言っておられます。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
 この「恐れ」というのは、「恐怖」とか「怖がる」という意味ではありません。神様を天地の創造主、全能の神、すべてを支配しておられる方として認め、畏敬の念を忘れないようにしなさい、ということです。ちりから作られた私たちが、神様を侮ったり欺こうとするのは、まったく愚かなことなのですね。
 さて、4章33節に「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった」と書かれています。「主イエスは復活し、今も生きておられる」という福音のメッセージこそがいつも教会の中心なのですね。そして、そこには大きな恵みがあるのです。
 私たちも、声を大にして「主イエスは今も生きておられます。私と共に歩んでくださっています」と告白していきましょう。