城山キリスト教会 礼拝説教          
二〇二一年九月一二日             関根弘興牧師
               使徒の働き八章一節〜二五節
 使徒の働き連続説教8
   「新しい展開」
 
1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。5 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。6 群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。7 汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。8 それでその町に大きな喜びが起こった。9 ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行って、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。10 小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言っていた。11 人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。12しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。13 シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。14 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。15 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。18 使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、19 「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と言った。20 ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。21 あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。22 だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。23 あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」24 シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」25 このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後、エルサレムへの帰途につき、サマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝えた。(新改訳聖書第三版)
 
1 激しい迫害と散らされた人々
 
 先週は、ステパノの殉教の出来事を読みました。ステパノは、教会史上最初の殉教者です。彼の死は、教会にとって大きな転換点となりました。ステパノが殉教したその日から、嵐のように教会に対する激しい迫害が起こったのです。
 迫害する側の中心的なリーダーはサウロでした。彼は、後にキリストを信じ、パウロと名乗って、福音を広めるために大きな働きをすることになるのですが、この時は、クリスチャンを撲滅することこそ神への最大の奉仕だと考えていたのです。3節に「サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた」と書かれていますね。
 その結果、多くのクリスチャンたちは、エルサレムにとどまることができず、各地に散らされることになっていきました。1節に「使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた」とありますね。
 使徒たちがエルサレムに留まった理由は、聖書に書かれていないのではっきりわかりませんが、いくつかの推測ができます。使徒たちだけでも中心地のエルサレムの教会を何としても守りたいという思いを持っていたからかもしれません。また、エルサレムには使徒たちを通して神様の素晴らしいみわざを見た人々がたくさんいるので、使徒たちにまで手をかけると暴動が起こるかもしれないと宗教当局が恐れていたのかもしれません。あるいは、最初の迫害は、ギリシャ語を話すクリスチャンたちが主な対象だったのかもしれません。ステパノもピリポもギリシャ名を名乗っていますからね。
 いずれにせよ、多くのクリスチャンたちが激しい迫害で各地に散らされていきました。教会の仲間たちは、ステパノのために埋葬したり喪に服する時間を取ることもできなかったようです。2節に「敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ」と書かれていますが、この「敬虔な人たち」というのは、ユダヤ教の人たちを指す表現です。ステパノは、クリスチャン仲間から惜しまれただけでなく、まだクリスチャンになっていないユダヤ教の一部の人たちからも尊敬されていたのでしょう。
 ステパノは、素晴らしい人で、長生きしていたら大きな働きができたはずなのに殉教しました。また、神様を信頼しているクリスチャンたちが迫害を受け、各地に散らされてしまうという大きな困難を味わうことになりました。まだ教会が誕生してわずかな時間しかたっていないのに、教会の仲間が散らされていくということは、大変な痛みと悲しみではありませんか。これから先どうなるのだろうと、大きな不安も生まれたでしょう。神様は本当にこれから私たちを守ってくださるのだろうか、と疑問をもつ仲間もいたと思います。
 しかし、聖書を読み進めていくと、また、その後の歴史を見ると、神様がこのようなあって欲しくない出来事すら、最終的に益としてくださるのだということを知ることができるのです。
 イエス様は天に昇っていかれる前に、1章8節で弟子たちにこう言われましたね。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまでにまで、わたしの証人となります。」その言葉のとおり、人々はエルサレムからユダヤとサマリヤの全土に散らされていきました。そして、今日の4節にあるとおり、「散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた」のです。つまり、この8章から、教会の働きがユダヤ、サマリヤへと広がっていくことになったのです。迫害者たちは、クリスチャンたちをエルサレムから追い散らしました。しかし、神様の目から見たら、それは散らされたのではなく、福音を伝えるために神様が遣わされたということなのです。
 こんな話を聞いたことがあります。ネパールでキリスト教禁止令が出された時代のことです。クリスチャンになると皆、投獄されてしまいました。しかし、投獄されたクリスチャンたちが牢の中で別の囚人たちにキリストを伝えていったので、囚人たちが刑期を終えて出所するときには、クリスチャンになって家に帰るというわけです。そして、そのことに驚いた家族もクリスチャンになっていったというのです。そのようなことが繰り返され、不思議なことに刑務所が福音の宣教のために用いられる場所になったのです。
 私たちは、自分に才能と財があって優秀な仲間がいれば、何でもできると考えます。しかし、神様の方法は違います。神様は、むしろ、私たちが無力で何もない状況の中でみわざを行ってくださるのです。だから、私たちは、「これは確かに神様がなさってくださったことだ」と知ることができるのですね。
 
2 サマリヤの出来事
 
(1)ピリポの働き
 
 さて、散らされた人々の中にピリポがいました。以前、教会内で食事の配給の問題が起こったとき、食事配給の責任者として御言葉と聖霊に満ちた七人が選ばれましたが、ピリポはその一人でした。ステパノもそうでしたね。
 ピリポは、サマリヤに行きましたが、当時、ユダヤ人とサマリヤ人は犬猿の仲でした。サマリヤ人は、ユダヤ人と同じルーツを持っていますが、宗教的にも人種的にも純粋さを保つことができなかったという理由で、ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑し、悪霊につかれている人種だと考え、サマリヤの町の近くを通るのも汚れるとして嫌っていたのです。ですから、散らされたクリスチャンたちは、このサマリヤなら迫害者たちも追って来ないだろうと考えたのかも知れませんね。
 さて、ピリポは、サマリヤの人々にキリストのことを宣べ伝えました。そして、ピリポを通して神様のしるしと不思議なみわざが行われました。すると、サマリヤの人々は、ピリポの話に耳を傾け、その町に大きな喜びがわき起こったのです。 
 先週の箇所で、ステパノが議会で説教を時には、宗教指導者たちは、耳を覆って、激怒し、ステパノを殺してしまいましたね。しかし、ユダヤ人から軽蔑されていたサマリヤの人々は、ピリポの言葉に耳を傾けました。そして、11節後半にあるように、「ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた」のです。
 
(2)使徒ペテロとヨハネの働き
 
@使徒の派遣
 
 そのニュースは、エルサレムの使徒たちにも届きました。すると、使徒たちは、ペテロとヨハネをサマリヤに遣わしました。
 なぜでしょうか。サマリヤ人であってもイエス・キリストを信じれば救われるのだということを確認し、正式に承認するためだったのでしょう。たとえ素晴らしい働きが行われてたとしても、それが神様のみこころによって行われていることかどうか確認し、全員で共通の理解を持つことはとても大切なことです。神様は、混乱の神ではなく、秩序を大切にする方だからです。たとえ、素晴らしい働きがあっても、自分勝手な方向に進んでいくなら、混乱を引き起こし、麗しい教会の交わりを破壊することにもなりかねないのです。
 そこで、ペテロとヨハネがサマリヤに派遣されました。このヨハネは、以前、イエス様とともにサマリヤの町に行ったとき、サマリヤの人々がイエス様を受け入れなかったので、「主よ、私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ったことがありました。ヨハネは、短気でイエス様にボアネルゲ(雷の子)と呼ばれていたくらいです。ですから、本当にサマリヤ人がイエス様を信じたのだろうかと疑う思いがあったかもしれません。しかし、今、サマリヤに来てみると、そこには、本当に、喜んで主をたたえている人々がいたのです。
 
A聖霊による保証
 
 そして、15節-17節に「ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」とあります。それは、ちょうど、使徒たちがペンテコステの時に経験したのと同じような光景だったでしょう。
 こういう箇所を読むと疑問に思う方もおられるでしょう。私は、いつも説教の中で、「イエス様を信じ受け入れるとき、聖霊があなたの内に宿ってくださいます」とお話していますね。イエス様を信じるときに、永遠のいのちを保証する聖霊が与えられると聖書は教えています。
 ですから、サマリヤの人たちがイエス様を信じ受け入れたとき、聖霊はひとりひとりに与えられたのです。しかし、それが目に見える形で示される必要がありました。
 以前、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が下るという目に見える不思議な出来事が起こりましたが、それは、イエス様が約束されたとおり、聖霊がいつもともにいて助け導いてくださるということを皆にわかる方法で示すためでした。
 そして、こんどは、サマリヤで目に見える形で聖霊が下られましたが、それは、ユダヤ人だけでなく、サマリヤ人もイエス・キリストを信じれば救われるということをすべての人に示すためでした。つまり、ユダヤ人たちが軽蔑していたサマリヤの地に誕生した教会も、福音の出発点となったエルサレムの教会も、別々の教会ではなく、主に愛されている「一つの教会」であるということを神様ははっきり示してくださったのです。同じイエス様を告白し、同じ聖霊が与えられている者として、クリスチャンは皆、民族、国籍に関係なく一つとされているのです。
 
(3)魔術師シモン
 
 さて、それを見ていたシモンという人がいました。彼は、魔術で人々の注目を集めていました。しかし、ピリポが自分より素晴らしい働きをするので、ピリポの後をついて歩き、洗礼も受けたのです。そして、ペテロたちが人々に手を置くと聖霊が注がれるのを見て、自分も同じ力が欲しいと考えました。そして、なんとペテロの元にお金を持って来て、「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と懇願したのです。彼の関心は、不思議なしるしを行う力を手に入れることでした。ピリポの後について行ったのも、洗礼を受けたのも、自分が偉大な力を身につけたいと思ったからでしょう。しかし、ピリポに従っても、いっこうに力を身につけられませんでした。すると、こんどは、エルサレムからペテロたちがやって来たのです。シモンは考えました。「この人たちは、ピリポの先生らしいぞ。偉い人たちだぞ。この人たちに頼めば力をもらえるだろう」と。
 しかし、ペテロは、「あなたの心は神の前に正しくない」ときっぱり言いました。シモンは不思議なわざと奇跡ばかりに目を奪われて、大切な自らの心を正すことを忘れていたのです。
 この出来事は、私たちにいくつかのことを教えてくれます。
 
@聖霊は、みこころのままに働かれる
 そもそも、聖霊を人間の力で自由に動かそうとすること自体が愚かなことです。聖霊は、みこころのままに働かれるのであって、私たちが自分勝手に利用する方ではありません。
 ペテロたちが手を置いて祈ると人々に聖霊が注がれましたが、それは、ペテロたちが自分勝手にしたことではありません。人々に手を置いて祈るよう聖霊に促されたからです。ペテロ自身も自分が祈ったら何が起こるか予想していなかったかもしれません。ましてや、自分の力で人々に聖霊を与えようなどとは決して考えなかったはずです。
 ですから、誰でも同じことをすれば、同じことが起こるというわけではありません。
 第一コリント12章5節ー11節にはこう書かれています。「奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。」
 聖霊が「みこころのままに」、おのおのにふさわしい賜物を与えてくださるのです。ですから、私たちは自分に与えられた賜物を感謝して用いていけばいいのです。
 
A信仰生活は取引ではない
 さて、魔術師のシモンは、この世のすべては金次第、という発想の持ち主でした。愚かにも神様の賜物をお金で買えると考えたのです。彼は、ペテロたちが祈ると人々に聖霊が与えられる不思議な光景を見ましたが、「私にも聖霊が下るように祈ってください」とは求めませんでした。自分が人々に聖霊を下すことのできる権威を求めたのです。彼は、多くの人たちから「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言われていた有名人でした。もし、ペテロたちが持っているこの賜物を自分のものにすることができれば、さらに人々の称賛を尊敬を得ることができるだろうと考えたのでしょう。しかし、神様の賜物を取引で手に入れようとする彼の考え方は、根本的に間違っていました。
 私たちも、ともすると、自分の善行や努力で神様の恵みを手に入れようとする傾向があります。これだけ礼拝を忠実に守っているから祝福してくださいとか、献金をいっぱいしているから祝福をたくさんくださいとか、これだけ祈っているんだから希望通りにしてくださいとか、これだけ熱心に奉仕しているんだから教会の中でもっと重んじられてもいいでしょうとか、思ってしまうのですね。
 でも、そんなふうに自分の力で神の賜物を買い取ることが出来ると考えてしまうなら、それは間違いです。
 皆さん、私たちに与えられた神様の恵みはすべてただで受けたものばかりではありませんか。罪の赦しも救いも永遠のいのちも聖霊が与えられることも、すべて神様の一方的な恵みではありませんか。私たちは、この原点にいつも立ち返る必要があります。信仰生活は、商取引ではありません。神様が私たちを愛するがゆえに与えてくださった恵みによって生かされることです。私たちは、ただその大きな愛に感謝し、与えられた恵みを受け生きているのです。まず私たちが神様を愛したから神様も愛してくださるのではありません。まず私たちが努力したから神様がその報酬として賜物を与えてくださるのでもありません。まず神様が私たちを愛してくださり、私たちはその愛を知ったからこそ、人々を愛する者へと変えられるのです。まず神様が恵みを豊かに与えてくださったからこそ、私たちも人々にその恵みを分かち合うことができる者になれるのです。
 もし私たちが自分の善行や功績と引き換えに神の賜物を得ようとする取引の生き方をするなら、疲れてしまいます。それは本来の信仰の姿ではありません。ですから、ペテロは、シモンに言いました。「この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい」と。神の賜物を恵みとして受け取ることをしないなら、悔い改めなさい、向き変えて神様のみまえで反省し、生き方を変えなさい、と言ったのです。このことを今日お互いの心に刻みたいですね。
 
B人を支配するのは神様だけ
 シモンは、なぜ祈ると聖霊が下る権威を欲しがったのでしょうか。人々を支配するためです。自分の人生を神様にゆだねて支配していただこうとするのではなく、自分が支配者になろうとしたのです。しかし、私たちは人を支配しようとすべきではありません。パウロは、第二コリント1章24節でこう書いています。「私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。」互いを支配しようとするのではなく、共に神様の御支配にゆだねる者として、互いの喜びのために働く協力者となっていきましょう。
 
 さて、魔術師シモンは、ペテロに厳しく叱責されると、「私に災いが起こらないように祈ってください」と懇願しました。しかし、その言葉には、自分を反省する思いが感じられませんね。彼は、その後、教会から離れ、最初の異端者となり、ペテロたちに敵対し続けたと言われています。残念なことですね。
 
 さあ、今日の箇所では福音がサマリヤにまで伝えられていきました。さらに福音がどのように広がっていったのかをこれからも見ていくことにしましょう。