城山キリスト教会 礼拝説教          
二〇二一年九月二六日             関根弘興牧師
               使徒の働き八章二六節〜四〇節
 使徒の働き連続説教9
 「何かさしつかえがありますか?」
 
26 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)27 そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、28 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と言った。31 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と言った。そして、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。32 彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。33 彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」34 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」35 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」38 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。40 それからピリポはアゾトに現れ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。(新改訳聖書第三版)
 最初の教会は、エルサレムで誕生しました。クリスチャンたちはともに集まり、助け合いながら、イエス・キリストがまことの救い主であることを大胆に宣べ伝えていました。しかし、ステパノの殉教をきっかけに激しい迫害が起こったため、多くのクリスチャンたちが各地に散らされてしまったのです。大変な試練ですね。しかし、散らされていった場所でクリスチャンたちがイエス・キリストのことを宣べ伝えていったので、結果的に、福音が各地に広がっていくことになったのです。
 その中にピリポもいました。前回の8章の前半には、ピリポがサマリヤに行った時に起こった出来事が書かれていました。 当時、ユダヤ人とサマリヤ人は犬猿の仲でした。サマリヤ人は、ユダヤ人と同じルーツを持っていますが、宗教的にも人種的にも純粋さを保つことができませんでした。それで、ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑し、サマリヤの町の近くを通るのも汚れるとして嫌っていたのです。
 しかし、そのサマリヤでピリポがイエス・キリストの福音を宣べ伝えると、多くの人が信じて洗礼を受けました。それを伝え聞いたエルサレムの使徒たちは、ペテロとヨハネをサマリヤに遣わしました。そして、ペテロたちが信じた人々に手を置いて祈ると、人々に聖霊が下ったのです。
 もちろんサマリヤの人たちがイエス様を信じたときに、すでに聖霊は一人一人に与えられていました。しかし、神様は、サマリヤ人たちに聖霊が下るのを目に見える形で示すことによって、サマリヤ人もユダヤ人と同じようにイエス・キリストを信じるだけで救われるのだということを明らかにしてくださったのです。サマリヤの教会もエルサレムの教会も主に愛されている「一つの教会」なのだということがはっきり示されたわけですね。
 
1 ピリポへの命令
 
 さて、サマリヤ伝道で大活躍していたピリポでしたが、神様は、ある日、ピリポに「南のガザに下る道に出て行きなさい」とお命じになりました。「このガザは今、荒れ果てている」とわざわざ書いてありますね。ガザは、以前は大きな町でしたが、今は荒れ果てているというのです。神様は、そんなさびれた場所になぜわざわざピリポを遣わされたのでしょうか。私たちの計算では、とても非能率的な配置転換に思えますね。しかも、ピリポがそこに遣わされたのは、たった一人の人物のためだったのです。
 しかし、神様の前では、多くの人に対する働きも、たった一人の人に対する働きも、同じく大切な働きなのです。私たちは、もっと合理的に、もっと能率的に、という発想をしてしまいがちですが、神様はそうではありません。
 ピリポは、もしかしたらもっとサマリヤに留まっていたいという思いもあったかもしれませんが、神様の命令に従ってすぐに出かけていきました。すると、ちょうど馬車で通りかかる一人の人物に出会ったのです。もしピリポが来るのがもう少し早いか遅いかすれば、この出会いはなかったでしょう。神様のタイミングは完璧ですね。今日の8章の後半は、この一人の人物に焦点を当てて書かれています。
 
2 エチオピヤ人の高官の熱心
 
 馬車に乗っていたのは、エチオピヤ人の女王カンダケの高官でした。「カンダケ」というのは、エジプトの王なら「パロ」、ローマ皇帝なら「カイザル」と同じで、エチオピヤの女王の称号です。この高官は、女王の全財産を管理していたということですから、エチオピヤにおいては、相当身分の高い、女王から信頼された人物だったのでしょう。また、宦官と説明されていますから、女王のそばで仕えるために去勢されていたようです。
 さて、今日の箇所を読むと、この人の熱心さを見ることができます。どのような熱心でしょうか。
 
(1)「礼拝」することへの熱心
 
 まず、「彼は礼拝のためエルサレムに上り、いま帰る途中であった」と書かれていますね。
 彼は、神様を礼拝するためにエチオピアからはるばる何千キロという距離を旅してエルサレム神殿にやって来たのです。 しかし、それだけの犠牲を払って来たのに、彼は、神殿の外庭から礼拝することしかできませんでした。異邦人は、異邦人の庭と呼ばれる場所までしか入ることができません。また、彼は宦官でした。申命記23章1節には「すべて去勢した男子は主の会衆に加わってはならない」と規定されているのです。
 女王の高官という高い地位にある人でしたが、神殿の内庭に入ることができないというのですから、人によっては侮辱されたと感じるかもしれません。しかし、この高官は、外庭でもいいから、何としてもエルサレムの神殿に行って礼拝したいと願って、はるばるやって来たのです。この人の礼拝への思いは並々ならぬものがあったわけですね。
 彼はイザヤ書を持っていましたから、イザヤ書のイザヤ56章3節-7節が彼の心に強く触れていたのかもしれません。こう書かれています。「主に連なる外国人は言ってはならない。『主はきっと、私をその民から切り離される』と。宦官も言ってはならない。『ああ、私は枯れ木だ』と。まことに主はこう仰せられる。『わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。・・・わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。』」
 
(2)「聖書」を読むことへの熱心
 
 さて、この高官は、神殿に行って礼拝をすることによって、神様や救いのことがはっきりわかったかというと、そうではなかったようです。まだわからないことがたくさんあったようですね。しかし、「だから、もう結構です」と求めることを止めてしまうのか、「だから、主よ、わからせてくださるまで、求め続けます」と求め続けていくのかでは、大きく違ってきます。この高官は、帰りの馬車の中でイザヤ書を読んでいました。彼は、求め続けることを止めなかったのです。
 当時、印刷技術は進んでいませんでしたので、聖書は、羊皮紙やパピルス紙のようなものに何冊にも分けられ、または巻物にされた手書きされたものがあっただけでした。しかも、それは、大変高価で、一般の人は自分で所有することなどできませんでした。ユダヤ教の会堂に巻物として大切に保管されているのが一般的でした。しかし、この高官は、自分でイザヤ書の巻物を持っていたのです。大きな巻物だったと思います。
 彼は、礼拝だけでなく聖書を読むことにも熱心でした。馬車に揺られながら、周りに聞こえるほどの声を出して朗読していたのです。舗装された道ではありませんから、相当揺れたことでしょう。私は車の中で本を読むとすぐに酔ってしまうのですが、この高官は、馬車酔いはしなかったようですね。長旅で時間があるにせよ、揺られながら、それも意味がわからない書物を読んでいるというのは、相当忍耐のいることです。すぐに眠気が襲ってきそうですね。だから、周りに聞こえるほどの声に出して読んでいたのかもしれませんね。
 とにかく、彼は、熱心に聖書を読み、何とかしてその意味を知りたいと願っていました。すると、神様が不思議な方法でその願いに応えてくださったのです。
 
(3)「説教」を聞くことへの熱心
 
 ちょうどピリポが通りかかったとき、この高官が読んでいたのは、イザヤ書53章7節ー8節でした。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
 このイザヤ書53章は、「苦難のしもべ」についての預言が書かれている箇所です。「神様のしもべである方が、神様のみこころに従って、人々の罪の贖いと救いのために、人々に代わって苦しみを受ける」ということを預言しているのです。
 しかし、この高官は、読んでも内容がよく理解できませんでした。すると、ちょうどその時、ピリポが近づいてきてこう言ったのです。「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」
 人にはプライドがあります。自分は功績を成し遂げ地位を築き上げてきたという自負があると、そう簡単に「わかりません」とは言えないのが普通です。まして、一国の高官が、どこの誰だかわからない者の言葉に耳を貸すでしょうか。もしあなたが見知らぬ人に声をかけられて、「読んでいることがわかりますか」なんて言われたらどうでしょうか。私などは、「余計なお世話」って顔をして「わかりますよ!」と見栄で答えてしまうでしょうね。
 しかし、この高官は、何と素直な人でしょうか。「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」といい、ピリポに教えてくれるように頼んだのです。
 彼は、自分がわからないことをわからないと認めることができる素直な心を持っていました。また、この目の前の聖書の言葉を何としても理解したいという熱心な思いを持っていたのです。
 この高官は、今自分が読んでいるイザヤ書53章についてピリポに尋ねました。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
 そこで、ピリポは、この聖句から始めて、イエス様のことを宣べ伝えたのです。イエス様が、私たちの罪のために苦しみを受け、十字架につけられたこと、三日目に復活されて今も生きておられること、信じる者に罪の赦しと永遠のいのちを与えるまことの救い主であることを語りました。そして、悔い改めて、イエス・キリストを信じ、イエスの御名によって洗礼を受けなさいと勧めたのです。つまり、ピリポは、「イエス・キリストこそ、あなたが熱心に求めていた救い主である」と伝えたのです。
 この高官は、乾いたスポンジが水を吸収するようにピリポの話に聞き入りました。彼の心の中に、黙々と十字架の苦しみを耐え、罪の赦しを与え、三日目に復活されたイエス様の恵みのみことばが入っていきました。彼の渇いた心が潤い始めました。今まで捜し求めてきたことが、ついにわかったのです。そして、イエス様こそ救い主であることを信じ、受け入れたのです。
 
(4)「洗礼」を受けることへの熱心
 
 そして、彼は、どうしたでしょうか。こう書かれています。「道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、高官は言った。『ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。』そして馬車を止めさせ、ピリポも高官も水の中へ降りて行き、ピリポは高官にバプテスマを授けた。」
 「バプテスマ」とは、洗礼のことです。洗礼は、イエス様を信じて与えられた救いを象徴的に身をもって経験する時です。イエス・キリストとともに古い自分が死に、イエス・キリストとともに新しい自分が生きるということを表しています。十字架のイエス様と合わせられ、復活されたイエス様と合わせられること、つまり、キリストと一体となることの象徴なのです。信仰の表明と救いの確認をする儀式です。
 ですから、洗礼は、クリスチャンとしてのスタートであって、ゴールではありません。まだ不完全でも未熟でもいいのです。「これからイエス様と共に生きていきます、そして、救いの素晴らしさを味わっていきます」という意味で洗礼を受ければいいのです。
 この教会では、洗礼を受ける前に洗礼準備会をしますが、それは、イエス・キリストを信じているかどうかを確認し、洗礼の意味を正しく理解していただくためです。でも準備会は洗礼を受けるための条件ではないのです。
 エチオピヤの高官は、イエス様を信じてすぐに、洗礼を受けたいと願い、「私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか」と尋ねました。もちろん、イエス様を信じさえすれば、洗礼に何のさしつかえもありません。何かさしつかえがあるとするなら、それは、イエス・キリストを救い主として信じようとしない場合だけです。そうでないなら洗礼を受けるのにさしつかえがあることなど何一つないのです。この高官は、礼拝のために何度も神殿に通ったわけでもなく、洗礼準備講座を受けたわけでもありません。でも、ピリポは、躊躇することなく、すぐに洗礼を授けました。
 この高官は、自分の洗礼のために立派な会場や観衆を用意しようとはしませんでした。信じてすぐに、たまたま通りがかった水のあるところで、ひっそりと洗礼を受けたのです。ここにも、この人の謙遜さと熱心さが表れていますね。
 
 さて、洗礼が終わった後、不思議な出来事が起こりました。水から上がってくると主の霊がピリポを連れ去られたというのです。その後、ピリポは別の場所に現れて、町々に福音を宣べ伝えたと書かれていますね。
 ピリポがこのエチオピヤの高官とともにいたのは、ほんの数時間だったでしょう。高官にとってピリポは自分を導いた恩師のような存在です。しかし、彼は、ピリポがいなくなっても喜びながら自分の国に帰っていきました。イエス・キリストがともにいてくださることを知ったからです。
 
 この高官の姿は、前回の8章前半に登場したサマリヤの魔術師シモンとは対照的ですね。シモンは、信仰の告白をして洗礼を受けましたが、それは、自分が不思議な力を身につけるための手段にすぎませんでした。自分を正直に見つめて反省することをせず、救いを真剣に求めていたわけでもありません。自分が権威を持って称賛や注目を浴びたいという自己中心的な動機で行動していたのです。彼の心は、神様の前で正しくありませんでした。
 一方、エチオピヤの高官はどうでしょうか。彼は、神様を知りたい、まことの救いを得たいと熱心に求めていたのです。だからこそ、遠方でもいとわずに礼拝に出かけ、熱心に聖書を読み、聖書を解説するピリポの説教に真剣に耳を傾け、信じ、躊躇することなく洗礼を受けたのです。
 マタイの福音書7章7節に「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」とあります。厳密に訳せば、「求め続けなさい。捜し続けなさい。たたき続けなさい、そうすれば与えられ、見つかり、開かれまするのです」ということです。諦めずに求め続けることが大切だということですね。
 そして、詩篇9篇10節には「主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした」、箴言11章27節「熱心に善を捜し求める者は恵みを見つける」とあります。
 神様は、真摯に求め続ける者を見捨てたり失望させる方ではありません。必ず、恵みを持って応えてくださる方なのです。 この熱心に求道し続ける一人のエチオピア人の高官のために、神様は、ピリポを送ってくださいました。そして、イエス・キリストを知る喜び、救いの喜びを味わわせてくださったのです。
 
 皆さん、私たちの熱心さは、いったい何に対する熱心でしょうか。この教会は、主を礼拝することに熱心でありたいですね。みことばに聴くことに熱心でありたいですね。そして、主が与えてくださる豊かな恵みを受け入れようとする熱心さを持っていきましょう。
 そして、覚えておいてください。神様は、私たち以上に熱心な方です。私たちが神様を愛するよりも、神様のほうが熱心に私たちを愛してくださっています。私たちが求める以上に神様のほうが熱心に恵みと祝福を与えたいと願っておられるのです。御自分のひとり子を私たちのために送ってくださるほどに、すべてを惜しげなく与えようとしてくださる神様の熱心に感謝つつ、私たちも主を信頼し、喜び、礼拝する熱心に生かされていきましょう。