城山キリスト教会 礼拝説教          
二〇二一年一〇月三日              関根弘興牧師
                使徒の働き九章一節〜二〇節
 使徒の働き連続説教10
 
 「目からうろこ」
 
 1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。10 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ」と言われたので、「主よ。ここにおります」と答えた。11 すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。12 彼は、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、19 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。20 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。(新改訳聖書第三版)
 
 前回まで見てきましたように、ステパノが殉教した日から、クリスチャンに対する激しい迫害が起こり、エルサレムにいた多くのクリスチャンたちが各地に散らされていきました。しかし、その散らされたクリスチャンたちが行った先々で福音を宣べ伝えたので、かえって福音が広がる結果になったのです。
 その一例として、8章の前半には、ピリポがサマリヤに行った時の出来事が書かれていましたね。ピリポがイエス・キリストを宣べ伝えると、多くのサマリヤ人が信じ、大きな喜びが起こったというのです。
 そして、前回の8章の後半には、エチオピアの高官がイエス・キリストを信じるようになった経緯が記されていましたね。彼は、熱心に神様を求めていました。エチオピアから何千キロも離れたエルサレムの神殿にわざわざ礼拝のためにやって来たほどです。そして、帰る途中の馬車の中でも熱心に聖書を読んでいましたが、内容が理解できないでいました。その彼のもとに神様はサマリヤで大活躍していたピリポを遣わされました。ピリポがこの高官に聖書の教えている救い主のことを説明すると、熱心に聞き入っていた高官は、イエス様を救い主として信じ、道の途中にあった水のあるところですぐに洗礼を受け、喜びながら自分の国に帰っていったのです。神様は、心から熱心に求める者には、必ず与えてくださる方なのですね。
 その高官と対照的なのが、今日の箇所に登場するサウロです。後にパウロと呼ばれるようになる人物です。
 サウロも熱心な人でした。熱心に聖書を読み、神様の律法に従うことにも熱心でした。神様のためなら何でもするという熱心がありました。しかし、その熱心には問題がありました。救い主についての正しい知識が欠けていたのです。正しい知識がないために、せっかくの熱心が間違った方向に向かっていたのですね。
 サウロは博学でしたが、イエスが救い主などということはありえないと思っていました。人間にすぎないイエスが自分を神の子であると言うのは神への冒涜だと考えたのです。また、旧約聖書には「木にかけられた者はのろわれたものである」と書かれていますから、十字架にかけられてのろわれたイエスを救い主だと告白するクリスチャンたちは神を冒涜する異端者だと見なしていたのです。
 ですから、彼は、クリスチャンを一人残らず捕らえ、撲滅することに熱心でした。しかも、その熱心は人並みではありませんでした。迫害の先頭に立っていたのです。
 彼は、エルサレムだけでなく、二百キロ以上離れたダマスコにも行って、クリスチャンを男でも女でも見つけ次第縛り上げ、エルサレムに引いて来て処罰しようと考えました。ユダヤ人が住んでいる町には必ずユダヤ教の会堂があって、人々の宗教生活の拠点となっていました。そこで、サウロは、当時のユダヤ社会でもっとも大きな力を持っていた大祭司のところに行って、正式にクリスチャンを取り締まる権限を与えられたことを証明する諸会堂当ての手紙をもらい、ダマスコへと出発したのです。迫害がエルサレムから他の地方にまで広がっていくのですから、クリスチャンたちにとってはますます厳しい状況になったわけですね。
 
1 倒れたサウロ
 
 しかし、サウロが、クリスチャンたちに対する脅かしと殺害の意に燃えてダマスコに向かっている途上のことです。突然、天からの光に照らされ、彼は、地に倒れてしまいました。彼は、旧約聖書をよく知っていましたから、このようなまばゆい光が神様の臨在や栄光を現すものであると直感的にわかったはずです。彼は、圧倒的な神様の栄光の前で地に倒されてしまったのです。
 皆さん、これは大変象徴的な姿だと思いませんか。サウロは、いままで「倒れる」という経験はあまりしてこなかったのではないでしょうか。彼の経歴を見ると、ガマリエル門下生で、これは当時のユダヤ社会における最高の教育を受けていたということです。おまけに優等生でした。神様と律法に対する忠実さにかけては誰にもひけをとらないという自信をもっていました。そして、彼は、当時、財産がなければ取得出来なかったローマ市民権さえも取得していました。また、彼は、青年グループのリーダーでした。ですから、人を倒すことはあっても、自分が倒れるという経験は皆無ではなかったかと思われるほどです。
 しかし、そのサウロが、今、地に倒れしまいました。倒されなければわからないことが人生にはあるのですね。
 それだけでなく、サウロは、目は開いていても何も見えなくなってしまいました。これもとても象徴的な姿です。彼は、「自分は聖書を知っているし、よく見えているからこそ、クリスチャンたちを迫害しているのだ」と考えていました。そして、イエスを信じている者たちの愚かな目を開くことが自分の使命だと確信していたのです。その彼が目が見えなくなってしまったのですね。見えていると思っていたけれど、実は何も見えていなかったという現実にサウロは直面したのです。
 初代教会において最も活躍したのは、ペテロとこのサウロ(パウロ)です。この二人はまったく違ったタイプですが、共通点があります。それは、二人とも大きな挫折経験を持っているということです。ペテロは、「自分こそイエス様の一番弟子だ」と自負していたのに、イエス様が逮捕されると「私はイエスなど知らない」と三度も否定してしまいました。そして、サウロは、「自分こそ誰よりも熱心に神様に仕えている」と自負していたのに、神様が与えてくださったまことの救い主イエス様を信じるクリスチャンたちを迫害して苦しめていました。どちらも大きな過ちを犯してしまったのです。
 しかし、二人にとって、この大きな挫折経験は、その後の人生においてとても大切なものでした。二人はこれから素晴らしい働きをすることになるのですが、大きな挫折を味わったからこそ、決して高慢になることなく、謙遜になることができたのです。彼らは、どんなに素晴らしい働きをした時にも、それが自分の力や能力によるのではないということを忘れませんでした。過去の挫折経験を振り返るたびに、自分が愚かで弱い器であることを思い起こし、また、そんな自分を赦し、受け入れ、豊かに用いてくださっている神様の恵みに深く感謝することができたのです。
 私たちも挫折を通して、自分の弱さを学びます。自分の間違った思い込みや生き方を反省させられます。しかし、それが人生の転機となって、新しい歩みを始めるきっかけともなるのです。それを知っていることは大きな励ましですね。
 サウロは、天からのまばゆい光に打たれ、地に倒れたとき、語りかける声を聴きました。
 「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか。」
 「主よ、あなたはどなたですか。」
 「私はあなたが迫害しているイエスである。」
 その言葉を聞いたとき、サウロがこれまで熱心に築き上げてきたものが一挙に音を立てて崩れていきました。人生には「まさか」ということが多々ありますが、サウロにとって、それこそ「まさか」の出来事でした。自分が信じ、行ってきたことが間違っていたというのですから。彼は、虚脱状態のようになって、三日間飲み食いすることができませんでした。
 しばらく前ですが、異端の統一教会から脱会した方がこう言われたことを覚えています。「信者にとって、一番辛いのは、自分の信じていたことが否定されることです。ですから、うすうす間違っているのかなと思っても、それを否定されたら自分が築いてきたものが全部崩れてしまうので、勇気が持てなかったのです。」
 サウロにとっても、自分の信じていたことが否定されるのは、どれほど辛かったことでしょう。自分のすべてが崩壊するような感じがしたでしょうね。しかし、彼には、その経験が必要でした。三日間、目が見えないまま、飲まず食わずで過ごす中で、彼は、自分の人生を見つめ直したと思います。そして、自分が犯した大きな過ちを深く悔いたことでしょう。このやり場のない挫折を味わう三日間こそ、新たな生き方を始めるための大切な準備期間となったのです。
 
2 アナニヤの勇気
 
 そのサウロのために、主は、一人の人物を備えてくださいました。ダマスコに住んでいるアナニヤという弟子です。
 主イエスが幻の中でアナニヤに、「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ね、彼の上に手を置いて祈りなさい」と言われたのです。
 しかし、アナニヤは、サウロのこれまで行ってきた迫害の数々を知っていましたし、サウロがダマスコに来たのも自分たちを捕まえるためだということも知っていましたから、とても躊躇しました。「今見た幻は、きっと自分の思い込みだ」と自分に言い聞かせようとしたかもしれません。
 あるいは、旧約聖書に登場する預言者ヨナのような気持ちになったかもしれませんね。ヨナは、ニネベの町に行って神様の言葉を伝えるように命令されました。しかし、彼はその命令に従わずに反対方向に逃げ出しました。なぜなら、ニネベは敵国の首都です。ニネベの人々は、自分たちをずっと苦しめてきた敵であり、憎しみの対象だったからです。「もし私がニネベで神様の言葉を語ったら、人々がその言葉に従って罪を悔い改めてしまうかもしれない。そうすると、神様は、あわれみ深い方だから、ニネベを赦し、滅ぼすのをやめてしまわれるかもしれない」と思ったのです。
 アナニヤがどう思ったのかはっきりとはわかりませんが、教会を激しく迫害したサウロのためにどうして祈ることができよう、と考えても無理はありませんね。しかも、サウロに会うということは、自分の身に危害が及ぶかもしれないのです。
 しかし、アナニヤは、勇気を出して主の言葉に従いました。17節ー18節にこう書かれています。「そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。『兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。』するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受けた。」
 「目からうろこ」という有名なことわざがありますが、それは、聖書のこの箇所に由来しています。サウロは以前から聖書の内容をよく知っていました。しかし、自分の思い込みや偏見が邪魔をして、聖書が教えている救い主のことがよく理解できていませんでした。しかし、アナニヤの祈りによって目が開かれ、彼は、イエスという方こそ聖書の教える救い主であることを理解することができたのです。「目からうろこ」は、サウロがイエス様を救い主とはっきりと知ったことから由来している言葉なのですね。そして、その時から、彼の豊かな聖書の知識が生きた知識になっていきました。
 また、聖霊に満たされたというのは、神様に赦され、救われ、神の家族の一員となったことの印です。8章では、ユダヤ人に嫌われていたサマリヤの人々にも聖霊が注がれましたね。そして、今日の箇所では、迫害者であったサウロも聖霊に満たされました。それは、エルサレムに住む人も、サマリヤに住む人も、迫害者であったサウロでさえも、主を信じる者たちは、主にあって一つとされていて、何の隔ても区別もない、ということを教えているのです。
 目が開かれ、イエス様を救い主として信じたパウロは、すぐにバプテスマ(洗礼)を受けました。
 イエス様は 「痛んだ葦をおることなく、くすぶる灯芯を消すことはない」と言われましたが、どこまでいつくしみ深い方なのでしょう。考えてください。あれだけ、クリスチャンを迫害していたサウロなのですから、サウロを倒れたままにしておけば、クリスチャンたちはどんなに喜んだことでしょう。しかし、サウロを立ち上がらせることが主のみこころだったのです。
 主は、人を倒して高慢を砕くことをなさいますが、そのまま見捨てる方ではありません。立ち上がらせ、新しい人生を与えようとしてくださる方なのです。
 
3 新しい使命
 
 主は、サウロだけでなく、一人一人を立ち上がらせ、新しい使命を与えてくださいます。
 ペテロに対しては、イエス様は、ルカ22章32節でこう言われました。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だから、あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」また、ヨハネ21章では、「わたしの羊を牧しなさい」と言われました。ペテロは、主の命令通り、その後の生涯を教会のリーダーとして兄弟たちを力づける使命を果たしながら生きていきました。
 また、サウロに与える使命については、今日の箇所の15節で主がアナニヤにこう言っておられますね。「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」
 サウロは、エルサレムの大祭司から派遣された者として、クリスチャン撲滅の使命を果たすためにダマスコに向かいました。しかし、今では、イエス様から派遣された使徒として、異邦人、王たち、イスラエルの人たちにイエス・キリストの福音を伝える使命を果たすために出ていくことになったのです。
 サウロは、数日間ダマスコの弟子たちとともに過ごした後、すぐに与えられた使命を熱心に果たし始めました。まず、ダマスコにあるユダヤ人の会堂を回って、「イエスは神の子である」と宣べ伝えていったのです。以前のサウロを知っている人々はどんなに驚いたことでしょうね。
 そのサウロについて、主は、16節で、「彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです」と言っておられますね。その言葉のとおり、この後、サウロは、幾多の苦難や困難に遭遇しながら福音を伝えていくことになります。
 ペテロに対してもイエス様は、将来苦しみを受けることを予告しておられました。
 しかし、ペテロもサウロも、大きな挫折の中で復活の主との出会いを経験し、主の大きな恵みを味わった者として、どんな困難な中でも使命を果たし続けていったのです。
 
 さて、私たちも、それぞれに与えられた使命を果たす「選びの器」とされています。主の恵みを味わい、分かち合うために、主の祝福を様々な場所にもたらすために、また、人々を励まし、力づけるために選ばれているのです。
 サウロのためにはアナニヤが遣わされましたが、私たちも、家族、友人、身近な人々、また、多くの人々のために遣わされて祈る者とされているのです。
 もし倒れることがあっても、必ず立ち上がらせてくださる主に信頼して、それぞれの使命を果たしていきましょう。