城山キリスト教会 礼拝説教          
二〇二一年一〇月三一日            関根弘興牧師
              使徒の働き一〇章一節〜二〇節
 使徒の働き13 
  「はっきりわかった」
 
 1 さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。2 彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、3 ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ」と呼んだ。4 彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。5 さあ今、ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。6 この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。」7 御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、8 全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わした。9 その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。10 すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。11 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。12 その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。14 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」16 こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。17 ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。18 そして、声をかけて、ペテロと呼ばれるシモンという人がここに泊まっているだろうかと尋ねていた。19 ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。20 さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」(新改訳聖書第三版)
       
 使徒の働きは、イエス様の福音がどのように世界に広がっていったかを記録したものです。1章8節で、復活したイエス様が天に昇っていかれる直前に弟子たちにこう約束されました。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」この言葉の通り弟子たちの上に聖霊がくだり、弟子たちは力強くイエス・キリストの福音を宣べ伝えていくようになりました。
 ただ、福音が広がって行くためには、乗り越えなければならない壁がありました。今まで持っていた偏見や差別意識を取り除いていく必要があったのです。
 ユダヤ人が大切にしていた旧約聖書の中には、神様に立ち返るすべての人々に救いが与えられることが預言されています。しかし、ユダヤ人たちは、自分たちだけが神様に選ばれ、愛されている特別な民族であり、自分たちだけが神様の救いを受けるにふさわしいのだという意識を強く持っていました。自分たちは、神様から与えられた律法に従って生活しているのだから、他の民族と違って救われるのは当然だ、もちろん、異邦人でも神様を信じて律法を守れば救いの一端に加えていただけるけれど、あくまでも神様の愛と救いの対象は、自分たちユダヤ人だと考えていたのです。
 しかし、聖書は、律法を守ることによって救いを得ることのできる人は一人もいない、と教えているのです。つまり誰もが救い主が必要であることを教えているわけです。イエス様は、ユダヤ人だけでなくすべての人を救うために、十字架にかかって罪の贖いを成し遂げられました。また、復活して、信じる人々に新しいいのちを与えてくださる方です。イエス様の福音は、ユダヤ人かどうかに関係なく、信じるすべての人を救う力があるのです。
 だからこそ福音は世界中に広がって行くことになるのですが、最初は、まずエルサレムから始まりました。イエス様の約束通り、聖霊を受けた弟子たちが力強く福音を語り始めるとエルサレムにいた多くの人々が信じるようになったのです。
 しかし、エルサレムで激しい迫害が起こり、弟子たちは各地に散らされていきました。するとその弟子たちが各地で福音を語ったので、ユダヤの各地、またサマリヤにまで福音が広がっていったのです。
 サマリヤ人はユダヤ人と同じルーツを持っていますが、ユダヤ人と違って、異邦人と混血し、民族的にも宗教的にも純粋さを保つことができませんでした。そこで、ユダヤ人たちはサマリヤ人を忌み嫌い、サマリヤ人が救われることなどあり得ないと考えていました。しかし、8章で見たとおり、ピリポがサマリヤに行って福音を語ると、多くの人々がイエス様を信じるようになりました。そして、使徒たちが行って祈ると、神様はサマリヤの人々にも聖霊を注いでくださったのです。この時から、サマリヤ人に対する偏見が取り除かれ、ユダヤ人もサマリヤ人もイエス様にあって一つとされ、共に神様の救いにあずかることができるのだということが理解されるようになったのです。
 そして、さらに、今日の10章から11章にかけて、異例の長いページを割いて、神様の救いの対象外と思われていた異邦人のコルネリオがイエス様を信じて救われた経緯が記録されています。この出来事は、異邦人に対する偏見を取り除くものとなりました。イエス様のすばらしい救いの約束は、一部地域、一部民族限定ではなく、信じるすべての人に与えられるものだということがはっきり示されたのです。詳しく見ていきましょう。
 
1 ペテロの見た幻
 
 前回の箇所で見たとおり、ペテロは、ヨッパに住むタビタという女性が生き返った後、しばらく皮なめしのシモンという人の家に滞在していました 
 皮なめしというのは、動物の死体から皮をはぎ、汚れを洗い落し、食塩水で処理し、さらに皮なめしの薬剤に浸し、乾燥させるという仕事だったそうですが、この工程で強い悪臭を発するので、当時大変嫌われていた仕事でした。また、ユダヤの社会では、死んだ動物に触れると汚れると考えられていたので、皮なめしの仕事をする人は汚れた者として軽蔑され、差別的な扱いを受けていたのです。
 しかし、ペテロは、その皮なめしをしているシモンの家に滞在していました。ペテロは、以前、イエス様御自身が罪人や汚れた者として軽蔑されていた人々をみもとに招いて手を差し伸べ、福音をお語りになる姿を見ていました。また、ペテロは、各地を巡回し、イエス様の福音によって変えられていく人たちの姿を見て、イエス様の福音が差別や偏見を乗り越えていくものだということを少しずつ感じ始めていたのでしょう。
 しかし、ペテロの中には、まだ変えられていない部分がありました。「イエス様は『全世界に出ていって福音を伝えなさい』と命令されたけれど、それは、全世界に離散しているユダヤ人たちに福音を伝えなさい、ということなのではないだろうか」という思いがあったようです。「サマリヤ人は、ルーツが同じだから救われるのはわかるけれど、異邦人は神の愛の対象とはなりえないのではないだろうか」という思いが捨てきれなかったのでしょう。小さい頃からそういう風土の中で育ってきたのですから、無理もありませんね。
 しかし、福音がすべての人に伝えられるためには、こうした固定観念が変えられる必要がありました。そのために、神様はとてもユニークな方法をお取りになったのです。
 ペテロが昼の祈りのために屋上で祈っているとき、空腹を覚えて、食事の用意をしてもらうことにしました。ところがついウトウトしてしまったのです。お腹がすいて、夢ごこちになったら、皆さんはどんな夢を見ますか。おいしいご馳走の夢を見るかもしれませんね。でも、ペテロが夢の中で見たのは、あまりおいしそうなものではありませんでした。大きな敷布のようなものに地上のあらゆる種類の動物や、はうもの、空の鳥が入っていて「ペテロよ。さあほふって食べなさい」という声が聞こえたのです。ペテロが「主よ、それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません」と答えると、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」と言う声が聞こえました。しかも、それが三回繰り返されたのです。
 さあ、ペテロにとっては、これは大問題でした。
 旧約聖書の律法では、食べてよいきよい動物と食べてはいけない汚れた動物が厳格に規定されていますが、この「きよい」「汚れている」というのは、衛生上というよりも、宗教的な意味で使われる言葉です。実際の生活の中で、きよいものときよくないものを区別することによって、神様がきよいお方であり、きよくなければ神様に近づくことはできないということを教えるための規定だったのです。
 前回の箇所で、クリスチャンが「聖徒」と呼ばれているのは、神様の専用品として区別された者という意味だとお話ししましたね。イエス・キリストを信じるひとりひとりは、罪のないきよい者と見なされ、神様の御前に近づくことができ、神様のものとされているのです。ですから、イエス様の福音には食物規定は必要ありません。
 しかし、ユダヤ人たちは、細かい食物規定を守ることが自分をきよく保って神様に受け入れられるようになることであり、汚れた動物を食べるのは大きな罪だと考えていたのです。そして、食物規定を守らない異邦人を汚れた者として軽蔑していました。
 幼い頃からそのような環境で育ったペテロにとって、汚れた動物をほふって食べるなどとは、考えられないことだったのです。ですから、後味の悪い幻だったに違いありません。
 
2 コルネリオから遣わされた人々
 
 ペテロがこの幻について思い惑っているちょうどその時、コルネリオから遣わされた人々が到着しました。
 コルネリオはローマ軍の百人隊長です。「彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた」と書かれていますね。そして、午後三時ごろ幻を見たとありますが、コルネリオは、毎日、午後三時の祈りをささげていたのでしょう。ある日、そのコルネリオの祈りの最中に御使いが現れて「ヨッパにいるペテロを招きなさい」と言ったのです。コルネリオはすぐにヨッパに人を送りました。そして、使いの者たちが皮なめしのシモンの家に着いたのは、ちょうどペテロが幻を見終わっていた時だったのです。
 神様のタイミングは素晴らしいですね。もしペテロが幻を見る前にコルネリオのもとから来た人々の話を聞いても、すぐには信じられなかったかもしれません。しかし、幻を見た直後にコルネリオに起こった出来事を聞いたペテロは、これは神様の御計画だとすぐに感じたことでしょう。
 私たちも、決して偶然に生きているわけではありません。神様が整えてくださる時の中で生きています。それぞれに「ちょうどそのとき」と言えるタイミングが備えられているのです。神のなさることは、時にかなって美しいのですね。
 コルネリオに遣わされたしもべたちと部下の兵士の三人は、その夜、皮なめしのシモンの家に泊まりました。決して裕福な家ではなかったでしょう。そこに、ペテロとローマの百人隊長のしもべふたりとローマの兵士、そして皮なめしのシモンがいるのです。何だかとても麗しい光景だと思いませんか。社会から偏見や差別の対象とされた人たちがいました。当時最強の軍隊の兵士もいました。そして、使徒ペテロがいました。まったく違う人たちが一つ所にいるのです。全世界へ福音が広がっていく大きな転機となった場所は、あの小さな皮なめしのシモンの家だったと考えると感動しますね。
 教会くらいユニークで、いろいろな人たちがいる場所はないと思います。皆さん、どうぞ、教会に来たときくらいリラックスしてください。互いへの配慮は必要ですが、不必要な気遣いをするのは止めましょう。比較する必要もありません。見せびらかすことも、自慢することも必要ありません。皆、神様に愛されている一人一人だからです。
 
3 コルネリオの家で
 
 さて、ペテロはヨッパのクリスチャンたち数人とともに翌日さっそく出発し、途中一泊してコルネリオの家に到着しました。コルネリオは、親族や親しい友人たちを呼び集めて、ペテロの到着を待っていました。
 当時のユダヤ人にとって、異邦人の家を訪問することは、汚れた動物を食べることと同じくらい身を汚す行為だと考えられていました。しかし、ペテロは、「ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです」という主の声を聞いていたので、躊躇することなくコルネリオの家に入っていきました。そして、開口一番こう言ったのです。「ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。」
 そして、自分が招かれた経緯を改めてコルネリオ自身の口から聞いたペテロは、このように言ったのです。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。」
 そして、ペテロは、そこにいる人たちに、福音のメッセージを語り始めました。その内容は、10章36節から43節に書かれていますが、要約すると次のようなものでした。
 「イエス・キリストは、すべての人の主です。イエスは、神の聖霊と力に満ちた方で、多くのよいわざをなし、悪霊や病に苦しむ人々をいやされました。私たちは、イエスの行われたことをすべて目撃した証人です。人々は、このイエスを木にかけて殺しました。しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、私たちの前に現れさせてくださいました。私たちはよみがえったイエスにお会いし、ご一緒に食事までしたのです。私たちはイエスの復活の証人です。このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方なのです。私たちは、そのことを人々に宣べ伝え、イエスが確かに今も生きておられるまことの救い主であることをあかしするように、主によって命じられたのです。この方を信じる者はだれでも、その名によって罪のゆるしが受けられると聖書の預言者たちもあかししています。」
 ここで、ペテロは、イエス様が十字架にかかったことを、わざわざ「木にかけられた」と表現しています。申命記21章23節に「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである」と記されているのを意識したのでしょう。イエス様は、罪のないきよい方ですから、本来なら、神のひとり子が木にかけられることなどあり得ないことです。それなのに、私たちの罪の問題を解決するために、私たちの代わりに呪いを一身に引き受けてくださったのだ、ということをペテロは強調したかったのでしょう。
 しかし、それで終わりではありませんでした。神様は、死んで墓に葬られたイエス様を三日目によみがえらせてくださったのです。この復活によって、イエス様が本当に神様のもとから遣わされたまことの救い主であることが証明されました。つまり、イエス様こそ、十字架によって私たちに罪の赦しをもたらし、永遠のいのちを与えることができる方だということが明らかになったのです。
 そのことをペテロはコルネリオたちに熱心に語りました。
 
4 神様の証明
 
 すると、ペテロの話に耳を傾けていたすべての人々に聖霊がお下りになり、彼らは異言を話し、神を賛美し始めたのです。 異邦人もイエス・キリストを信じれば救われるのだということを神様御自身がはっきりと示してくださったのです。
 それを見たペテロは言いました。「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」そして、彼らに洗礼を授けたのです。
 ペテロが今まで持っていた偏見や固定観念は崩れ去りました。異邦人は神様に愛されない、という思い込みも吹き飛んでしまいました。イエス様の福音に国境はありません。人種、民族、国籍、肌の色、職業、社会的地位などの違いはまったく問題ではありません。イエス様はすべての人の主であり、すべての人の救い主なのです。
 今日の箇所の出来事は、福音があらゆる隔ての壁を乗り越えて、全世界に広がっていくものでありことを知らせるものになりました。
 
5 教会の承認
 
 さて、11章には、「異邦人たちもイエス・キリストを信じて洗礼を受けた」という知らせがエルサレムの教会にも届いたことが書かれています。
 ところが、ペテロがエルサレムに上った時、ユダヤ人クリスチャンの中に「あなたは律法を守らない異邦人のところに行って食事をした」と非難する人がいたのです。
 そこで、ペテロは、自分が見た幻のこと、コルネリオが御使いから自分を招くよう命じられたこと、そして、福音を聞いているコルネリオたちに聖霊がお下りになったことを説明し、こう言いました。「私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」(11章17節)
 すると、11章18節にこう書かれています。「人々はこれを聞いて沈黙し、『それでは、神は、いのちにいたる悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ』と言って、神をほめたたえた。」
 ペテロだけでなく、教会の中には「異邦人が救われるはずがない」という固定観念を持っている人が大勢いました。しかし、神様は、コルネリオの出来事を通して、イエス・キリストの福音はすべての人のためのものであることを示してくださったのです。そのことについて教会の中で共通の理解を得ることは、とても大切なことでした。そして、この時から、教会全体の祈りと支援を受けながら、福音が異邦人にも伝えられていくようになっていくのです。
 
 さて、イエス様の福音は、いろいろな壁を乗り越えていくものですが、一瞬で乗り越える時もあれば、時間をかけて、様々な経験の積み重ねの中で徐々に乗り越えていくこともあります。
 私たちには当時のペテロたちのような食物規定はありませんが、教会の伝統や方法にこだわったり、偏見や固定観念にとらわれて、それが福音を広める妨げになっていることがあるかもしれません。いつも、そのことを点検するのは大切なことです。そして、変えるべきところは、勇気を持って変えていきたいですね。聖書に照らしながら、主の導きに従いながら、壁を乗り越え、妨げを取り除きながら、主と共に歩んでいきましょう。