城山キリスト教会 礼拝説教          
 二〇二二年三月六日             関根弘興牧師
             使徒の働き一六章一二節〜三四節
 使徒の働き連続説教20
   「ピリピ教会の誕生」
 
 12 それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。13 安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。15 そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください」と言って頼み、強いてそうさせた。16 私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。17 彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。18 幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。19 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。20 そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、21 ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」22 群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。27 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。29 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。35 夜が明けると、長官たちは警吏たちを送って、「あの人たちを釈放せよ」と言わせた。36 そこで看守は、この命令をパウロに伝えて、「長官たちが、あなたがたを釈放するようにと、使いをよこしました。どうぞ、ここを出て、ご無事に行ってください」と言った。37 ところが、パウロは、警吏たちにこう言った。「彼らは、ローマ人である私たちを、取り調べもせずに公衆の前でむち打ち、牢に入れてしまいました。それなのに今になって、ひそかに私たちを送り出そうとするのですか。とんでもない。彼ら自身で出向いて来て、私たちを連れ出すべきです。」38 警吏たちは、このことばを長官たちに報告した。すると長官たちは、ふたりがローマ人であると聞いて恐れ、39 自分で出向いて来て、わびを言い、ふたりを外に出して、町から立ち去ってくれるように頼んだ。40 牢を出たふたりは、ルデヤの家に行った。そして兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出て行った。(新改訳聖書第三版)
 
 前回は、パウロがシラスと共に二回目の伝道旅行に出かけたこと、そして、パウロたちが向かおうとしていた道が次々と閉ざされ、最後にヨーロッパに行く道が示されたことを見ましたね。パウロたちは、もっと小アジアの各地を回って伝道しようと思っていたのに、主は、ヨーロッパに渡って行くようにお命じになったのです。そこで、パウロたちは、小アジアの西の端にあるトロアスから船出して、今のギリシヤの北部にあたるマケドニヤ地方のネアポリスに上陸し、ピリピの町に向かいました。
 ピリピは、ローマのミニチュア版のような町でした。ローマの植民都市で、ローマと直接つながり、政治や生活習慣などのすべてがローマ風でした。この町でヨーロッパ最初の教会が誕生することになるのです。
 
1 ルデヤ 
 
 ピリピの町には、ユダヤ人はあまりいなかったようです。通常ユダヤ人男子が十名いれば会堂が建てられるのに、ここには会堂がありませんでした。会堂がない場合、ユダヤ人たちは、川岸に集まり祈りの場としていたようです。
 昔、南ユダ王国がバビロニヤ帝国に滅ぼされ、多くの人がバビロンに捕虜となって連れて行かれたとき、彼らは川のほとりに集まって祈りをささげていました。詩篇137篇1節に「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた」とあります。そのように、ユダヤ人たちは会堂がない所では、川岸に集まって祈っていたのですね。
 ピリピにも会堂がないので、パウロたちは、川岸に祈りの場があるだろうと思って出かけていきました。すると、数人の婦人がパウロの話を聞きに集まってきました。その中に、「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤ」という婦人がいました。
 テアテラは、小アジアの中のアジア地方にある町です。前回の箇所で、パウロたちがそのアジア地方に行こうとしたけれど、主がお許しにならなかったと書かれていましたね。しかし、このピリピの町でその地方出身のルデヤに出会ったのです。
 テアテラは染物工業の町で、特に、テアテラ産の紫布は王侯貴族などに用いられた高級品でした。その紫布の商人であるルデヤは、相当な資本を持ち、上流階級の世界に自由に足を踏み入れることのできる、今で言えば、バリバリのキャリア・ウーマンだったのでしょう。マケドニアのこの地方第一の都市であるピリピにも進出していたのです。
 ただ、ビジネスで成功しただけでは、心を満たすことができなかったのでしょう。「神を敬うルデヤ」と紹介されていますが、この「神を敬う」というのは、ユダヤ教に改宗した異邦人に対して使われる表現です。ルデヤは異邦人でしたが、テアテラのユダヤ人の会堂に通って旧約聖書の教えを学んでいたのでしょう。そして、ピリピの町に来ても定期的に川岸に集い、神様に祈りを捧げていたのです。そして、パウロの話を聞きました。「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた」とありますね。「求めなさい。そうすれば与えられます」とイエス様は言われましたが、私たちが求めるとき、主が私たちの心を開いて、求めていたものを受け取ることができるようにしてくださるということなのですね。
 ルデヤは、それまで漠然と祈り、きよめの儀式を行い、救いを求めてきたのですが、パウロの話を聞いているときに主がルデヤの心を開いてくださったので、イエス・キリストが救い主であることを信じることができました。そして、家族にもパウロの話を聞かせ、家族そろってバプテスマ(洗礼)を受けたのです。
 ところで、洗礼を卒業証書のように考えている人がいますが、そうではありません。洗礼は、イエス・キリストを救い主として信じ、これからキリストと共に生きていきます、という出発の儀式です。イエス・キリストとともに古い自分が死に、イエス・キリストと共に復活して新しいいのちを受けて生きる者となったということを表す儀式なのです。洗礼を受けるのに、何の資格も条件も必要ありません。ただ、「イエス様が私の罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、復活して私に新しいいのちを与えてくださった」ということを信じるだけで十分なのです。ですから、8章に出てきたエチオピヤの高官もイエス様を信じてすぐに洗礼を受けましたし、今日の箇所のルデヤもすぐに洗礼を受けました。それは、長い間求道し続けたルデヤにとって、ついに永遠の救いに預かることができた喜びの瞬間となったのです。
 そして、このルデヤの家を拠点として、パウロたちはピリピでの伝道の働きを進めていくことになりました。また、このルデヤの家がクリスチャンになった人々に開放され、家の教会として用いられるようになったのです。
 考えて見れば、パウロたちがピリピの町に行った時、知り合いは誰一人いませんでした。伝道の拠点に出来る場所が準備されていたわけでもありません。何もない場所にいったわけです。しかし、パウロたちは、「主がここに導いてくださったのだから、必要なものは主が備えてくださる」と確信していました。
 アブラハムのことを思い出してください。主はアブラハムに「あなたが今いる場所から出て、わたしが示す地に行きなさい」とお命じになりました。その主の言葉に従ってアブラハムは見知らぬ土地に向かいました。そこでは様々な困難に見舞われました。失敗することもありました。しかし、主は、必要なものをすべて備え、アブラハムを教え、導き、約束した祝福を与えてくださったのです。アブラハムは、生涯をかけて、「ただ主に従っていけばいい。そうすれば、主は備えてくださる」ということを学び、「アドナイ・イルエ」(「主が備えてくださる」)と告白しました。
 また、モーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民も、荒野の旅の中で、主がいつも共にいて、必要なものをすべて備えてくださることを体験しました。
 先週もお話ししましたが、私は、小田原に遣わされて今年でちょうど四十年です。振り返れば、主は私のためにも、城山教会のためにも、必要なもの、必要な人、必要な場所をいつも備えてくださいました。悩んだり、迷ったり、問題が起こることもありましたが、それも主の恵みを味わう機会として備えられたものだったのです。
 主は、御自分を信頼する人々のために必ず必要なものを備えてくださる方です。アブラハムと同じように、私たちもアドナイ・イルエ(主が備えてくださる)と告白しながら、主と共に歩んでいこうではありませんか。
 
2 占いの霊につかれた女奴隷
 
 さて、ピリピの町で問題が起こりました。占いの霊につかれた若い女奴隷がパウロたちにつきまとい、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けたのです。それが幾日も続いたので、パウロたちは困り果ててしまいました。
 この女奴隷は、神々からの神託を人々に告げる巫女のような役割を果たしていたのでしょう。主人たちに多くの利益をもたらしていたと書かれていますから、かなり有名な巫女だったのかもしれません。
 彼女がパウロたちについて叫んでいたことは間違いではありません。確かにパウロたちは「いと高き神のしもべ」ですし、救いの道を宣べ伝えているのですから。しかし、この女性がそう叫び立てることは、かえって本当の福音を正しく伝える妨げになってしまっていたのです。
 想像してみてください。もし、いかがわしい宗教の教祖が、自分がイエス様を信ているわけでもないのに、「イエス様は救い主です」「城山教会はすばらしい教会です」と叫び回ったらどうでしょう。まったく迷惑なことですね。そんなことをされたら、正しい福音の内容や教会の本来の姿を伝えることができなくなってしまいますね。それと同じで、異教の世界の迷信や束縛の中にいる女奴隷が、闇雲に叫んでも、かえって誤解されたり、混乱を生むだけなのです。
 聖書は、人が神様のもとに行くのを妨げようとする霊的な存在があると教えています。
 といっても、恐れる必要はありません。イエス様は、そういう霊的な存在より遙かに力のある方ですから、イエス様を信頼していれば、悪い者は私たちに触れることはできない、とはっきり約束されています。
 ただそういう霊的存在があることを知っておくこと、惑わされることのないようにすることは大切です。聖書は、占いをする者や霊媒師などがいて、ある程度、未来を言い当てたりすることができる場合があるけれど、決してそれに惑わされてはならないと厳しく警告しています。そういうものは、私たちを縛り、支配し、神様のもとから引き離そうとする働きをするからです。
 女奴隷にとりついていた占いの霊も、パウロたちの味方であるようなふりをしながら、実は福音を妨げようとしていました。しかし、パウロが「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と命じると、霊は従わざるを得ませんでした。イエス・キリストの御名には力があるからです。そして、混乱していた女性は、惑わす霊の束縛から解放されたのです。 その後、この女性がどうなったかは書かれていませんが、まことの救い主を信じて、まったく新しい生き方を始めたのではないでしょうか。
 
3 看守
 
 しかし、その結果新たな問題が起こりました。この女奴隷を使って儲けていた人々が激怒して、パウロとシラスを捕らえ、長官たちの前に引き出して、「この者たちは町をかき乱している」と訴えたのです。人を自由にするイエス様の働きがある一方で、人を束縛する人間の利己主義があるのですね。長官たちは、その訴えを鵜呑みにして、ふたりをむち打ちにし、投獄してしまいました。
 ローマ式の鞭打ちは容赦ないものですから、彼らの背中の痛みは相当のものだったでしょう。さらに、足かせをはめられ、これからどうなるかまったくわからない状況です。しかし、そんな中でもパウロとシラスは、真夜中に神様を賛美する歌を歌っていました。他の囚人たちはその歌に聴き入り、看守も不思議な人たちだと思いながらウトウトしていたのでしょう。
 その時、突然、大地震が起こって、牢のとびらが全部あいて、彼らをつないでいた鎖が解けてしまいました。目を覚ました看守は、この事態を見て、囚人が脱走してしまったと思いました。当時、囚人が脱走したら、その責任は看守が負うことになっていました。ですから、看守は、俺の人生はここで終わったと思ったに違いありません。どうせ罰せられて死刑になるくらいなら、ここで自害しようとしたのです。看守にとっての人生最大の危機です。そのときでした。パウロが大声で「自害してはいけない、私たちはみなここにいる」と叫んだのです。
 不思議なことに、パウロたちも他の囚人たちも逃げようとはしませんでした。もしみなさんが看守の立場なら、この後どうしますか。本来なら、全員を牢に戻して厳重に鍵をかけ直すところでしょうね。しかし、この看守はそうしませんでした。
 29節-30節にこう書かれています。「看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。そして、ふたりを外に連れ出して『先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか』と言った。」
 看守は、大地震という人の力を越えた大きな力を体験しました。また、自分の人生が破滅する恐怖を感じ、死の危機に直面しました。彼の人生の根本が揺るがされたのです。しかし、そんな彼の目の前に、揺るぎない平安と信仰に満ちたパウロとシラスの姿がありました。彼らは、むち打たれ、投獄されても、平然と神を賛美していました。大地震が起きても同様しませんでした。逃げ出すどころか、力強い声で「自害してはいけない」と看守に呼びかけました。その姿を見て、看守は、「この人たちは、私にないものを持っている。私の知らない確かな拠り所をもっている」と感じたのでしょう。ふたりの前にひれ伏し、「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と尋ねたのです。
 パウロの答えは単純でした。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」パウロが語る福音を聞いた看守と家族は、すぐに救い主を信じ、洗礼を受けました。恐怖と絶望にあった看守の家に喜びが訪れたのです。
 ところで、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という言葉は、自分がイエス様を信じたら、自動的に家族みんなが救われるという約束だと解釈されてしまうことがあります。しかし、そうではなくて、この言葉は、「あなたは、主イエスを信じなさい。そうすれば救われます」「あなたの家族も主イエスを信じなさい。そうすれば救われます」という意味です。ですから、看守は、パウロの話を自分一人だけで聞こうとはしませんでした。家族にもパウロの語る福音を聞かせたのです。その結果、家族全員が信じて洗礼を受けました。
 あなたがイエス・キリストを信じることは、福音が家族に伝わっていく大切なスタートです。家族一人一人が福音を聞いて信じていく機会が与えられるように、祈り備え、主の時を待つことが大切なのです。
 さて、その夜、パウロたちは、看守の家に招かれ、もてなしを受けましたが、翌日、長官たちからパウロたちを釈放せよという命令が届きました。しかし、パウロは「ローマ人である私たちを正式な手続きを取らずに罰したことは違法です。私たちを牢から出すなら、それなりの手続きを取るべきです」と返答しました。当時、ローマ市民権をもっている人の権利は手厚く保護されることになっていたのです。長官たちは、自分たちが失態を犯したことに気づいて、慌ててパウロたちのもとに来て謝罪し、事を荒立てないでくれるように懇願しました。
 そこで、パウロたちは、堂々と牢を出て、ルデヤの家に集まっている兄弟たちを励ましてから、新たな場所に福音を伝えるために出ていったのです。
 ピリピ教会には、様々な人が集められました。裕福なルデヤもいれば、看守もいました。この後、この教会は成長して、パウロたちに大きな励ましと慰めをもたらす教会となっていったのです。