城山キリスト教会 礼拝説教          
 二〇二二年五月一日             関根弘興牧師
               使徒の働き一九章一節〜七節
 使徒の働き連続説教26
   「聖霊を受けましたか」
 
 1 アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、2 「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えた。3 「では、どんなバプテスマを受けたのですか」と言うと、「ヨハネのバプテスマです」と答えた。4 そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです」と言った。5 これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。6 パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。7 その人々は、みなで十二人ほどであった。(新改訳聖書)
 
 さて、前回の18章23節からパウロの第三回目の伝道旅行が始まりました。第一回目と第二回目の伝道旅行で、パウロは、キプロス島や今のトルコにあたる小アジア地方やギリシヤのマケドニヤとアカヤの地方にまでイエス様の福音を伝えました。そして、今回の第三回目の伝道旅行では、パウロはまず、以前に福音を伝えた小アジアの各地を回って教会の仲間たちを励ましてから、エペソにやって来たのです。
 前回、パウロが第二回目の伝道旅行の最後にエペソに立ち寄ったことが書かれていましたね。エペソの人々は、もっとパウロの話が聞きたいからしばらくエペソに滞在してほしいと頼んだのですが、パウロは、「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます」と言い、同労者のプリスキラとアクラの夫婦をエペソに残して自分はエルサレムに向かっていきました。そして、今回、エペソに戻ってきたのです。神様のみこころだったのですね。このエペソに、パウロは約三年間留まることになりました。第三回伝道旅行では、このエペソでの働きのことが最も多く記録されています。
 エペソは、当時の最も大きな港町の一つで、自由都市として栄えていました。町の中心にはアルテミスという女神の神殿が建ち、異教徒の迷信の場となっていました。「人種の混合」「犯罪人の流入」「アルテミス神殿での不道徳(神殿娼婦などの存在)」がこの町の特徴だったのです。人間的に見るなら、非常に伝道が困難な町であるかのように思われますね。しかし、その町で神様は多くのみわざを行ってくださったのです。
 
1 ヨハネのバプテスマ
 
 前回お話ししましたが、パウロがエペソに来る前に、アポロという伝道者がエペソに滞在していました。アポロは、学識豊かで、旧約聖書に精通し、雄弁家で、大胆にイエス・キリストを宣べ伝えていたのですが、一つ足りないことがありました。「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」というのです。
 今日の箇所では、パウロが出会った幾人かの弟子たちも「ヨハネのバプテスマを受けた」と言っていますね。
 では、ヨハネのバプテスマとは、どのようなものでしょうか。
 バプテスマのヨハネは、イエス様が来られる前に、荒野で声高く叫んでいた人です。人々に救い主をお迎えする準備をさせる使命を神様から与えられていました。彼は、らくだの毛で織った物を着て、腰には皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていました。その姿は旧約聖書を代表する預言者エリヤのようでした。ちなみに、旧約聖書の最後の預言者であるマラキは、「神様はいつか預言者エリヤをあなたがたに遣わす」と預言していました。エリヤは、偶像礼拝に陥っていたイスラエルの民を真の神様に立ち返らせる役目を果たした人です。マラキは、「そのエリヤのような預言者が将来あなたがたに与えられる」と預言したのです。それが、バプテスマのヨハネでした。人々に向かって、「神様に背いた生活を続けるなら、自らの身に滅びを招くだけだ。今、心から罪を悔い改めなさい。そして、神様の方向に向きを変えなさい」と厳しく大胆に宣べ伝えたのです。そして、悔い改めのしるしとしてヨルダン川で多くの人々にバプテスマ(洗礼)を授けていました。つまり、ヨハネは、人々に罪を自覚させ、神様の救いが必要であることを教え、これから来られる救い主イエス様を迎える準備をさせていたのです。
 しかし、いくら準備ができても、実際に救い主を信じて受け入れなければ、本当の救い、罪の赦しと永遠のいのちを受け取ることはできませんね。
 ですから、バプテスマのヨハネは、「私は、あなたがたが悔い改めるために水のバプテスマを授けていますが、私よりもはるかに力のある方が来られ、聖霊と火とのバプテスマを授けてくださいます」と教えたのです。ヨハネ自身も、自分が授けるバプテスマは完全な救いを表すものでないとわかっていました。完全な救いを与えることができるのは、神の御子イエス・キリストだけなのです。ですから、自分の罪を認め、神様の方に向きを変える悔い改めを示すヨハネのバプテスマだけでは十分ではありません。「イエス様こそ私の救い主です」と信じて受け入れることが必要なのです。
 アポロも、パウロがエペソで出会った弟子たちも、イエスがキリストであることを認めてはいました。しかし、イエス・キリストによってもたらされる救いについての理解が不十分だったのです。
 パウロがエペソで出会った弟子たちは、おそらく、以前にアポロの教えを受けてヨハネのバプテスマを受けたのでしょう。
 その後、アポロは、プリスキラとアクラの夫妻から詳しい説明を受けて福音の本質を理解することができました。そして、コリントがあるアカヤ地方に行ってすばらしい働きをするようになりました。
 しかし、パウロが出会った弟子たちは、プリスキラとアクラの夫婦がいる教会の群れに入らず、自分たちだけで行動していたのかもしれません。それで、いまだにヨハネのバプテスマしか知らない状態でした。
 
2 聖霊を受けましたか
 
 その弟子たちにパウロは、「信じたとき、聖霊を受けましたか」と質問しました。パウロは、彼らの状態を見て、何かが足りないと感じたのかもしれませんね。すると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えたのです。
 私たちの神様は、三位一体なるお方です。父なる神、子なるイエス、そして、聖霊が、いつも同じ本質と思いをもってみわざをなしておられるのです。
 父なる神様は、私たちを救う計画を立てて御子イエスを遣わしてくださいました。
 御子イエスは、十字架と復活によって救いの道を完成させてくださいました。そして、天に昇って行かれる前に、ヨハネ14章16節でこう約束してくださっていました。「父なる神は、もう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」
 その「もう一人の助け主」が聖霊です。聖霊は、私たち一人一人の内に住み、私たちが神様のいのちによって生かされ、神様と共に歩むことができるようにいつもともにいてくださるのです。聖霊は父なる神と同じお方ですから、父のみこころを私たちに教え、神様の愛や恵みを味わわせてくださいます。また、聖霊は、イエス様と同じお方ですから、イエス様の十字架による罪の赦しとイエス様の復活によって与えられる永遠のいのちを私たちにもたらしてくださいます。また、いつも私たちとともにいて、慰め、励まし、助けてくださるのです。イエス様は、復活して天に昇って行かれる時に「わたしは世の終わりまでいつまもあなたがたとともにいます」と約束してくださいましたが、それは、聖霊が共にいてくださることによって実現したのです。
 ですから、パウロは、「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねたのです。もし、聖霊のことを知らないとしたら、信じている内容を見直してみる必要があるからです。聖霊の助けなしにクリスチャン生活を送ろうとすることは、自分の努力や頑張りでクリスチャン生活を送ろうとすることですから、とても厳しく、緊張し、不安定で、疲れる生活になることでしょう。
 
3 主イエスの御名によるバプテスマ
 
 さて、聖霊のことを知らず、ヨハネのバプテスマしか受けていないと答えた弟子たちに対して、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げたのです」と説明しました。「悔い改めるだけでなく、イエス様を救い主と信じて受け入れることが必要だとヨハネも言っていたのですよ」と教えたのです。そして、イエス様の十字架によって罪が赦されたこと、また、イエス様の復活によって新しいいのちを受けとって生きることができるようになったこと、また、イエス様を信じる人々の内には聖霊が住んでくださることを説明したことでしょう。
 それを聞いた人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けました。
 この「主イエスの御名によるバプテスマ」というのは、私たちが行っている洗礼と同じものです。イエス様とともに十字架で古い自分が死に、イエス様と共に復活して新しいいのちによって生きる者とされたことを象徴する儀式なのです。
 ただ知っておいていただきたいのは、洗礼は、救われるための手段ではないということです。私たちは、イエス様を救い主として信じて心にお迎えしたときに救われます。イエス様を信じたとき、聖霊も私たちの内に宿ってくださいます。第一コリント12章3節には「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」と書かれているように、そもそもイエス様を救い主として信じることができるのは、聖霊の助けがあるからなのです。
 洗礼は、救いを象徴する儀式にすぎません。でも、洗礼を受けることによって、自分に対しても人に対しても新しい人生のスタートをしたという証明となるのですね。
 
4 聖霊のしるし
 
 そして、19章6節に「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした」と書かれています。イエス様を信じたときに聖霊が与えられるということが目に見え、誰にでもわかるようなかたちで示されたのです。
 このように聖霊が下られたことが周りの人々にもわかるように示された出来事は、これまでに三回記録されていましたね。
 最初は、イエス様が天に昇って行かれた後、弟子たちがエルサレムに集まって祈っていたときのことです。2章1節ー4節にこう書かれています。「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」その出来事に驚いて集まってきた人々に対して、弟子たちはイエス・キリストの福音を大胆に語りました。すると、その日だけで三千人がイエス様を信じたのです。イエス様は、天に昇って行かれる前に1章8節で「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と約束しておられました。そのイエス様の約束が実現したことをすべての人々に示すために、神様が不思議なみわざを現してくださったのです。
 二回目に同じようなことが起こったのは、サマリヤにおいてでした。エルサレムでクリスチャンに対する激しい迫害が起こったため、多くのクリスチャンが各地に散らされていきました。そのうちの一人であるピリポはサマリヤに行き、福音を宣べ伝えました。すると多くのサマリヤ人がイエス・キリストを信じたのです。その知らせを受けて、エルサレムにいたペテロとヨハネがサマリヤに出向き、人々のために手を置いて祈りました。すると、8章17節に「ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」と書かれています。つまり、聖霊がまわりの人々にも見えるかたちでサマリヤの人々に与えられたのです。当時、サマリヤ人はユダヤ人と犬猿の仲でしたが、そのサマリヤ人さえもイエス様を信じれば救われるのだということを神様がこの出来事を通して示してくださったのです。
 三回目は、ペテロがローマの百人隊長コルネリオの家に行ったときに起こりました。コルネリオは異邦人でしたが、神様から示されてペテロを家に招きました。当時のユダヤ人は異邦人の家に入ると身が汚れると考えていましたが、ペテロは神様に示されてコルネリオの家に入り福音を語ったのです。すると、10章44節にこう書かれています。「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。」そして、コルネリオたちは、異言を話し、神を賛美し始めたのです。ペテロに同行していたユダヤ人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚きました。この出来事をきっかけにして、イエス様を信じれば、ユダヤ人であっても異邦人であっても、すべての人が救われるということが教会の中で認められるようになったのです。
 そして、四回目が今回のエペソで起こりました。ヨハネのバプテスマしか知らなかった人々がイエスの御名によってバプテスマを受けると、聖霊が与えられたのです。
 このように見ていくと、聖霊が与えられるときに目に見える現象が起きるのは、何かの大きな転換点だったことがわかります。
 一回目には、福音を宣べ伝えていくためには聖霊の力を受ける必要があることが示されました。二回目には、ユダヤ人と同じルーツを持っているにもかかわらず反目していたサマリヤ人でさえも救いを受けることができることが示されました。三回目には、神様の救いの対象外だと見なされていた異邦人もイエス・キリストを信じれば救われるのだということが示されました。また、今日の四回目では、福音は正しく伝えられなければならないということが示されたのです。それは、これから、ますます広い範囲で福音が伝えられていくための大切な教えでした。
 神様は、目に見える形で聖霊の賜物を与えることによって、その時々に必要な大切なことを教えてくださったのです。
 
5 聖霊のみわざ
 
 ところで、今日の箇所では、人々は、聖霊によって異言を語ったり預言をしたと書かれていますね。「異言」というのは、自分の知らない言葉のことです。外国語のようなものですね。また、預言は、神様のことばを預かって語るということです。当時は、新約聖書がまだ完成していませんから、異言や預言によって神様の恵みを語ることは、今よりも多く見られました。
 聖霊の賜物は、異言や預言だけではありません。第一コリント12章4節-11節には、聖霊の賜物についてこう書かれています。「さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。」
 ここには、聖霊の賜物として、異言や預言の他に「知恵のことば」「知識のことば」「信仰」「いやしの賜物」「奇跡を行う力」「霊を見分ける力」「異言を解き明かす力」が挙げられていますね。(ちなみに、この「信仰」は、すべてのクリスチャンに与えられる「イエス・キリストを信じる信仰」ではなくて、何か特定のことについて個人的な確信が与えられるという意味でしょう。)
 ここで、聖霊の賜物について覚えておくべき大切なことが書かれています。「聖霊の賜物は、みなの益となるために、神様がみこころのままにそれぞれに分け与えてくださる」ということです。
 私たち一人一人はキリストのからだを形づくっている器官です。目立つ器官もあれば、目立たない地味な器官もあります。でもそれぞれ与えられた役割があり、その役割を果たすための賜物を与えられています。どの器官もみなの益となるために大切なのです。目が口をうらやむ必要はありません。足が手より優れているわけでもありません。互いに与えられた賜物を比べて優劣を競い合う必要はないのです。もし、一つの器官が自分が他の器官よりも優れていると誇って暴走し始めたら、からだは破壊されていくでしょう。
 コリント人への手紙を読むと、コリント教会には聖霊の賜物が豊かに与えられていましたが、それを誇って暴走してしまう人がいました。たとえば、礼拝で異言で長々と語る人がいました。しかし、他の人は何を言っているのかわかりません。しかも初心者やクリスチャンでない人が入ってきたとき、異言を聞いたら、クリスチャンたちは気が狂っていると思うかもしれませんね。そこで、パウロは、「異言を解き明かす人がいなければ、人前で異言を語らないほうがよい」と注意しています。
 聖霊の賜物を求めることは大切です。しかし、聖霊の賜物が与えられたといって自分を誇るのは愚かなことです。また、何かの賜物が与えられているかいないかでお互いの信仰の優劣を決めるのも愚かなことです。
 また、全員が異言や預言を語れるようになるべきでしょうか。違います。もし私が、「異言や話すことができない人は、まだ聖霊が与えられていない」と説教をしたら、それは、大変おかしな説教で、聖書を正確に伝えていないということです。
 大切なのは、一人一人が神様のみこころのままに与えられた賜物と役割を感謝し、互いに調和しつつ、みなの益のために、また、キリストが崇められるために用いていくことなのです。
 さて、一人一人に与えられる賜物はそれぞれ違います。でも、皆が同じように味わうことのできる聖霊のみわざがあります。
 聖霊は、私たちを永遠のいのちによって生かし、成長させてくださり、キリストに似た栄光の姿に変えていってくださいます。そして、私たちの内に御霊の実を結ばせてくださいます。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。聖霊は、いつもともにいて、こうした実を実らせてくださるのです。それは、イエス・キリストを信じるすべての人が味わうことのできる恵みです。私たちは、この聖霊にすべてをおゆだねして、歩んでいけばいいのです。
 パウロは、第一コリント3章16節であなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」と書いています。私たちの内に聖霊が宿っておられるのです。それは、父なる神、御子イエス・キリストがともにおられるということでもあります。
 第二コリント12章9節で神様はこう言われました。「わたしはあなたと共にいる。 それで十分ではないか。」(リビングバイブル訳)本当に、その通りですね。
 もし皆さんが、「あなたは聖霊を受けましたか」と聞かれたら、「はい、イエス様を信じ受け入れたときから、聖霊は私の内に住んでくださっています!」と自信を持って答えてください。今週も聖霊と共に歩んでいきましょう。