城山キリスト教会 礼拝説教          
 二〇二二年五月八日             関根弘興牧師
              使徒の働き一九章八節〜二〇節
 使徒の働き連続説教27
   「驚くべき主のみわざ」
 
 8 それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。9しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。10 これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。11 神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。12 パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。13 ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみた。14 そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。15 すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」と言った。16 そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押さえつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。17 このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。18 そして、信仰に入った人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。19 また魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。20 こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。(新改訳聖書第三版)
 
 今回は、パウロの第三回目の伝道旅行の続きです。
 まず、前回の内容を振り返ってみましょう。パウロがエペソにやって来ると、数人の弟子たちに出会いました。彼らは、ヨハネのバプテスマしか受けていませんでした。つまり、自分の罪を悔い改めて神様のほうに向きを変えることはできていたのですが、イエス様を救い主として受け入れることについてよくわかっていなかったのです。そこで、パウロはイエス・キリストの救いについて説明し、主イエスの御名によって洗礼を授け、彼らに手を置いて祈りました。すると、彼らに聖霊が臨み、彼らは異言や預言を語り始めました。この出来事は、何を示していたでしょうか。まことの救いは、イエス・キリストの御名によって与えられるのだということ、つまり、イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた罪の赦しといのちを受け取るとき、聖霊が与えられ、いつも三位一体の神様とともに生きることができるようになるということです。聖書では「御名」とは、本質や性質を表す言葉です。私たちは、ただイエスという方が救い主であることを知識として知っているだけでなく、「イエス・キリストの御名」、つまり、救い主イエス様の愛、恵み、力、権威によって成し遂げられた救いを信じ受け取ることが大切なのですね。
 さて、パウロは、このエペソに約三年間滞在しました。その間にどんなことが起こったのか、今日の箇所に前回の続きが書かれています。
 
1 ユダヤの会堂で
 
(1)神の国
 
 パウロは、エペソでもいつものようにまずユダヤ人の会堂に行きました。そして、三ヶ月間、大胆に語り続けました。
 彼は何を語ったのでしょうか。8節に「神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた」とありますね。「神の国」とは、「神様の支配」ということです。
 人は皆、何かに支配されて生きています。「私は自分の意志で自分の思うとおりに生きている」という人は、そういう考え方に支配されて生きています。「神などいない」と思っている人は、無神論の考え方に支配されて生きています。まったく何にも支配されていないという人はいないのです。
 ですから、問題は、何に支配されるかです。それによって生き方が大きく変わるからです。たとえば、「人生には意味も目的もない」という考えに支配されていたらどうでしょう。常に虚しさを抱えて生きることになるでしょう。また、「自分の力で生きている」という考え方に支配されていたら、年を取ることは恐怖になります。老いるにつれてできなくなることが増えていくからです。また、欲望に支配されて、人間関係に多くの悲劇を生み出している光景はあちこちにありますね。権力が欲しい、富が欲しい、どんな手段を使ってでも奪ってしまえ、とだんだんエスカレートしてしまうことも多いのですね。
 そして、私たちは神様を知る前はみな罪と死の力に支配されている状態だったと教えます。罪とは「ずれている状態」のことです。神様との関係がずれてしまったために、人との関係も自然や物質との関係もずれてしまっていて、その状態に支配されているというのです。パウロは、ローマ7章19節で、その状態についてこう書いています。「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」人を愛したり赦したりすることが大切だとわかっていてもできない、人を憎んだり傷つけたりしてはいけないとわかっていてもやってしまう、それは、罪の力に支配されている状態にあるからだというのです。
 ですから、私たちの人生が何によって支配されているかということがとても大切なのです。そこで、パウロは、「人生を神様に支配していただくことが大切だ」と熱心に語ったのです。なぜなら、神様に支配していただくとき、私たちはもっとも自分らしく、安心して生きていくことができるからです。神様は、私たちの創造主ですから、私たちのことを最もよくご存じです。しかも愛とまことと知恵に満ちた方ですから、私たちを最善の生き方へと導くことがおできになります。私たちの良さが最も発揮できるように用いてくださいます。魚が水の中でこそのびのびと自由に生きることができるように、私たちも神様の支配の中でこそのびのびと自由に喜んで生きることができるのです。
 では、神の国に入るためには、つまり、神様に支配していただくためには、どうすればいいのでしょうか。イエス様、私の人生を主に委ねます。イエス様を信じ生きていきます、と告白するだけです。私たちは、神様との関係を回復し、聖霊が与えられ、神の国の一員となり、神様の支配の中で生きる者となるのです。ルカ17章21節で、イエス様は「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」と言われました。それは、つまり、私たちは、この日常生活の中で神様がすべてを支配してくださっていることを知ることができるのだということです。そして、先週話した通り、イエス様を救い主と信じる者に、助け主であり慰め主なる聖霊なる方が私たちの内に与えられていますね。それは、イエス様が永遠に共にいてくださり、この方の中に私たちは憩い、ゆだね、生きていくことができるのです。
 
(2)ユダヤ人の反応
 
 さて、パウロの話を聞いたユダヤ人たちの反応はどうだったでしょうか。
 以前、パウロが第二回の伝道旅行の途中にエペソに立ち寄ってユダヤ人の会堂で論じたとき、会堂の人たちは「もっと話が聞きたいので、留まってください」と懇願しましたね。ですから、今回パウロが戻って来てまた会堂で論じ始めたとき、彼らは最初は熱心に聞いていたでしょう。だから、パウロは会堂で三ヶ月間も語り続けることができたのでしょうね。
 しかし、しばらくすると、9節に「ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしった」とあるとおり、パウロの話に激しく反発する人々がでてきました。
 ユダヤ人たちは、「神の国」とは、自分たちを支配している異教徒たちが倒されて、エルサレムを中心としたイスラエルの国が再建されることだと考えていました。でも、パウロが語った「神の国」は、それとはまったく違うものでした。
 それに、パウロは、耳ざわりのよいことだけを語ったのではありませんでした。人々の罪を指摘し、悔い改めが必要であることもはっきり語ったのだと思います。
 そこで、最初は、喜んで聞いていた人々も、次第に反発するようになっていったのです。結局、パウロは弟子たちと共に別の場所に移ることにしたのです。
 
2 ツラノの講堂で
 
 パウロは、ツラノの講堂で毎日福音を語ることにしました。
 「ツラノ」というのは、この講堂の持ち主の名前だったのではないかと言われますが、はっきりわかりません。そして「講堂」と訳されているのは「スコレー」という言葉で、これから、英語の「スクール」という言葉が生まれました。「スコレー」は元々「余暇」「暇」という意味で、人々が仕事から解放された余暇を学びのために用いたことから、「講堂」という意味になったのだそうです。
 聖書にはたくさんの写本がありますが、ある写本はこの箇所をこう記しています。「パウロは毎日、ツラノという人の講堂で、第五時から第十時まで論じた。」この「第五時から第十時まで」というのは、今の午前十一時から午後四時までです。つまり、朝の仕事を終えた人々の昼休みの時間でした。パウロはこの昼休みの時間を過ごしている人々を集めて福音を語っていたのでしょう。
 ただ、この時間は、午前の仕事を終えて昼食を取るわけですから、最も眠くなる時間帯ですね。パウロの話を聞いてうとうする人がいたことでしょう。私もよく外部の集会に出かけますが、午後二時くらいから始まる集まりでは苦労します。いかにして皆さんが眠くならずに過ごせるかを工夫するのです。でも、眠いときは、どんな話を聞こうが眠いですね。ですから、聴衆の中に眠そうな人を見かけると、「私の説教は、それほどに安心を与え、心地よいのだな」と考えるようにしています。
 パウロは、二年間、ツラノの講堂で毎日福音を語り続けました。その結果、エペソ周辺の地域に住む多くの人々が福音を聞いたのです。
 
3 驚くべき奇跡
 
 そして、神様は、パウロの語る福音が真実であることを示すみわざを現してくださいました。11節ー12節にこう書かれていますね。「神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。」この「驚くべき奇跡」というのは、「よく起こるものとは違う、めったに起こらない」という意味です。神様は、みこころのままにいろいろな方法で不思議なみわざを行われます。今回は、パウロの手ぬぐいや前掛けが用いられました。しかし、パウロは、いつも必ず「イエスの御名によって」このみわざが行われたのだと語っていたことでしょう。だから、パウロのまねをしようとしたユダヤ人の魔よけ祈祷師たちも「イエスの御名」を唱えて悪霊を追い出そうとしたのでしょうし、17節でも人々が「イエスの御名」をあがめるようになったのでしょう。
 でも、今回のような奇跡が起こると、道具や物そのものに不思議な力があると考えてしまう人が出てくるのですね。聖人と言われる人が使っていたものに触るとご利益があるのではないかと思ったりするのです。しかし、人々をいやし、救うことができるのは、「イエスの御名」だけだということを覚えておきましょう。しかし、だからといって、「イエスの御名」を唱えさえすれば奇跡を行うことができると考えるのも愚かなことです。その愚かな人々のことが13節から書かれていますね。
 
4 ユダヤ人の魔よけ祈祷師
 
 諸国を巡回していたユダヤ人の魔よけ祈祷師たちの中にユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちがいました。祭司長は、ユダヤの上流階級です。ただ、スケワという祭司長の記録はどこにもありません。この七人は、もしかすると、ユダヤの由緒ある家柄の出だと見せかけるために偽りを言っていたのかもしれません。それに、ユダヤ教では元来呪術を厳しく禁じていました。祭司長の家柄ならなおさらです。申命記18章10節-12節にこう書かれています。「あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。」このようにはっきりと書かれているのですから、本来ユダヤ人なら「魔よけ祈祷」を行っていること自体、とてもおかしなことですね。
 人間は、不幸に襲われたり、行き詰まってしまった時に、藁にもすがる思いになります。将来が不安な時、確実な見通しがほしくなります。そういう人間の願望につけ込んで、先を見ることができると自称して占いをしたり、呪術的なことをする人は後を絶たないわけです。
 それに、このエペソの町には、そうしたことをさらに加速させる要素がありました。町の守護神アルテミスの神殿に関わる仕事をする人が多く、迷信がはびこっていました。特に有名なのは「エペソのお守り」です。このお守りには、呪文が書かれていて、このお守りを持っていれば万病が癒やされ、事業は成功し、旅の安全は保障される、というもので、そのお守りを買うために世界各地の人々がエペソに集まって来たほどです。
 ですから、魔よけ祈祷師たちにとって、エペソは一攫千金を狙うのに絶好の町でした。もし、エペソで評判が立てば、行列のできる魔よけ祈祷師になれるわけですね。
 そこで、この自称スケワの息子たちは、パウロのまねをしてイエスの御名によって悪霊を追い出そうとしました。彼らは、イエス様を信じているわけではありません。ただ自分が得することだけを考えて、利用できるものは神様でもなんでも利用してしまえという発想です。しかし、彼らが「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言うと、悪霊は「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」と言い、彼らを攻撃してきました。結局、彼らは、傷を負わされ、追い出されてしまったのです。 この出来事から、何が学べるでしょうか。
 
(1)主の御名をみだりに唱えてはならない
 
 神様、そして、救い主イエスは決して侮られる方ではありません。単なる便利グッズではありません。イエス様の御名を自分の利益のために利用すべきではありません。信頼し、崇め、賛美すべきです。主イエス様を信頼することなしに、ただ自分に力を得るために主のみ名を利用するなら、自らの身にさばきを招くことになることでしょう。
 しかし、聖書は私たちに素晴らしいことを約束しています。ヨエル2章32節に書かれているように「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。私たちが主を信頼して呼び求めるとき、主は助け、支え、救いの道を用意してくださいます。呼び求めることは、誰でもできますね。赤ちゃんからお年寄りまで、呼び求めることはできるではありませんか。主の救いは、呼び求めるすべての人のために備えられているのです。
 
(2)悪霊について覚えておくこと
 
 ところで、聖書は悪霊が存在することを教えています。でも、イエス様は悪霊よりもはるかに力ある方ですから、イエス様を信じる私たちは決して恐れる必要はありません。しかも、悪霊のほうでも神様を恐れていて、イエスの御名による命令には従うしかないことが聖書のいろいろな箇所に書かれています。
 ただ、私たちを神様から引き離そうとする働きをする悪霊が存在していることは知っておくといいでしょう。悪霊は、自分が存在しないかのように思わせ、私たちに神様の愛や真実を疑わせるような働きかけをするからです。「神様は、もう私を愛していない」「私の罪は決して赦されない」などと思わせるのです。でも、それは聖書に書かれている神様の言葉とはまったく違いますから、惑わされないようにしましょうね。
 また、占いや予言が当たったからといって、それに引きずられないようにしましょう。第二コリント11章14節には、「サタンさえ光の御使いに変装するのです」とありますが、私たちに素晴らしいことを教えているように見せかけて、巧妙に神様から引き離していこうとする働きがあるということを知っておくことは大切です。
 でも、繰り返し言いますが、聖書の約束を信頼し、イエス・キリストのうちにとどまるなら、決して心配することなどありません。
 それから、前回お話ししたように、霊を見分ける力や霊を追い出す力は、神様が必要な時、必要な人に与えてくださる賜物ですから、自分勝手に「あの人は悪霊に憑かれている」と決めつけたり、無理矢理悪霊を追い出そうとするのはやめましょうね。お互いにイエス様の祝福を祈り合う仲間でありましょう。
 
4 主の御名があがめられる
 
 さて、この魔除け祈祷師たちのことが、エペソ中に知れ渡ると、人々は、神様への恐れと畏敬の念を持ち、イエスの御名をあがめるようになりました。
 ここで注意していただきたいのは、パウロがあがめられたのではないということです。教会の働きはすべて、主イエス様があがめられるようになるのが健全な姿です。もしこの教会で不思議なみわざが起こったとしても、個人をあがめるのではなく、主イエス様をあがめる群れでありつづけましょう。
 さて、人々が神様に対して健全な恐れを持ち、イエスの御名をあがめるようになった結果、大きな動きが起こりました。18節-20節にこう書かれています。「そして、信仰に入った人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」
 多くの人が、自分たちが今まで行ってきた習慣や頼ってきたものを捨てて、イエス・キリストに信頼して生きる決心をしたのです。当時、魔術の書物は「エペソの書物」と言われ、秘伝書として有名で大変高価な物でした。しかし、イエス様を信じて生きるようになった人々は、これからどんな問題が襲ってきても、将来のことがよくわからなくても、もはやこの魔術の本のお世話になる必要がないということを知ったのです。そして、惜しげなく、魔術の本を焼いてしまいました。焼き捨てた書物の値段は、銀貨五万枚でした。銀貨一枚は一日分の労賃に相当する額と言われますから、大変な高額ですね。でも、彼らは、いさぎよく焼き捨てたのです。
 みなさん、もし生活の中で私たちを暗闇に引き戻すようなものがあるなら、そんなものはきっぱりと捨ててしまったらよいのです。すっきりとした生き方になりますね。イエス様は、「恐れるな、わたしはあなたと共にいます」と約束してくださっています。「わたしは真理であり、いのちです」と宣言されているのです。また、「主の御名を呼び求める者は救われる」と約束されています。私たちは、このイエス様の御名によって新しく造られた者として、この方の愛の支配の中に生き、礼拝し、喜び、楽しみ、潔く、前向きに歩んでいきましょう。