城山キリスト教会 礼拝説教          
 二〇二二年六月五日              関根弘興牧師
             使徒の働き二〇章二八節〜三八節
 使徒の働き連続説教30
  「恵みのみことばにゆだねつつ」
 
 28 あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。29 私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。30 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。31 ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。32 いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。33 私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。34 あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」36 こう言い終わって、パウロはひざまずき、みなの者とともに祈った。37 みなは声をあげて泣き、パウロの首を抱いて幾度も口づけし、38 彼が、「もう二度と私の顔を見ることがないでしょう」と言ったことばによって、特に心を痛めた。それから、彼らはパウロを船まで見送った。(新改訳聖書第三版)
 
 パウロは、これまでの三回の伝道旅行で、小アジア地方やギリシヤの地方を回って福音を語りました。その結果、各地に異邦人中心の教会ができていきました。一方、当時のエルサレムにあるユダヤ人中心の教会は、激しい迫害のなかで困窮していました。そこで、パウロは各地の異邦人教会をまわり、エルサレム教会への支援金を集め、それを自らが届けることを何回か行ったのです。パウロは、ユダヤ人教会も異邦人教会も主にあってひとつであることを教会全体に知って欲しいという願いを持っていました。ですから、それを身をもって実践したわけですね。
 今日の箇所でも、パウロは各地の教会を回って集めた支援金を持ってエルサレムに向かおうとしていました。途中でエペソに寄ることもできたのですが、先を急いでいたパウロは、エペソによらずに、少し先のミレトまでいって、そこにエペソの長老たちを呼ぶことにしたのです。
 以前、パウロはエペソに約三年間滞在したことがありました。ですから、エペソには友情と信頼関係で結ばれた人々が大勢いたことでしょう。しかし、パウロは、自分がもう二度とエペソの人々に会うことができないと知っていました。もし今、エペソに行ったら、数多くの悲しい別れのために長い時間がかかるでしょう。そこで、教会の代表である長老たちだけをミレトに呼び寄せて別れの挨拶をすることにしたのです。パウロが「あなたがたはもう二度と私の顔を見ることがないでしょう」なんて言うものですから、長老たちは心を痛めて声をあげて泣き、別れを惜しみました。
 長老たちはパウロが去って行くことに悲しみだけでなく、不安も感じていたことでしょう。そこで、パウロは彼らに大切なことを教えるために長い話をしました。その内容が前回の18節から今日の35節まで記録されています。これは「ミレトの告別説教として知られています。『使徒の働き』の中では、パウロがクリスチャンたちに向かって語った説教が紹介されているのはここだけです。ですから、この説教は、教会とは何か、クリスチャン生活がどのようなものなのか、ということを学ぶことができる大切な箇所なのです。
 前回は、18節ー27節で、パウロが自分の人生について語っている部分を読みましたね。「私は、どんな困難の中でも忍耐と謙遜の限りを尽くして主に仕え、自分の走るべき行程を走り尽くし、神様の福音をあますところなく語り伝えました」とパウロは言っていましたね。
 今日の箇所は、その続きで、教会の本質やあり方について教えています。詳しく見ていきましょう。
 
1 神の教会
 
 まず、28節でパウロはこう言っています。「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」
 教会は、いったい誰のものでしょうか。牧師のものですか。信徒たちのものですか。いいえ、違います。神様のものです。パウロも、聖パウロ教会などというような自分の名前のついた教会を作ろうとは思いませんでした。自分がいてもいなくても、神様が教会を成長させてくださることを願っていたのです。
 教会は神様のものですから、神様御自身が教会を守り、導き、成長させてくださいます。ですから、牧師や教会のメンバーが「私たちが教会を成長させなくてはならない」と力んで頑張る必要はないのです。「神様。この教会はあなたのものです。あなたが支配しておられ、イエス様がかしらとなってくださっているのですから、あなたが道を示し、必要を満たしてこの教会を育てていってください」と信頼してお任せすること、それが教会の基本姿勢なのです。
 
2 神に買い取られた者たち
 
 「教会」と訳されている「エクレシア」という言葉は、もともとは「呼び出された人々の集まり」という意味です。つまり、神様によって集められた人々の群れが教会なのですね。今日の箇所で、パウロは、教会は「神がご自身の血をもって買い取られた」のだと言っていますね。この部分は、口語訳聖書では「御子の血を持って買い取られた」と訳されています。
 そして、この「買い取られた」という言葉は、「贖われた」ということと同じ意味で用いています。この「贖う」「贖い」という言葉は、聖書を理解する上で大切なキーワードなのです。
 当時、「贖う」は、奴隷たちを「身代金を払って釈放する」「身請けする」「買い戻す」という意味で使われました。そして、贖うために普通は銀や金が支払われました。たとえば、ギリシャのアポロ神殿の中にこのように記されている碑文があるそうです。「女奴隷の身代金は三ミナ半である。」一ミナは百デナリに相当するので、三ミナ半は三百五十デナリです。一デナリは一日分の労賃ですから、つまり、女奴隷の身代金は約一年分の労賃と同じということになりますね。奴隷状態から贖われるためには、多額のお金が必要だったわけです。
 しかし、神様が罪と死の奴隷になっている私たちを買い取る、つまり、贖うために支払ってくださったのは「ご自身の血」、言い換えれば、「御子の血」だったというのですね。御子イエスは神なる方ですから、御子の血は、神様の血であり、何よりも高価で尊いものです。神様がそれほどの犠牲を払って買い取った人々の集まりが教会だというのです。
 ところで、血によって贖うという方法は、旧約聖書に良く出てきます。旧約時代に神様から与えられた律法には、人が犯した罪を贖うために、動物のいけにえをささげなければならないと規定されていました。その動物は人の身代わりであり、その動物の血によって罪のきよめがおこなわれました。本来なら罪の罰を受けて死ななければならない人間の身代わりとして動物をささげたのです。神様がこの儀式をお命じになったのは、神様に近づくためには、まず人の罪を贖う必要があること、そして、人の罪を贖うためには、いのちがささげられる必要があることを教えるためでした。
 しかし、動物のいけにえは不完全なものですから、人が罪を犯すたびに、繰り返し何千何万もの動物をささげる必要がありました。動物の血では完全な贖い、つまり、死と罪の奴隷状態からの完全な解放を成し遂げることはできなかったのです。
 そこで、神様は、御子イエス様を遣わしてくださいました。そのイエス様が、私たちの罪の身代わりとして、動物ではなく、御自身をささげてくださいました。イエス様は、神様と同じ本質を持った方です。罪も汚れもないきよい方です。そのイエス様御自身が完全ないけにえとして、十字架で血を流してくださったのです。御子は完全ないけにえですから、繰り返しささげる必要はありません。ただ一度流された御子イエスの血によって、すべての罪が赦され、信じるすべての人を死と罪の奴隷状態から贖い出すことができるのです。
 神様の律法を守ることができず、自らの罪によって滅びに向かっている私たちのために、イエス様が御自身をささげて贖ってくださいました。それによって、私たちは罪と死から解放され、神のみ前で義とされ、罪のないものとされ、神様との親しい関係に入り、神の子としての身分が保証され、神の民としての自由の中で生きることができるようになったのです。別の言葉で言うなら、完全な救いが与えられて歩むことができるようなったわけです。そういう一人一人が集まった群れが教会なのだ、とパウロは言っているのですね。
 このことから、私たちは何を知ることができるでしょうか。
@愛され赦されていることを知る
 
 私たちは、イエス・キリストの十字架による贖いを通して、神様がどれほど私たちを愛してくださっているかを知ることができます。私たちが神様に背を向けて自分勝手に生きている時でさえ、神様はなお私たちを愛し、私たちの罪を赦す道を用意し、みもとに招こうとしてくださるのです。ある人が「主イエス様が流された血は、神の心の血であり、神の心の涙なのだ」と言いました。神様は、私たちが罪と死の奴隷状態で苦しむ姿を見て涙を流し、あわれみ、どんな犠牲を払ってでも救おうと計画して、御子イエスを与えてくださったのです。そのはかり知れない神様の大きな愛の中に私たちは赦され、生かされているのです。
 
A自分自身の価値を知る
 
 また、私たちは、自分がどんなに価値のある存在なのかということを知ることができます。物の価値は、差し出されたものによって決まりますね。たとえば、一万円で腕時計を買った人にとって、その腕時計は一万円の価値があるわけですね。だとすれば、神様が御子イエスのいのちを支払ってまで買い取ってくださった私たち一人一人には、どれほどの価値があることでしょうか。神様は、イザヤ43章4節でこう語りかけてくださっています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」その神様と同じまなざしで自分自身を見ることが大切なのですね。
 
B生きる目的を知る
 
 そして、イエス様の十字架の血によって贖われた私たちは、神様の栄光ために生きる者へと変えられていきます。
 パウロは、第一コリント6章20節でこう書いています。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」私たちは、神様によって買い取られ、神様のものとなりました。そして、神様は私たちを造ってくださった方ですから、私たち一人一人をどのように用いたらいいかを最もよくご存じです。そして、それぞれに相応しい生き方を通して神様の栄光を現すことができるようにしてくださるのです。なんと名誉なことでしょう。
 ただ、誤解しないでください。「神の栄光を現す」とは、何か特別に立派なことを行うとか、功績を立てるということではありません。パウロは、第一コリント10章31節で、こう言っています。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」私は、このことばが大好きです。食べたり飲んだりすることは、誰でも毎日行っていることですね。そんな日常生活の些細な一つ一つの中でも神様の栄光を現す者とされているのです。健康な時もあれば、病気の時もあります。順調な時もあれば、逆境の時もあります。でも、私たちがどんなときにも神様に信頼し、神様に正直に祈り求めながら生きていくとき、そこに神様が栄光を現してくださるのです。
 
3 聖霊が与えてくださる役割
 
 さて、パウロはエペソ教会の長老たちに「聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです」と語りました。
 前にもお話ししましたが、聖霊はみこころのままに、私たちそれぞれにふさわしい賜物を分け与え、教会を成長させてくださいます。パウロのもとに来た長老たちは、神の教会を牧するための監督としての役割と賜物を聖霊から与えられました。「あなたがたは、聖霊によって教会の長老として立てられたのだから、その役割に必要な力や知恵も聖霊が与えてくださるから大丈夫、神様を信頼して進んでいきなさい」とパウロは励ましているようですね。
 
4 気を配りなさい
 
 そして、パウロは、長老たちにすべきことを教えました。それは、「あなた方は、自分自身と群れの全体とに気を配りなさい」ということです。ここでは、長老たちに言われていますが、私たち一人一人も神様の教会の一員であり、また、聖霊によってそれぞれの役割を与えられていますから、この言葉は、私たち一人一人に向かって語られたものでもあるのです。
 
@自分自身に対して気を配る
 
 「気を配る」と訳された言葉は、心を傾けるという意味の言葉です。パウロは、まず自分自身にもっと心を傾けよう、と勧めました。これは決して、利己的になれということではありません。自分自身の状態をしっかり見つめて管理しなさい、ということです。
 あなたは自分をどのように見ていますか。「神様が愛してくださっているというけれど、自分は例外ではないか」と思ってしまったり、「自分は何もできないから教会には必要ない人間だ」と考えてしまうことがあります。問題が起こると「神様に見捨てられた」と思い込んでしまうこともあります。「こんな自分ではだめだ」と自分自身を傷つけてしまうことすらあるのです。でも、繰り返しますが、神様は、愛する御子イエス様のいのちをかけてまで私たちを買い取ってくださったのです。神様の目から見たら、私たち一人一人はそれぼどに大切な存在なのです。その神様と同じ目線で自分自身を見ることが必要です。神様の律法の中心は「神様を愛すること」と「自分と同じように隣人を愛すること」だとイエス様が教えてくださいましたね。神様と隣人を愛するだけでなく、自分を愛することも大切なのです。自分自身が神様の愛と平和の中にとどまることができるように配慮することも私たちにとって大切な使命なのですね。
 
A群れの全体に気を配る
 
 そして、パウロは「群れの全体に気を配りなさい」と語りました。その理由が29節-30節にありますね。「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」
 教会の歴史を見ると、外部からの迫害よりもはるかに大きなダメージを与えたのは、内部から起こる問題でした。教会が誕生した当時から、いろいろな異端が教会に入り込んできたり、様々な問題が教会の中から起こってきました。例えば、「イエス・キリストを救い主として信じるだけでは不十分だ。私たちの努力も必要だ」と言ったり、「イエスは、神だから、罪ある人間の肉体を持ってくるはずがない。私たちが見たのは幻影だ」と言ったり、「イエスは神ではなくただの人間だ」「いや、一番位の高い天使だ」と言ったり、本来の福音とは異なる説を主張して人々を惑わし、まことの救いから引き離そうとする異端の誘惑が絶えずありました。また、一部の人間が権力を握って人々を自分に従わせようとしたり、派閥を作って対立したり、という問題も起こりました。今でも、そういう問題はよく起こります。ですから、いつも教会全体に気を配って、まことの福音から外れてしまうことがないようにすることが大切なのです。
 
5 恵みのみことば
 
 そのために必要なのは何でしょうか。「恵みのみことば」です。パウロは、32節でこう言っていますね。「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」
 神様は、旧約聖書の預言者たちを通して、また、イエス・キリストを通して、恵みのみことばを与えてくださいました。そのみことばこそ、決して変わることのない、真実で力あるものです。みことばを聞き、正しく理解し、信頼し、従っていくことによって、私たちは成長し、神の国の永遠の住民として生きることができるのです。
 第一ペテロ2章2節には、こう書かれています。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」赤ちゃんが乳を飲んで成長していくように、私たちはみことばから栄養を受けて成長していくのです。そのみことばに添加物や毒物が混じっていたら健康を害してしまいますね。「純粋なみことばの乳」でなければならないのです。
 当時は、旧約聖書しかありませんでしたし、それも一般の人が自由に読むことはできませんでした。また、新約聖書はまだ完成していませんでしたから、人々が純粋なみことばの乳を得る方法は、もっぱら使徒たちや教師たちの説教を聞くことでした。今では、聖書が完成していますから、私たちは聖書を自分で読んで恵みのみことばから栄養を受けることができますね。それとともに、礼拝の説教を通しても恵みのみことばを受け取ることができます。ただ、ある本にこんなことが書かれていました。「牧師は、神様から託された人々に栄養を与えるために、どれだけ講壇から高カロリーの言葉を語っていますか。牧師の語る聖書の説教があまりにも低カロリーで、みんなが栄養失調になっていませんか。」私も何十年も牧師をしているわけですが、改めて、豊かな恵みのみことばを語ることのできる説教者にならせていただきたいと思わされました。
 パウロは、神様とそのみことばの力を信頼していたので、「あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます」と言うことができました。私たちも自分の頑張りや努力ではなく、みことばに信頼し、ゆだねて生きていきましょう。
 
6 与える幸い
 
 パウロは、最後に「受けるよりも与えるほうが幸いである」というイエス様のみことばを引用しました。互いに与え合っていくとき、人生は豊かなものになることでしょう。
 神様によって贖われた者として、自分と教会全体に気を配り、恵みのみことばに育まれつつ、互いに与え合いながら歩んでいきましょう。