今日の聖書(1月6日月曜日)
「まことに彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。…彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」(イザヤ書53章4節、5節、12節抜粋)
 
 イザヤ書53章は、十字架で苦しみを受けられたイエス様の預言です。イエス様より700年も前に生きたイザヤが、まるで十字架の足元で見つめているかのように語っています。
 何の罪もないお方が鞭打たれ槍で刺し通され十字架にかけられました。人々にあざけられ、神様に見捨てられ、人が体験しうるすべての痛みと苦しみを負われました。それはすべて私たちのためです。
 イエス様が体験された十字架の苦しみによって、すべての罪は赦されました。私たちが神様の愛を受け、神様の子どもとして受け入れられるために、イエス様は十字架で壮絶な苦しみをうけ、とりなして下さったのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(1月7日火曜日)
「ダビデはペリシテ人に言った。『おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。』」(サムエル記第一17章45節)
 
 サムエル記の16章以降に登場するのが後にイスラエルの王となるダビデです。
ダビデは少なくとも8人兄弟の末っ子で羊飼いをしていた少年でした。サウルの心が神様から離れてしまった後、神様が次の王として選ばれたのがダビデでした。
 今日の箇所は少年ダビデがペリシテ人の大男ゴリアテを倒した場面です。有名ですね。
誰もが恐れる戦士ゴリアテを特別な武器ではなくいつも羊飼いとして使っていた石投げと小さな石でやつけたダビデ。戦いの前の言葉から彼の神様への信頼が伺えます。
「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」
 神様がともにいて下さる。だから、普段通りのありのままの自分で戦えばいいのだ。そんなダビデの確信です。そして、見事、石投げ一つでゴリアテを倒したのです。
 私たちもいろんな問題や課題にぶち当たります。でも、イエス様を信じる私たちには、「万軍の主」なる神様がともにいて下さいます。
 だから、特別な武器や無理な力は必要ありません。自分以上でもなく自分以下でもない。普段のありのままの自分に与えられている力でイエス様と共に歩んでゆくことができるのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(1月8日水曜日)
「私(パウロ)は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」(ピリピ人への手紙3章12節)
 
 ピリピ人への手紙はエペソへの手紙と同じ頃、パウロが囚人としてローマで軟禁状態にあった時に書かれた手紙です。
 新約聖書の中にはいろんな教会が出てきますが、ピリピの教会はその中でも一番問題が少なくパウロにとって励ましとなる教会だったと言われています。パウロはいつも自分で天幕を作りながら伝道し、教会からお給料をもらうことはなかったのですが、ピリピの教会だけがパウロに献金をし経済的に支えました。
 この手紙にはピリピの教会に対するパウロの感謝や愛情、信頼と助言、喜びなどのメッセージが書いてあります。今日の箇所で、特にパウロは自分の素直な気持ちを信頼するピリピの教会へ伝えています。
 「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。」
 神様の御心に従って確信をもって伝道していたパウロにも、まだまだわからないことが沢山あったよ うです。「何故、今、自分はローマで捕らえられているのか?」「こんなに沢山の問題に直面するのか?」「神様の御心はどこにあるのだろうか?」そのようにパウロも追求し続けていたのですね。
 でも同時に、「それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」と、イエス様を見上げています。「自分にはまだまだわからないことが沢山だけど、そんな自分をイエス様がしっかりと捕らえて下さっているのだ!」という告白です。
私たちも毎日の生活の中で分からないことや疑問が沢山あると思います。いろんな問題や課題、納得いかないことがあります。
 また、聖書を読んでもよくわからないことや実感出来ないことも沢山あります。神様の御心、恵み、素晴らしさを一生求道しているような気持ちにもなりす。
でも、それでいいのです。イエス様は私たちのすべてをご存知で、私たちをしっかりと捕らえて下さっているからです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(1月9日木曜日)
「ダビデは、どこでもサウルが遣わす所に出て行って、勝利を収めたので、サウルは彼を戦士たちの長とした。サウルはダビデを恐れた。主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。」(サムエル記第一18章5節、12節)
 
 戦士ゴリアテを倒しペリシテ人を追い払ったダビデをサウル王は召し抱え自分の娘を妻として与えるほど気に入ります。しかし、サウルはダビデが自分よりも若く力にあふれ民の人気を集めたことに嫉妬します。そして、次第にダビデに対して恐れを抱くようになり、彼の命を狙うまでになってしまいまうのです。
 今日の箇所には、そんなサウルがダビデを恐れた根本的な理由が書かれています。
 「主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。」
サウルが感じた一番の恐れは、神様が自分を離れダビデにとともにおられるということでした。サムエル記全体を読むと良く感じるのですが、サウルもダビデも同じように良いところや悪いとこがありました。ただ違ったのはサウルは自ら神様に背を向けてしまいました。その結果、「神様がともにいる」という恵みを失ってしまったのです。
 私たちもいろんな間違いや失敗をおかしてしまいます。だからこそ、いつも神様の方に向き、イエス様を心の中心にお迎えしたいと思います。イエス様はそんな私たちひとりひとりと共にいて下さり、人生を守り導いて下さいます。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(1月10日金曜日)
「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」(イザヤ書61章10節)
 
 イザヤ書61章はイザヤを通して神様が語ってくださった希望のメッセージです。
イスラエルのバビロン捕囚からの解放だけでなく、イエス様の十字架による救い、そして、この世界の 終わりにイエスが再びこられる(再臨される)ことを、すべて見つめてイザヤは喜んでいます。
 「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。」
神様は私たちの生活の中で、沢山の「喜び」や「楽しみ」を与えて下さる方です。そして、その「喜び」の中心はイエス様ご自身です。
 イエス様は十字架でいのちを捨てるほどに私たちを愛してくださいました。その愛を信じ受けとるだけで、イエス様は私たちを「愛の衣」、「正義の外套」で包み、「栄冠」をかぶらせ、「宝玉」で飾って下さ るのです。この喜びのうちにとどまってゆきましょう。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(1月12日土曜日)
「ダビデは荒野や要害に宿ったり、ジフ荒野の山地に宿ったりした。サウルはいつもダビデを追ったが、神はダビデをサウルの手に渡さなかった。ダビデは、サウルが自分のいのちをねらって出てきたので恐れていた。」(サムエル記第一23章14、15節)
 
 サムエル記第一の21章から27章には、サウル王に命を狙われたダビデの逃亡生活が書かれています。
 発狂者のふりをして敵であるペリシテの領地に潜り込み、その後、ユダ西部のアドラムの洞窟、南ユダのケイラ、ジブ、マオンなど、ダビデは国内外を転々とします。
 サウル王に追いかけられたダビデはいつもギリギリの精神状態で逃げました。そして、そのような一番苦しい逃亡生活時代にダビデは多くの詩篇を歌ったといわれています。
 ダビデの詩篇には自分の苦しみや恐れと神様への信頼がせめぎあっています。もがいてもがいて最後にやっと神様を見上げすべてをゆだねることができているような叫びが多くあります。
 私たちの生活にも、ダビデほどではないかもしれませんが、苦しみや恐れがあります。イエス様を信じ たからといって全ての問題がなくなるわけではありません。かえって状況が悪く感じることがあるかもしれません。恐れて当然、不安になってあたり前です。
だからこそ、ダビデのように自分の恐れや文句のすべてを神様にぶつけましょう。そんな私たちを神様はしっかりと受けとめて下さいます。
 「ダビデは、サウルが自分のいのちをねらって出てきたので恐れていた。…神はダビデをサウルの手に渡さなかった。」
 今日も1日神様の祝福がありますように!