今日の聖書(8月25日月曜日)
「私の主、神よ。どうかあなたは、御名のために私に優しくしてください。あなたの恵みは、まことに深いのですから、私を救い出して下さい。私は悩み、そして貧しく、私の心は、私のうちで傷ついています。」(詩篇109篇21-22節)
 
 今日のことばも、ダビデの詩篇(祈り)です。
 ダビデの性格や人柄がよく表れていると思います。自分の悩みや願いをありのまま神様にぶつけていますね。「わたしに優しくしてください。」という言葉はまるで親に対する子どものようにも感じました。それくらい親しく主なる神様と語りあっているダビデの様子が思い浮かびます。
 しかも、ダビデはこの21節の前には、「敵を苦しめ、子どもの代まで呪って下さい!」と、敵の悪口をさんざん言っているのです。一見、わがままで自己中心に聞こえなくもないダビデの祈りです。でも、ダビデは、神様に自分の願いをお伝えする上での大切なポイント(コツ)を掴んでいました。
 それは「(神様の)御名のために」という告白です。もちろん、自分の願いを正直に祈っているのですが、「あなたの御名のために」という祈りのことばから、彼の神様への信仰を見ることができますね。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(8月26日火曜日)
「この人(イエス)は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」(マルコ6章3節)
 
 今日のことばは、イエス様がご自分の育ったナザレ村に戻られたとき、村の人たちが呟いた言葉です。彼らの言葉から、人として生きられたイエス様のことを幾つか知ることが出来ます。
 1、大工だった。…イエス様は、おそらく10代前半から30歳頃まで大工をしていました。当時の大工は木材だけでなく石も扱いましたので、きっとガッチリしたマッチョ体型だったことでしょう。また、日差しの強いパレスチナ地方での外仕事ですから、色黒だったかもしれません。(色黒マッチョで髭をはやしたイエス様を想像できます。)
 2、弟が4人いて、妹が2人以上いた。…イエス様の弟たちの名前が紹介されています。妹は「妹たち」と複数形で書いてあるので、2人以上です。つまり、イエス様は少なくとも7人兄弟の長男でした。(イエス様を入れて男5人、女2人、豊村臨太郎の兄弟姉妹構成と同じです!)
 3、父ヨセフは、早くに亡くなったと考えられます。…イエス様は、かなり若い時期から30歳頃まで、7人兄弟の長男として、母と弟妹を支える大黒柱として働いていたようです。十字架に架けられたのが3年半後ですから、地上の人生の9割以上を、「家族の為に生きた」と言えます。
 これらのことから思うのは、イエス様は私たちから遠くかけ離れた、浮世離れした存在ではなかったということです。人として生き、人生の重荷を背負い、苦労し、私たちが人生で味わう喜びや楽しみ、悲しみを体験してくださったのです。
 そのようなイエス様が私たちと共に歩んで下さっています。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(8月27日水曜日)
「だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し、身を低くして地をご覧になる。 主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ、彼らを、君主たちとともに、王座に着かせられる。主は子を産まない女を、子をもって喜ぶ母として家にすまわせる。ハレルヤ。」(詩篇 113篇5-9節)
 
 私たちが聖書を読み、そこから知ることが出来る神様は、完全で聖いお方です。「高い御位に座し」とはそういう意味です。でも、そのような神様が「身を低くして地をご覧になる」とあります。高見の見物をされるのではなく、へりくだって私たちのところにきてくださるお方です。そして、「貧しい人をあくたから引き上げ・・・子を産まない女を、子をもって喜ぶ母として家にすまわせ」て下さる、つまり、救い出し、喜びを与えてくださるのです。
 神様は、なんとあわれみ深いお方でしょうか。
 そして、この姿は、まさにイエス様そのものです。イエス様は、聖く、罪のない、神のひとり子なるお方です。そのお方が、弱く限界のある人としてこの地上にきてくださいました。しかも、ただ「人」となられただけでなく、社会の中でも特に弱さを覚える人たちと過ごされたのです。そして、地上の生涯の最後には、罪で汚れたこの世において、もっとも残酷な死に方である「十字架」でいのちを落とされたのです。聖書が示す神様(御子イエス様)の姿です。まさに「だれが、われらの神、主のようであろうか」とある通りです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(8月28日木曜日)
「イエスは・・・多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」(マルコの福音書6章34節)
 
 聖書の中で人はよく羊に例えられます。人の性質が羊の性質と似ているからです。羊の性質は以下のように言われます。
 その1…「目が悪い」視力が極端に悪く自分の目先しか見えないそうです。
 その2…「群れをなす」一匹では、弱くて生きていけないそうです。
 その3…「迷いやすい」一匹では生きていけないくせに、結構自分勝手に行動し、すぐに迷うそうですだから、羊には羊飼いが必要なのです。
 「目先しか見えず」「寂しがりや」で、「すぐ迷う」、そんな羊の姿は自分にもあてはまります。イエス様は、羊のような群衆(私たち)を見つめて、「あわれんで」下さいます。そして、愛に満ちた羊飼いとして、私達を守り、優しく導いて下さるのです。そんな羊飼いなるイエス様がいてくださるから安心なのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(8月29日金曜日)
「私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。」(詩篇 116篇7節)
 
 古代キリスト教の神学者アウグスティヌスという人が、「人の心には、神様をもってしか埋められない、空洞がある。」と言いました。人は神様によって造られた存在だからです。
 確かに、イエス様を信じる前の自分のことを振り返って考えるとき、心の深いところに空洞のようなものがあったと思います。無意識のうちに「不安」や「恐れ」のようなものを感じていました。それを消そうと、いろいろな「楽しみ」に没頭したりもしました。でも、いろんな方法で「安心」や「やすらぎ」を求めても、埋まることのない空洞のようなものがあったと思います。
 詩篇の作者は、そんな虚しさを感じる自分自身にこう語ります。「わたしのたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。」 (詩篇116篇7節)
 主なるイエス様は、他の何ものでも埋める得ることが出来ない「喜び」「平安」「全きいこい」を与えて下さるお方です。そして、信じる一人一人の心の中に、住んでくださいます。今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(8月30日土曜日)
「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。」(詩篇119篇1節)
 
 詩篇の119篇は、なんと176節もある聖書の中で1番長い詩篇です。
 1節を読むとわかるように、神様の「みおしえ(みことば)」に従って歩む素晴らしさが歌われています。(原語のヘブル語では、覚えやすいように「いろは歌」になっています。)
 神様のみことば(聖書)は、人生の「全き道」で、私たちを本当の幸せに導く道(生き方)なのです。でも、そのことがなかなか実感できないのが人間かもしれませんね。だからこそ、この詩篇の作者はこのように神様に祈っています。
 「私の目を開いて下さい。私があなたのみおしえのうちにあるくすしいことに目を留めるようにしてく ださい。」(詩篇119篇18節)
 私たちも同じように祈りたいと思います。「神様、私の心の目を開いてください。聖書のことばがわかるようにしてください。そして神様のみことばにある、あなたが用意してくださっている素晴らしいみわざを教えてください。」と。「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々」(詩篇119篇1節)とは、そういう人も含まれるのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!