今日の聖書(9月8日月曜日)
「そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。…イエスは弟子たちを呼び寄せ て、こう言われた。『まことにあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりも沢山投げ入れました。…乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。』」(マルコ12章42-44節)
 
 今日の箇所を読んで分かることは、神様に捧げる献金は、金額の多い少ないは重要ではないということです。
 レプタ銅貨は当時のお金の最小単位でした(今の額でいうと50円くらいです)。それでも、この貧しいやもめにとっては全財産だったのです。それを投げ入れました。その行動の意味は、彼女がこれからの自分の生活を神様にお任せしたということです。
 彼女の心の中は見えませんから、積極的に神様に信頼していたのかもしれないし、それとも、「もうどうにでもなれ」と開き直っていたのかも知れません。いずれにしても、彼女は「自分の生活」を神様にお任せしたのです。
 イエス様はその彼女に目を留められました。
 誰も目を止めなかった、やもめの少額の献金をご覧になって、「彼女は誰よりも多くを投げ入れた」といわれました。つまり、「彼女は、神様に自分の生活のすべてを委ねた」と言って、その姿に目をとめてくだったのです。
 イエス様というお方は、たとえ他の誰も気付かないような小さな行動であっても目をとめてくださり、人には見えない心の中も見て下さり、自分自身すら気付かないような思いまでもくみ取って、最大限に評価してくださる方なのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(9月9日火曜日)
「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、誰が御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます」(詩篇130篇3、4節)
 
 詩篇130篇は「悔い改め」の詩篇と呼ばれています。詩篇の作者は、神様に自分の罪を告白し、赦しを求めて祈っています。
 聖書が教える「悔い改め」とは、単なる後悔でありません。「方向転換」、「向きを変える」と言う意味があります。自分の罪や過ちを認めて、神様の方に顔を向ける(生き方の方向を向ける)ことです。
 それでは、私たちが顔を向けるべき神様は、どのような方だと聖書は教えているでしょうか?今日の箇所で詩人はこう歌っていますね。
 「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、誰が御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます」
 嬉しいですね。神様は、私たちの「不義(罪)に目を留めず」、救い主イエス様を通して私たちを見てくださり、豊に「赦して下さるお方」なのです。
 だから「人に恐れられる」。この「恐れられる」という表現は「尊敬し、信頼される」という意味です。
 そのような神様がいてくださるのですから、私たちもこの詩人のようにいつも素直に自分の罪を認めて、神様に悔い改め(神様の方に心の向きを変えて)歩んでいきたいですね。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(9月10日水曜日)
「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。」(詩篇131篇1、3節)
 
 今日の詩篇も、イスラエルの王ダビデの詩篇です。
 幼い時から神様に選ばれ、愛され、神様と共に歩んできたダビデです。人生において数々の困難を乗り越えてイスラエルの王様になりました。王様ですから何でも手に入りますし、わからないことがあれば、国中の知識者を集めて調べさせることも出来ます。そんなダビデがこう告白しているのです。
 「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。」(詩篇131篇1、3節)
 私たちの人生にも、「わからないこと」、「理解出来ないこと」、「理不尽なこと」、「不思議に思うこと」が沢山ありますね。なるべく自分で知っていたいし、理解出来ないことが多い状態は嫌だと思います。
 でも、今日の箇所でダビデが告白しているように、「神様、及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません」そんな思いで、神様に全てをおゆだねし、神様の時(答え)を待つ者でありたいですね。そんな私たちの姿を神様はきっと喜んでくださいます。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(9月11日木曜日)
「あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦して下さい。」(民数記14章19節)
 
 今日の箇所は、モーセが祈った神様への祈りです。
 エジプトから脱出し、奴隷状態から解放されたイスラエルの民は、神様が約束された地「カナン」の手前まできました。そこで偵察に行きます。
 カナンは土地が肥沃で素晴らしい場所でした。しかし、土地にいる人々は体が大きく強そうでした。それを聞いたイスラエルの民は悲観的になってしまうのです。モーセに対して文句を言いました。「こんなはずじゃない!エジプトにいた方がまだましだった!」これまで神様が自分たちを何度も助けて下さったことを忘れてしまうのです。
 そんな彼らに対して、神様は罰を与えようなさるのですが、そのときにモーセが祈りました。
 「神様、あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦して下さい。」
 このモーセの祈りを神様は受け入れてくださいました。そして、イスラエルの民は助けられたのです。
 このような祈りを「とりなしの祈り」と呼びます。神様と人の間に立つ祈りです。
 そして、今、私たちの為に、いつも「とりなしの祈り」をしてくださる方がおられます。それは、イエス様です。
 イエス様は、あの十字架で「父よ彼らを赦して下さい」と祈ってくださいました。
 それだけでなく、今も生きていて、私たちのためにとりなしてくださるのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(9月12日金曜日)
「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあり ます」(詩篇138篇8節)
 
 138篇もダビデの詩篇です。これまでも紹介してきましたが、ダビデの生涯は波瀾万丈でした。
 羊飼いとして暮らしていた少年時代にイスラエルの王サウルの部下となります。忠実に仕えていたにもかかわらず、サウル王に嫉妬され憎まれ命を狙われます。サウル王の死後、イスラエル二代目の王になるのですが、その後も、様々な敵との戦いの連続でした。その最中、自分が不倫と殺人という罪も犯してしまいます。また、自分自身の家庭問題にも直面します。最終的には自分に敵対するようになった息子アブシャロムに命を狙われたほどです。ダビデは晩年まで苦労が耐えない人生でした。
 しかし、そんなダビデが人生を振り返ってこう告白しているのです。
 「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります」(詩篇138篇8節)
 「私を愛し、守り、最善をなしてくださる主なる神様が、私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださる。」という告白です。
 私たちの生涯にも、いつ終わるのか分からないような苦しい試練や出口の見えない困難があるかもしれません。でも、神様は、「私に」かかわる「すべて」のことを成し遂げて下さるお方です。そのような「恵み」がとこしえにあるのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(9月13日土曜日)
「主はモーセに仰せられた。『あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。』」(民数記21章8節)
 
 昔、イスラエル民がエジプトから脱出し荒野を旅していたときのことです。
 民たちは、最初はエジプトの奴隷状態から救われたことを喜んでいました。でも、それも束の間、すぐに荒野の生活に我慢できなくなり神様とモーセに文句を言います。「エジプトの方がまだましだった」とまで言いだすのです。すると、毒蛇が出て来て人々に噛みつき、多くの人が死んでいきました。
 民はモーセに願いました。「私たちは罪を犯しました。蛇を取り去ってくださるよう神様に祈ってください」そして、モーセが祈ると神様は一つの救いの方法を示してくださったのです。それが今日のことばです。
 「青銅で蛇を作り、旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」(民数記21・8)
 モーセは、すぐにその通りにして叫びました。「この蛇を仰ぎ見なさい。そうすれば救われる!」何が起こったでしょう。そのことばの通り、毒蛇にかまれた人々が青銅の蛇を見上げると助かったのです。
 蛇もそのまま、毒もそのまま、でも、そのままで「木にかけられた青銅の蛇」を仰ぎ見た人は癒されたのです。理屈に合わない出来事です。しかし、人の考えで理解できなくても、理屈に合わなくても、「神様のことば」の通りに「仰ぎ見た」者は「生きた」のです。救われたのです。
 新約聖書ヨハネの福音書には、この出来事が私たちが罪から救われる方法を表していると書かれています。「木にかけられた蛇」は、「十字架にかけられたイエス様」を示しています。「イエス様をただ信じるもの」が生きるのです。
 私たちには「罪」があります。どんなにがんばっても自分の力で罪を消すことはできません。その結果である死を解決することもでできません。ただ、「十字架のイエス様」を「見る(信じる)」とき、一瞬にして「罪」と「死」から救われるのです。
 聖書のみ言葉の通り、単純にイエス様を見上げましょう。
 今日も1日神様の祝福がありますように!