今日の聖書(9月29日月曜日)
「自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は思慮に欠ける。」(箴言12章11 節)
 
 箴言には、聖書にあまり馴染みのない人も聞いたことのある格言が多くあります。今日の箇所もとても有名なことばです。
 「自分の畑を耕す」というのは、「自分に与えられている、なすべきことをする」という意味があります。私たちには、家事、育児、勉強、仕事など、それぞれに与えられているなすべきことがありますね。
 「むなしいことを追い求める」というのは、「遊びや快楽などに度を越えて(最優先にして)没頭すること」で、「自分をだめにしてしまうもの」と言えます。
 栄華を極めたと言われるソロモンは、人生における基本的な姿勢として、「自分に今、与えられている役割をしっかり行っていれば祝福される」と読者に勧めているのです。
 私たちは、日々の生活を振り返る時、時には単調でつまらなく感じることもあるかもしれません。そんな中において、それぞれの生活が神様から与えられた「自分の畑」であると受けとめることができたら幸いですし、任された畑をコツコツと「耕して」いけたら感謝です。神様はそれぞれに収穫を備えてくださっています。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(9月30日火曜日)
「この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。」(申命記8章4-5節)
 
 今日の箇所で、モーセは「神様がどういうお方か」ということを語っています。
 エジプトを脱出した後のイスラエル民族の旅は40年もありました。その旅はけっして楽なものではありませんでしたね。エジプトを脱出して直ぐ軍隊に追われることから始まり、飲み水の問題、食べ物の問題、仲間割れ、敵との戦い、その後も問題だらけでした。でも、その度に神様はモーセを通して語りかけ、彼らの問題を解決してくださったのです。
 そして、神様の問題解決の方法は全てを一気に解決するというものではありませんでした。その時々の必要に応じて問題を一つ一つ解決してくださいました。
 モーセは、そのことを「人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練される」と表現しています。
 人間の親でも自分の子の最善を願い、その時々に助けの手をさしのべるものです。子どもは親の考えや行動の意図を全て理解出来ないかもしれません。それでも、後になって振り返ってみると、「あの時は、ああいうことだったのだな」と 意味がわかるときがありますね。
 神様は、そのように私たちの人生を助けながら一歩一歩導いて下さるお方です。そんな親のような神様の御手を、後になって理解することもできるのです。だから、「神様ありがとうございます。」と感謝できたらなんと素晴らしいでしょうか。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(10月1日水曜日)
「みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に依り頼む者は幸いである。」(箴言16章20節)
 
 箴言には、2つの文で1つの内容を伝える「平行法」と呼ばれる表現方法があります。2つの角度から1つの事柄を表現することで、その内容をより強調することができるからです。
 今日の箇所にも平行法が使われています。1文目と2文目は違う表現ですが、同じ内容を伝えています。
 「みことば(聖書)に心を留める者」は、「主(神様)に依り頼む者」と同じ意味です。私たちが「神様を信じ依り頼む」ということは、なんだか少し漠然としているように感じるかもしれません。でも、今日の箇所からわかるのは、「神様を信じ依り頼む」ということは、「聖書を読んでそのことばを心に留める(覚える)」という、すごく具体的な行動でもあるということです。
 そうするとどうなると書いてありますか。「幸いを見つける」のです。聖書のことばには神様からの「幸せ」が約束されているのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(10月2日木曜日)
「主は、ただあなたの先祖たちを恋慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。」(申命記10章14節)
 
 聖書は、神様の愛を色々な言葉で表現しています。今日の箇所には「恋慕う」と書かれていますね。サラッと読んでしまえばそれまでですが、あえて「恋慕う」ということを想像してみましょう。
 例えば思春期の男の子が女の子を恋い慕ったとします。その子は好きになった女の子の一挙手一投足が気になりますね。(遠い昔、臨太郎少年にもそんな時がありました…)それと全く同じとはいえないかもしれませんが、「恋慕う」とあるのですから、神様もまるでそのようにイスラエルの民を「恋慕って」くださったと理解して差し支えないと思います。
 確かに聖書を読むと、時に神様の愛は度を超えているように感じることがありますね。イスラエルの民がどんなにわがままでも、どんなにダメでも、何度でも赦して、とことん愛し、いつも共にいてくださいました。
 そして、そのようなイスラエルの民に対する神様の愛は、今、イエス様を信じる私たち一人一人にも注がれています。神様は私たちを「恋慕い」「選んで」「愛して」いつも共にいて下さるのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(10月3日金曜日)
「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。 キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」(コリント人への手紙第一15章3-5節)
 
 パウロはコリント教会への手紙の終盤で聖書の中心なメッセージを語っています。極端に言えば「キリスト教のメッセージはこれだ!」と言っているのです。
 それは、イエス・キリストが十字架で死なれたこと、葬られたこと、復活されたことです。つまり、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、信じる私たちの罪が赦され、神様が与えてくださる新しいいのちに生かされ、死んだ後も神様とともに永遠に生きることができるというメッセージです。
 これを聖書は福音(良い知らせ)とよびます。
 そして、パウロはそのメッセージは「聖書の示すとおり」なのだと根拠を示しています。人の思いつきでもなく、単なるひらめきでもない、ただ「聖書に書いてあるとおりに」です。私たちの救いも、罪の赦しも、永遠のいのちも、その保証は確かな聖書のことばです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(10月4日土曜日)
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」(申命記14章2節)
 
 モーセは、申命記で「神様はどういうお方か」ということと同時に、「私たちはどういう存在か」ということも語っています。今日の箇所には「聖なる民」そして「宝の民」とあります。
 ここでいわれている「聖なる」は、「切り分けられる」という意味です。何のために切り分けられるのかというと、「神様専用」(特別な存在)として切り分けられるのです。
 そして、神様は切り分けた私たちを「宝」のように大切にしてくださいます。小さな頃に自分専用の宝箱のようなものを作らなかったでしょうか。その中に自分のお気に入りのアイテムを入れたりしましたよね。他の人から見たらどうでもいいもの(時にはガラクタのようなもの)でも自分にとっては大切な大切な宝物です。
 私たちは、時々「自分なんてどうでもいい存在」、「価値のない存在」のように感じることがあるかもしれません。でも、神様は私たちを特別に「取り分け」、神様専用の「価値ある宝」として、大切に大切にして下さるのです。イエス様にあって私たちは「聖なる宝の民」です。
 今日も1日神様の祝福がありますように!