今日の聖書(10月20日月曜日)
「しかし、主は『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(コリント人への手紙第二12章9節)
 
 パウロは肉体的な弱さを抱えていたようです。実際に目が悪かったとか、何らかの持病があったとか、いろんな説があります。そして、彼はその肉体的な弱さを「トゲ」と表現して、神様に「三度、取り去って下さい。」と願いました。そのパウロの祈りに対する答えが今日のことばです。
 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」
 私たちもいろいろな弱さを抱えているかもしれません。病気や怪我など身体的なものや、心や性格のことなどいろいろです。時にはコンプレックスを感じて苦しむこともあります。自分にとってはマイナス面ばかりで「これを取り去ってもらえたらどんなに楽だろうか…。」と感じることも多々あります。
 でも、そんな私たちに対する神様のとりあつかいは、単に私たちから「弱さ」を取り去ることではないようです。弱さがあっても、それよりも大きな大きな「キリストの力」で私たちを覆い、私たちの思いを越えて、弱さのうちに完全に働いて下さるというのです。
 だから、私たちは自分の「弱さ」を抱えたまま、神様にありのままの姿で自分をおゆだねしていいのです。「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」という告白は、私の、あなたの告白です。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(10月21日火曜日)
「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身 が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(申命記31章6 節)
 
 今日の箇所は、申命記終盤のことばです。約束の地を目の前にしたイスラエルの民に、モーセが語った遺言のようなメッセージです。
 どんな状況でも「強くあれ、雄々しくあれ」、「恐れてはならない、おののいてはならない」と励ましています。でも、私たちは弱くて恐れおののきやすい者です。そんな私たちが「強く、雄々しくあれる」根拠は何でしょうか。
 (1)「主ご自身が、あなたとともに進まれる」からです。神様は、私たちにただ命令だけを語り、私たちを放っておかれる方ではありません。いつも私たちのそばにいて一緒に歩んで下さる方です。
 (2)「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」からです。神様は、私たちが弱くても、恐れても、罪の誘惑に負けようが、敵に打ち負かされようが、たとえどんな状況に陥ったとしても、決して見捨ず見放さないお方です。
 私たちが信じている主なる神様はそのような愛と恵みに満ちた信頼できるお方です。だから、私たちは自分がどんな状況にあろうとも、「みことば」にあって「強く、雄々しく」、一足一足、今日を生きてゆけるのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(10月22日水曜日)
「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。」(ルカの福音書1章76節、77節)
 
 ルカの福音書1章には、「イエス様の誕生」に先立って「バプテスマのヨハネの誕生」が記されています。ここで言われている「幼子」はバプテスマのヨハネのことです。
 彼には生まれる前から、神様からの「使命」があたえられていました。それは、救い主イエス様が来られる前に「道備え」をすることです。つまり、人々に罪を自覚させ、その罪から救って下さる「救い主」であるイエス様を紹介することでした。ヨハネの福音書では、「救い主」への道を照らす「輝くともしび」とも呼ばれています。
 それが、彼が生まれる前から神様に与えられた「使命」です。彼がいつその使命に気付いた (自覚した)かははっきり記されていません。でも、聖書を読み進めると、彼がその「使命」の通りに生き抜いたことがわかります。素晴らしいですね。
 そして、今日の箇所から思うことは、神様は、私たちひとりひとりにもそれぞれに「使命」を与えて下さっているということです。そして、その「使命」に沿って私たちの人生を導いて下さっています。(私たちの願いや意志を無視して縛っているという意味ではありません。神様は私たちの願い、自由な意志や決断と共に働いてくださるお方です。)
 もしかしたら、自分の「使命」が何かよく分からないかもしれません。それでも大丈夫です。なぜなら、聖書全体から分かることは、神様は私たちが生まれる前から私たちのことをご存じで、ひとりひとりにかけがえのない「使命」を用意してくださっているからです。そして、私たちが自覚していても、していなくても、その「使命」の中にすでに生かして下さっているからです。
 だから、そのような大きな神様を信頼しながら、自分に今、与えられている「願い」や「思い」を大切にしつつ、与えられた日々を一歩一歩進んでゆけばいいのですね。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(10月23日木曜日)
「しあわせなイスラエルよ。誰があなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。」(申命記33章 29節)
 
 今日の箇所は、モーセが亡くなる直前に語ったイスラエルの民への祝福の祈りです。
 荒野での長い旅の中で、モーセはイスラエルの民に対して、時に怒り、時に慰め、様々な言葉をかけてきました。そんな彼が最後に語った民への呼びかけが、「しあわせなイスラエルよ。」でした。すてきな呼びかけですね。
 でも、なぜ「しあわせ」なのでしょう。それは、彼らが神様によって「救われた民」、神様に「助けられた民」、「守られた民」、神様から「勝利を与えられた民」だからでした。
 そして、パウロはガラテヤ書6章で、イエス・キリストを信じるクリスチャンのことを「神のイスラエル」と呼んでいますから、このイスラエルへの「祝福のことば」は、今、イエス様を信じる私たちにも向けられています。
 私たちも、イエス様によって「罪から救い出された民」です。イエス様によってさまざまな出来事の中で「助けられた民」「守られた民」です。そして、イエス様によって罪と死からの「勝利と永遠のいのちが与えられた民」です。だから、私たちもイエス様によって「しあわせな者」たちなのですね。
 今日も神様の語りかけを受け取りましょう。「しあわせなイスラエルよ。誰があなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。」アーメン。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(10月24日金曜日)
「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。…もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」(伝道者の書4章9、12節)
 
 「ふたりはひとりよりもまさっている」このことばは、よく結婚式で読まれる有名なことばですね。でも、夫婦だけに限らず、人が助け合いながら生きる大切さが語られています。聖書に限らず、日本でもよく「人という字は支えあって…」といわれますね。
 でも、今日の聖書のことばでは、さらに大切なことが言われています。「三つ撚りの糸は簡単には切れない」です。
 「二人なのに三つ撚り?」なぜでしょうか。それは、人と人との間に神様がいてくださるからです。
 夫婦であっても、友人や仲間であっても、その間に神様がいて下さるとき、神様がその中心でしっかりと繋ぎとめてくださるのです。そのとき、人は倒れても打ち負かされてるようなことがあっても、立ち上がり支え合うことができる。そのような力強い歩みを送ることが出来るのですね。
 「三つ撚りの糸」の中心にいて下さる神様に感謝しつつ。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(10月25日土曜日)
「さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」(ルカの福音書3章21-22 節)
 
 マリヤとヨセフの子としてお生まれになり、その後、成長したイエス様は、およそ30歳頃に公の宣教活動を始められました。そのイエス様がまず最初にされたことは、「民衆と同じようにバプテスマを受ける」ことでした。
 イエス様は神の子です。罪のないお方ですから、「悔い改め」のバプテスマを受ける必要はありません。でも、イエス様は私たち人間と同じようにバプテスマを受けて下さったのです。
 そのとき、聖霊がくだって、父なる神様の声がしました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」そして、このことばを受けとった後に、イエス様の公の活動が始まっていくのです。
 今日の箇所から分かることは、イエス様はさまざまな活動をされる前に、まず、神様の愛を受けとられたということです。人々に福音を宣べ伝えるよりも、人々の病を癒すよりも、何をするよりも前に、まず神様の愛をうけとられたのです。
 逆を言うならば、父なる神様はイエス様がまだ何もされてないときから「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と言われているのです。神様の先取りの愛を見ることができます。
 そして、この「愛のことば」は、イエス様を信じる私たちも受け取ることができます。私たちが何かをすることよりも、聖書を読むことよりも、礼拝に出席することよりも、証することよりも、何をするよりも前に、神様はまず「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と語りかけて下さっているのです。
 この神様の愛を受け取り、この愛の中にとどまってゆきましょう。
 今日も1日神様の祝福がありますように!