今日の聖書(10月27日月曜日)
「こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。…モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔を合わせて選び出された。」(申命記34章5、10節)
申命記の最後34章にはモーセの死が記されています。
モーセは約束の地に入ることが出来ず、その直前で亡くなりました。ある人がここを読んで「モーセがかわいそう!なんだか不公平!」といったのを聞いたことがあります。私も少しそんな気持ちになります。
あんなに一所懸命に神様に従って苦労しながらイスラエルの民を導いたのになぜ…。とても気の毒な気持ちになります。
でも、モーセの人生と役割は神様が定められたものでした。今日の箇所から一つわかることは、モーセは神様と「顔と顔を合わせて」交わることができたということです。きっとそこには、モーセと神様にしかわからない個人的で豊かな交わりがあったのだと思います。モーセは、人間的には納得がいかない問題も、神様とのそのような親しい交わりの中で受け止められたのかもしれません。
今の私たちはどうでしょう。モーセのように、実際に父なる神様と「顔と顔を合わせる」ことはできませんね。でも、聖書を通して、また、私たちイエス様を信じる者の内に住んでくださる聖霊によって、父なる神様を「おとうさーん!」と呼び、親しく深く交わることができます。そして、そのような個人的な交わりが豊かになればなるほど、私たちが経験するいろんな出来事をも、神様と一緒に受け止められると信じます。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(10月28日火曜日)
「いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。」(ルカの福音書4章40節)
イエス様のまわりにはいつも大勢の人がやってきました。中にはひどい病気で自分の力ではイエス様のもとに来ることができない人もいました。そのような人は、友達や家族が連れてきたのでしょう。
そして、イエス様は、そのようなご自分も元に来た、ひとりひとりに愛の御手を置いて癒してくださったのです。みんなまとめて十把一絡げではありませんでした。イエス様は、いつも「ひとりひとりに手を置いて」個人的に触れて癒してくださったのです。
今、私たちは、それぞれに生きている環境も、体や心の弱っている部分も、悩んでいる問題も、みんなそれぞれ違います。でも、今日の箇所から知ることができるのは、イエス様はそのような私たちひとりひとりを個人的に受けとめてくださって、目には見えませんがイエス様のあたたかい愛の御手で触れて下さいます。そして、それぞれにあった方法で、イエス様の御心のままに癒してくださるお方です。
そんなイエス様ですから、そのお方のもとにありのままで近づいていきたいですね。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(10月29日水曜日)
「主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。『わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなた方に与えている。』」(ヨシュア記1章1〜3節)
神様から与えられたモーセの使命は、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出すことでした。ヨシュアに神様が与えてくださった使命は、「約束の地」に、実際にイスラエルの民を入らせ、土地を獲得し、勝利と安息を与えることでした。ヨシュア記には、その過程が詳しく記録されています。
モーセの「出エジプト」は、私たちにとって「罪からの救い」と重なります。そして、ヨシュアの「約束の地の獲得」は、私たちが既に約束された「神様の祝福」を受け取ってゆく信仰の歩みと重なります。
それは、イエス様を信じて生きる「信仰生活」の中で与えられる様々な祝福です。例えば「罪からの解放」や「心の安息」、「それぞれに与えられた賜物」、「使命に生きる喜び」など豊かな祝福です。そして、最後は天の御国で完成します。
今日のヨシュア記の最初の箇所を見ると、神様は、それらの祝福のすべてを与えると、前もって約束してくださっていますね。つまり、私たちへの神様の祝福はすでに予約済みだということです!「予約済み」なのですから、焦る必要も、他の人と比べる必要ももありません。それぞれの生活の中で既に「予約済み」の祝福をどんどん獲得し味わって行きたいですね。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(10月30日木曜日)
「ヨシュアは祭司たちに命じて言った。『契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って(ヨルダン川を)渡りなさい。』」(ヨシュア記3章6節)
イスラエルの民が神様から約束された祝福の地「カナン」に入るには、ヨルダン川を渡らなければ行けませんでした。ヨシュアはその川を渡るにあたって、まず「契約の箱」を担いだ祭司を先頭にしました。祭司が担いでいた「契約の箱」は、神様の臨在 (神様がいてくださるということ)を意味します。神様が共にいてくださる中で、自分の足をヨルダン川に一歩踏み入れたのです。そのとき、水がせき止められました。
私たちも、神様が与えてくださる祝福の中に入ろう(既に予約済みの祝福を受け取ろう)とするとき、目の前に「ヨルダン川」的なものがあるかもしれません。神様が示して下さっているように感じる「渡るべき川」のようなものです。(抽象的ですみません)
もし、そのような「ヨルダン川」的なものを感じたときは、まず神様の臨在、神様が共にいてくださる事実を確認しましょう。「神様、聖書の約束の通り、イエス様がともにいてくださることを感謝します。」「私の内に聖霊なる神様がいてくださることを感謝します。」
そして、「神様、これは私が越えるべきヨルダン川でしょうか?もしそうなら、教えて下さい。そして、まずあなたが私の先にいて共に進んでください。」そのようにお祈りして、小さくてもいいので一歩、進みたいと思います。
そういう祈りとともに、小さな信仰の一歩を踏み出すとき、きっと神様がヨルダン川をわたらせて下さると信じます。そしてすでに予約済みの祝福へと突入です。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(10月31日金曜日)
「主はヨシュアに仰せられた。『見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ…』」(ヨシュア記6章1節、2節)
イスラエルの民がヨルダン川を渡ったあと、最初の戦いはエリコという町でした。
エリコの町は堅固な城壁で囲まれていました。そう簡単に攻略できそうにありません。神様の指示は「城壁のまわりを回りなさい」でした。
ヨシュア記6章全体を読むと詳しく記されていますが、契約の箱を先頭にして町のまわりをまわるのです。「急がば回れ」ということばがありますが、これから戦おうという状況で、ただぐるぐると回る、不思議な指示ですね。実はこの行動は「祈り」を意味していると理解されます。神様の前に黙って静まり、主の時を待つ祈りです。
私たちの信仰生活にも、まるで目の前に城壁が立ちはだかっているように感じるときがあるかもしれません。そんなときは神様の前に静まり祈りましょう。時間がかかるかもしれません。あまり手応えがなく意味がなく感じるかもしれません。でも、主なる神様を信頼しお祈りするとき、神様の時に、神様の方法で「城壁」が崩れると信じます。主にあって「急がば、祈れ」ですね。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(11月1日土曜日)
「『さあ、来たれ、論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい紅のように赤くても、羊の毛のようになる』」(イザヤ書1章18節)
ダビデ王とソロモン王の死後、イスラエルの国は北と南に分裂してしまいました。
今日のことばを語った預言者イザヤは、北イスラエル王国がアッシリアという国に滅ぼされてしまった頃、南ユダ王国で神様のメッセージを伝えた人です。
当時の南ユダは、北イスラエルを滅ぼしたアッシリアの攻撃に怯えていました。同時に、国の内部も腐敗していました。それ以上に問題だったのは、神様に対する信仰が表面的で儀式的になっていたことです。
イザヤはそのような状態の民に神様のメッセージを語ります。罪を指摘し、神様の裁きを語り、悔い改めを促すのです。そのメッセージの根底にあったのは神様の愛の大きさ、神様の忍耐と哀れみの強さ、神様の赦しの深さでした。
罪深くどうしようもない民に対して、「来たれ、論じ合おう」と呼び寄せ、「真っ赤な罪も、真っ白に覆われる」と、語って下さる神様をイザヤは伝えています。
そして、そのメッセージは、今の私たちにも同じように語られています。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」と。
今日も1日神様の祝福がありますように!