今日の聖書(11月17日月曜日)
「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」(ルカの福音書15章20節)
今日の箇所は、イエス様が話された有名な「放蕩息子」のたとえです。
ある人に二人の息子がいました。弟はまだ父親が生きているうちに財産を要求し大金を手にします。遠い国に旅立った弟は放蕩三昧の生活を送り、お金を湯水のように使い果たしてしまいました。
「金の切れ目が縁の切れ目」と言われるように、彼のもとからは友だちも去ってしまいました。食べ物もなく落ちぶれた生活をおくるなかで、彼はふと我に帰るのです。「そうだ、家に帰ろう。もう息子としては受け入れてもらえないだろう。でも、召し使いとしてなら家において働かせてもらえるかもしれない。」そして、彼は家に向かうのです。
しかし、そんな彼のことを父親はずっと待っていたのです。今日のことばにはこう書いてあります。「まだ家までは遠かったのに、彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」父親は彼を召使いとしてではなく、もう一度息子として受け入れたのです。
イエス様が話された、この父親の姿は天の父なる神様の姿です。父なる神様は私たちがどんなに身勝手でも、どんなに落ちぶれたとしても、私たちの帰りをずっと待って下さるお方です。しかも、まだ遠くにいる私たちを見つけるや否や、父なる神様の方から走りよって、私たちを抱き寄せて下さるのです。
イエス様を信じる私たちには、神の子とされました。つまり、そのような父なる神様の愛を受けているのです。その愛にとどまりましょう。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(11月18日火曜日)
「ギデオンは神に申し上げた。『もしあなたが仰せられたように、私の手でイスラエルを救おうとされるなら、今、私は一頭分の羊の毛を置きます。もしその羊の毛の上だけ露が降りていて、土全体がかわいていたら、あなたがおことばのとおりに私の手でイスラエルを救われることが、私にわかります』すると、そのようになった。」(士師記6章37節、38節)
以前、ギデオンが怖がりで臆病だったことを紹介しました。今日の箇所からは、その上、彼が疑い深く慎重派の人間だったことがわかります。
ギデオンは神様のことばの確かさを確認するためにしるしを要求します。どんなしるしかというと、「羊毛一頭分を用意しますから地面は濡らさず羊毛だけを濡らしてください」というものでした。すると神様はそんなギデオンの要求に応えてくださいました。その通りになったのです。
でも、ギデオンはまだ納得しませんでした。用心深く、そのしるしの逆、「地面は夜露に濡れて羊毛だけは濡れない」というしるしを求めたのです。すると、主なる神様はそのギデオンの要求にも応えてくださいました。
ギデオンはそのような神様とのやり取りを経て、自分にイスラエルを救う使命が与えられていることを納得することができたのです。
今日の箇所から励まされることは、私たちも神様に祈る中で、自分の恐れや不安や疑いを、自分が納得できるまでぶつけて良いということです。神様は、私たちが自分の正直な気持ちをぶつけて、神様と向き合うことを喜んでくださり、受け止めて下さるお方だからです。
そして、私たちも恐れや疑いを持つありのままの自分で神様と向き合い続ける中で、神様が私たちひとりひとりの心に、神様からの納得と平安、そして、一歩踏み出すために必要な力を与えてくださるのです。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(11月19日水曜日)
「もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカの福音書17章3節、4節)
イエス様が語られた「罪の赦し」についての教えです。
ここで言われている「七度」は、単に「七回まで赦しなさい」ということではありません。「何度でも」「完全に」赦しなさいという意味です。(聖書で「七」は完全を意味しています。)
実際に自分がこのことばの通りに出来るかどうかを考えると、正直自信がありません。しょっちゅうささいなことでも腹が立ちますし、自分に対してされたことを根にもってしまうことも多いです。自分を傷付けたり悪いことをした人を赦そうと思っても気持ちが追いつかないことがあります。
だから、まずそのような自分を認めつつ、その上で、心に留めたいことは「赦すことができない私たち」を、まずイエス様が赦してくださったということです。私たちはイエス様の十字架のみわざによって「完全に赦された者」です。
そして、私たちがそのみことばの約束を「そうなのだ」と受けとめ、みことばにそって、私たちも「赦します」と告白するなら、イエス様を信じる者の内に住んで下さる聖霊が、私たちの思いと告白と共に働いて下さいます。そう聖書は約束しています。
だから、自分で無理に思い込む必要はありません。自分で自分の感情を抑えつけることでもありません。聖書のみことばに、自分を合わせながら、告白するのです。後はイエス様(聖霊様)にお任せしましょう。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(11月20日木曜日)
「万軍の主はこの山の上で万民のために…永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。」(イザヤ書25章6節−8節抜粋)
イザヤの預言は、山脈を眺める時に、「手前の山」→「奥の山」→「その奥の山」の重なりを眺めるように、イザヤにとっての「現在」→「近い将来」→「遠い未来」を行ったり来たりします(重層的に語られている)。だから、ときどき聖書の預言書のことばを読んでいて、「いったいこれはいつの時代の、どのこといっているのだろう」とか理解しにくいときがあるのです。
そして、イザヤ書24章から27章では、主にに「遠い未来」のことが語られていると理解できます。それは、イザヤにとっても、今、聖書を読む私たちにとっても先の出来事です。つまり、やがてくる世界の終わりと新天新地(天国)のことが預言されているのです。
特に、今日の箇所は、イザヤが生きている時代に苦しみの場所となっている「この山」(エルサレム)で、いつの日か主なる神が「死」を永久に滅ぼして、「苦しみ」と「涙」を完全に取り去って下さると預言されていますね。
それは、イエス様の「十字架の死と復活」によって成就されました。さらに、やがて、イエス様がもう一度もどってこられる「再臨」の時に完成されます。イエス様は「天の御国」の完成の時に、すべての涙と苦しみを完全に取り去って下さるお方です。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(11月21日金曜日)
「イスラエル人はギデオンに言った。『あなたも、あなたのご子息も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたがたが私たちをミデヤン人の手から救ったのですから。』しかし、ギデオンは彼らに言った。『私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます。』」(士師記8章22-23節)
神様の力によってミデヤン人に勝利したギデオンは、イスラエルの人々から崇められ、「どうか私たちを治めて下さい。」とお願いされます。別の言い方をすると「どうか、私たちの王になって下さい。」ということです。
でも、ギデオンはその申し出を断りました。弱く臆病な自分がミデヤン人をやつけることが出来たのは、自分の力ではなく神様の力でしかないことを実感していたのでしょう。自分の分をわきまえて「主があなたがたを治められます。」と言いました。この時、ギデオンは勝利を与えてくださった神様だけに栄光を帰すことが出来たのです。素晴らしいですね。
私たちも、自分の弱さや足りなさを実感すればするほど、神様の強さと生きて働かれる神様の力を体験させて頂けるのでしょう。そして、私たちも神様の助けや力を実感した時には、この時のギデオンのように、ただ神様に栄光と賛美をささげる者でありたいですね。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(11月22日土曜日)
「神である主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない』」(イザヤ書28章16節)
今日の箇所でイザヤは、「シオン」の都と呼ばれる「エルサレム」に、しっかりとした礎(いしずえ)の石がすえられる、と預言しています。
そして、この「礎の石」は、やがて来られる救い主イエス様のことを指していると考えられます。
「試みを経た尊いかしら石」は、建物の土台となる石で、揺らぐことのないしっかりした存在を意味しています。
つまり、私たちが、決して揺らぐことのない「尊いかしら石」であるイエスを信頼して生きてゆくなら、たとえ自分の周りの状況や、自分自身の存在が揺らいだとしても、「あわてることなく」、確かな人生を歩むことができるという励ましのメッセージです。イエス様はいつも、私たちの存在の下にしっかりといてくださって、人生を支えてくださっています!
今日も1日神様の祝福がありますように!