今日の聖書(11月24日月曜日)
「イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。…彼が近寄って来たので、『わたしに何をしてほしいのか』と尋ねられると、彼は、『主よ。目が見えるようになることです』と言った。イエスが彼に、『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです』と言われると、彼は見えるようになり…イエスについて行った。」(ルカの福音書18章35-43節抜粋)
エリコという町の郊外で物ごいをしていた盲人がイエス様に出会ったときのことです。彼はきっとこれまで、町を行き来する人々が話すイエス様の噂を耳にしていたのでしょう。イエス様が近くに来られたことを知り、必死で近寄っていきます。
彼は目が見えない物ごいです。おそらく体も汚れ匂いもしたでしょう。彼に手を貸してくれる人などいなかったはずです。きっと這うようにしてイエス様のもとに近寄ったのではないかと思います。
そんな彼に、なんとイエス様の方から声をかけられたのです。「わたしに何をしてほしいのか。」と。
イエス様の質問に彼は自分の願いをすぐさま伝えました。「主よ。目が見えるようになることです。」
すると、イエス様がおっしゃいました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」
盲人を癒した「あなたの信仰」とはどういうものだったでしょう。それは、イエス様に近寄り、自分の願いと必要を伝えるということでした。イエス様はそれを「信仰」と呼んで下さり、癒してくださったのです。
「イエス様に近づき、自分の願いを伝える」それを「信仰」と呼んでいただけるのなら、私のうちにも、確かに「信仰」があります。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(11月25日火曜日)
「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち帰って静かにすれば、あなた方は救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなた方は力を得る。』」(イザヤ書30章15節)
今日の箇所は、北イスラエルを滅ぼしたアッシリアという大国が南ユダにも攻めようとしている頃、イザヤを通して神様が語られた言葉です。
アッシリアを恐れた南ユダ(イスラエル)の人々は、神様に信頼するよりも、当時、力のあったエジプトに貢物を送って助けを得ようとしました。人間的な策略を一生懸命に練ったのです。
そんな、彼らに対する神様のメッセージが今日のことばです。
『立ち帰って静かにすれば、あなた方は救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなた方は力を得る。』
私たちも、困難や試練を経験するとき、自分でいろいろなことを考えますね。何とかして自分を守ろうとします。そのこと自体は決して悪いことではありません。でも、右往左往しているうちに、最も信頼できる主なる神様を忘れてしまい、目に見える力や自分の経験や考えだけに頼ってしまうことがあるかもしれません。
そんな私たちに聖書は語ります。「どんな時でも私たちと共にいて守り導いて下さる神様に立ち返って、主の前に一呼吸おいて、静まりなさい。」と。そのみことばに自分自身を重ねつつ、主に信頼して歩んでゆきたいですね。神様は私たちに必要な力を与え、助けてくださるお方です。
今日も一日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(11月26日水曜日)
「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」(士師記21章25節)
今日の箇所は士師記最後の一節です。そして、士師記の内容を的確に要約した一言です。
「王がいない」ということは、言い換えるなら「民たちを正しく導く存在がいない」ということです。みんなが好き勝手な方向に進み、神様のみ心を忘れてしまっている姿です。
士師記を読み進めると、どんどんその傾向が強くなり、後半から終盤にかけては、読めば読むほど気持ちが重くなってしまう内容が記録されています。
でも、そのような中で、新約聖書に記されているイエス様の姿を思い出したいと思います。イエス様は、自分勝手で自己中心な群衆を「羊飼いのいない羊」のように哀れんで下さいました。
士師記に記録されたイスラエルの民はまさに「羊飼いのいない羊」です。神様は、長い年月を経て、ダビデという王をイスラエルに与えられました。ダビデ王も人ですから完璧ではありません。でも、ダビデの姿は、後に来られる完全な王、救い主イエス様の姿を差し示しています。
私たちも、士師記に記録されたイスラエルの民と同じように、自分勝手に生き、ときに神様の道を見失いやすい者です。でも、イエス様はそんな私たちを見つめ、深く哀れんで下さり、素晴らしい王として導き、優しい羊飼いとして抱いて下さるお方です。そのようなイエス様に信頼しながら歩んで行きましょう。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(11月27日木曜日)
「見よ。ひとりの王が正義によって治め…義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。」(イザヤ書32章1節、17-18節)
イザヤ書32章は、当時、猛威を振るっていた大国アッシリアに包囲され、圧力をかけられていた南ユダ(イスラエルの民)に対して語られた神様からの励ましのことばです。
ここに出てくる「ひとりの王」というのは、直接的にはヒゼキヤという王様のことをさしています。神様はアッシリアからイスラエルを守り、ヒゼキヤ王の時代に平和を与えて下さるという預言です。(この預言は成就し、しばらくの間、ユダ王国には平和が訪れました。)
また、同時にイザヤが預言した「ひとりの王」は、やがて来られる「救い主」イエス様のことも指し示していました。人間の王による「平和」は一時的なものです。でも「王の王」であるイエス様が与えてくださる「平和」は決して失われることはありません。
救い主イエス様は、私たちの罪を完全に赦し、死に勝利し、変わることのない平安を与えてくださいました。そして、やがてもう一度、再臨されて「安全な家、安らかないこいの場」に、私たちを永遠に住まわせてくださるのです。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(11月28日金曜日)
「まことに、主はわたしたちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。」(イザヤ書33章22節)
今日の言葉を読んで、中学時代に社会で勉強した「三権分立」という言葉を思い出しました。
法律をつくる立法(国会)。法律をもとに政治を行う行政(政府)。それらを審査し、さばきを行う司法(裁判所)。この3つの役割は、私たちが生きている社会にとって、とても大切なものです。
そして、その背後に世界の全てを秩序をもってお造りなった、聖書の神様の存在を感じます。
今日の言葉には、「主はわたしたちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王」とあります。神様は「王」なるお方として私たちを導き(政治)、聖書という決して変わることのない確かな「基準」を与え(立法)、公平で正しい「さばき」を行って(司法)下さる方です。
そんな神様と聖書の言葉に信頼してあゆんでいきましょう。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(11月29日土曜日)
「イエスは、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。』…食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。』」(ルカの福音書22章19、20 節)
今日の箇所は「最後の晩餐」でイエス様が語られたことばですね。
イエス様は十字架にかかられる直前、弟子たちと一緒に食事をされました。この食事は「過越しの食事」と呼ばれ、主なる神様がイスラエルの人たちをエジプトから救い出されたことを記念する祭りの食事でした。祭りの初日には子羊が屠られ、人々は種を入れないパンや苦菜を食べました。
「過越し」の出来事は、「羊の初子を殺し(裂き)、その血を門に塗った家は、神様の裁きが過ぎ越しす(救われる)」というものでした。
イエス様はこの食事によって、これから、ご自分が「真の過越しの子羊」として十字架で裂かれ、血を流されることをお伝えになったのです。パンを裂くことでご自分の肉が裂かれることを表されました。そして、ぶどう酒で、十字架でご自分の血が流されることを示されました。
それは私たちの為です。私たちのすべての罪が赦され、神様に受け入れられるために、イエス様は十字架でご自分の肉を裂き、尊い血を流してくださったのです。
聖餐式の度に、私たちはそのイエス様の愛と恵みを味わいます。そして、聖餐式だけでなく、いつも、その愛と恵みを覚えて歩んでいきましょう。
今日も1日神様の祝福がありますように!