今日の聖書(12月1日月曜日)
「ナオミは言った。『帰りなさい。娘たち。なぜ私といっしょに行こうとするのですか…。』ルツは言った。『…あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。』(ルツ記1章11〜16節抜粋)
ルツ記は、士師の時代に生きた異邦人(モアブ人)の女性「ルツ」の物語です。
外国に住んでいたイスラエル人の女性「ナオミ」には、2人の息子と2人の異邦人のお嫁さんがいました。ひとりは「オルパ」もうひとりは「ルツ」です。
ある時、ナオミの息子が2人とも死んでしまいます。息子を失い意気消沈したナオミは故郷イスラエルに帰って静かに余生を送ろうとします。
しかし、2人のお嫁さんたちはまだ若く将来があります。ナオミは彼女たちのことを考え、それぞれの実家に帰るよう勧めたのです。
するとオルパは泣く泣くナオミに従って実家に帰っていきました。しかし、ルツは実家には帰らず「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」と言ってナオミに着いていったのです。
ルツは義理の母であるナオミを通して、彼女が信じる主なる神様の素晴らしさを知っていたのでしょう。そして、そのナオミが信じる主なる神様を自分の神様として信じて人生を歩んでいこうと決心したのです。
士師記の時代は、神様に選ばれ祝福を受け取るはずのイスラエル人が、神様を忘れ自分勝手に生きている混迷の時代でした。そんな中、イスラエルから見れば神様の祝福から外れている異邦人女性「ルツ」が、自分から進んで神様の祝福の中に入っていったのです。
そういう意味で「ルツ記」は、暗い士師時代の中で輝く「一筋の光」のようです。神様は、どんな暗闇の中にも光を照らして下さるお方です。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(12月2日火曜日)
「ヒゼキヤは主に祈って言った。『…万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を作られました。主よ。御耳を傾けて聞いて下さい。主よ。御目を開いてご覧下さい。』」(イザヤ書37章15-17節抜粋)
イザヤ書36章と37章では、大国アッシリアに滅ぼされそうになっていた南ユダ王国が、神様によって奇跡的に守られたことが書かれています。
今日の言葉はそのとき王だったヒゼキヤの祈りです。
この時、イスラエルの民はアッシリア軍に勝てる見込みがない状態でした。それまでは、周辺の国に貢ぎ物を送って味方を得たり、いろいろな対策を打ってきました。でも、今回は絶対絶命でした。人間的に考えてできる方法はありませんでした。そんな中でヒゼキヤ王は主なる神様を見上げて祈るのです。
「万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を作られました。主よ。御耳を傾けて聞いて下さい。主よ。御目を開いてご覧下さい。」
ヒゼキヤ王はただ神様に助けを求めました。そして、神様はその祈りに応えてくださりアッシリアを滅ぼされたのです。
私たちが信じる主なる神様は、この世界のすべてを創造され、全てを治めるお方です。全てに勝る王の王なるお方です。そして、その偉大な神様が私たち一人一人の祈りに耳を傾け、私たちの生活のすべてを見守って下さっているのです。
だから、私たちも主なる神様にヒゼキヤのような祈りを捧げてゆきましょう。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(12月3日水曜日)
「主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う』と言われた主のおことばを思い出した。(ルカの福音書22章61節)
イエス様は弟子たちとの最後の晩餐を終えた後、ユダヤの指導者たちに捕らえられました。ほとんどの弟子たちはイエス様を捨てて逃げてしまいました。そんな中で一番弟子だったペテロはこっそりとイエス様についてゆきます。近づくと自分が捕らえられるかもしれないという恐れがあったのでしょう。遠くからイエス様を眺めていました。
しかし、ある人がペテロを見て叫びます。「あんた、イエスと一緒にいたでしょう?」ペテロはすぐさま否定しました。「あんな人知りません。」
しばらくすると、違った人が声をかけました。「お前、イエスの仲間だろ?」またまたペトロは答えます。「違う、違う。」そして、逃げるように場所を移動したのです。
しかし、そこにもまた別の人が言いました。「お前、確かにイエスと一緒にいたよ!」あきれたような態度でペテロは言い放ちます。「何言ってるのか意味がわからん!」
するとペテロが最後の言葉を言い終わらないうちに鶏が鳴いたのです。そのとき、はっとしたペテロがイエス様に目を向けた瞬間、イエス様がペテロを見つめておられたのです。そのまなざしはペテロを責めるものではなく、あたたかい優しいまなざしだったのです。
私たちもペテロのように何度も何度もイエス様を否んでしまうような者かもしれません。自分の都合のいいときは信じるけど、都合が悪くなると否定しまうような私たちかもしれません。それでも、イエス様はそんな私たちのことを良くご存知です。その上で、私たちを愛してあたたかいまなざしで見つめて下さるのです。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(12月4日木曜日)
「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。…ハンナは言った。『…祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。私は主の前に、私の心を注ぎだしていたのです。』」(サムエル記第一1章10-15節抜粋)
サムエル記は、預言者サムエルの誕生から始まりイスラエル初代の王サウル、ダビデ、ソロモンについて記されています。サムエルはリーダー不在だった士師記の時代と、王様によるイスラエル王国時代の架け橋的な人物です。
そのサムエルの母が今日の箇所に出てくるハンナという人でした。
ハンナは神様を信じる敬虔な人でした。しかし、結婚後なかなか子どもが与えられず苦しみ悩んでいたのです。当時、不妊の女性は神様の祝福から外れていると考えられていました。周囲の人々や家族の視線も気になったでしょう。直接的な意地悪をいう人もいました。
夫のエルカナはとても優しい人でしたが、その優しさも逆にハンナを苦しめていたのかもしれません。彼女は子どもができない自分を責め深く悩んでいたのです。どんなにつらかったでしょう。
そんな中、ハンナは神様に祈るのです。「神様なぜですか。なぜ私には子どもが与えられないのですか…。」 涙を流し自分の気持ちを神様にぶつけたのです。
私たちも、ときどき「なんで自分だけがこんな目に遭うんだろう」と、辛く悲しい経験をすることがありますね。そして、自分の気持ちを理解してもらえなかったり解決が見えないときにも、とても苦しい思いをします。
でも、今日の箇所から思うことは、そのような行き場のない心の思いを全て神様の前に注ぎだして良いということです。神様への祈りはちゃんと整った言葉でなくてもいいのです。泣いてもいい、叫んでもいい、文句を言ってもいい、自分のありのままを神様にぶつけて良いのです。
神様は、ありのままの私たちの祈りをしっかりと受け止めて聞いて下さるお方です。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(12月5日金曜日)
「(ローマ総督)ピラトは三度目に彼ら(ユダヤの祭司、指導者たち)にこう言った『あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。』(ルカの福音書23章22節)
ルカの福音書23章にはイエス様の裁判の様子が記されています。
訴えたのはイエス様を妬むユダヤの祭司や指導者たち、罪状は「神への冒涜罪」、および「国家転覆を狙った民衆扇動罪」でした。
裁判をしたのはローマ総督ピラトです。聖書以外の書物にも登場する歴史上の人物です。総督ピラトへの訴えは、明らかにユダヤ指導者たちの妬みといいががりによるものでした。イエス様はどう考えても無罪でしたからピラトは三度、無罪判決を下しました。
しかし、ユダヤの指導者や民衆は納得しませんでした。そして、ピラトは彼らの圧力に負けて処分を丸投げしてしまうのです。イエス様を彼らの好きなようにさせてしまいます。
そして、この裁判から一気にイエス様は十字架の死へと追いやられてゆくのです。
神様の前にも、当時の社会においても何の罪も犯していない無実のイエス様が、当時、もっとも残酷で惨たらしい死刑だった「十字架刑」に処せられたのです。
それは、ただ私たちの罪の身代わりの為です。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(12月6日土曜日)
「『どくろ』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばで立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って…。」(ルカの福音書23章33、35節)
エルサレムの中心から離れた「どくろ」と呼ばれる丘の上でイエス様は十字架にかけられました。
真っ裸にされて頭にはいばらの冠をかぶせられまたした。手首と足首には太い釘が打ち込まれました。イエス様が息をするたびに釘に全体重がかかり、体中に激痛がはしったでしょう。
当時の十字架の高さはおよそ180センチくらいだったと言われています。そんなに高くはありませんね。イエス様の息づかいが聞こえるほどの距離で、ローマの兵士たちはゲームを始めました。指導者たちは、イエス様をあざ笑いました。民衆は酷たらしい光景をただ眺めていました。
そんな中でイエス様は一人で主なる神様にこう祈られたのです。
「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
この祈りは誰の為でしょうか。兵士のため、ユダヤ指導者のため、民衆のため、そして、今を生きる私たちのためです。
今日も1日神様の祝福がありますように!