今日の聖書(12月8日月曜日)
「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」(イザヤ書40章11節)
 
 イザヤ書の後半40章〜66章では、アッシリアから守られた南ユダ(イスラエルの民)が、近い将来にバビロンに滅ぼされてしまうことが預言されています。同時にイスラエルが滅ぼされた後の「回復」、つまり、「救い主によって新しい国が起こされる」ことも預言されています。
 今日の箇所は、その「救い主」がどのような方なのかが語られています。 救い主なるイエス様は、「羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」お方です。
 以前にも紹介しましたが、羊は弱くて、目が悪く、そのくせ自分勝手に行動しやすい性質があります。だからこそ羊は羊飼いなしには生きられない動物なのです。
 そして、聖書は私たち人間をそのような羊の姿に譬えています。私たちも羊のように弱くて、盲目的で、自分勝手な存在といえるかもしれません。でも、イエス様はそんな私たちを愛し、ご自分の腕の中に抱き寄せ、優しく導いて下さるお方なのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(12月9日火曜日)
「少年サムエルは(祭司)エリの前で主に仕えていた。…サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた。そのとき、主はサムエルを呼ばれた。」(サムエル記第一3章1-4節抜粋)
 
 神様の恵みによってハンナから生まれた少年サムエルは、エリという名の祭司(今でいえば牧師のような存在)のもとで生活するようになります。(祭司の見習いとして神様に仕えていました。)
 サムエルは神様を礼拝する宮の中が大好きだったようです。彼は宮に安置してあった「神の箱」のそばで寝泊まりしていました。「神の箱」は、神様の存在を表すものなので、サムエルはいつも神様のそばにいたとも言えますね。
 サムエルにとってそこは神様の平安と喜びを感じることのできる場所だったのでしょう。そして、そのような日々の生活の中でサムエルは神様の声を聞き、やがて預言者として歩み始めるのです。
 今の時代、神様の「神殿」は、イエス様を信じる一人一人です。私たちがイエス様を信じた時、イエス様が来てくださって、私たちの心に住んで下さるからです。だから、私たちはどこか特別な場所に行かなくても、何をしなくても、いつも神様の宮にいます。たとえ、そう感じなくても聖書はそういっています。
 そして、心に住んで下さっているイエス様は私たち一人一人を祝福して下さり、聖書のみことばを通していつも語りかけて下さっています。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(12月10日水曜日)
「わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。』恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ書41章9、10節)
 
 今日の箇所は、神様に従わず自分たちの罪のゆえにどん底に陥ったイスラエルの民に対して語られたことばです。そして、このことばは、今を生きる私たちへの神様からのメッセージでもあります。
 神様は、私たちが神様を信じる前から、私たちを「選び」「連れ出し」「呼び寄せて」くださいました。そして、私たちが神様に逆らい、たとえどんな罪の状況に陥ったとしても、絶対に私たちを「見捨てない」お方です。
 それだけでなく、いつも私たちに「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしが あなたの神だから。」と語りかけ、日々の生活を守り導いて下さる神様なのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(12月11日木曜日)
「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」(ガラテヤ書3章 26-27節)
 
 ガラテヤ人への手紙は、パウロがガラテヤのクリスチャンたちに宛てて書きました。
 当時、ガラテヤのクリスチャンの中には、「神様に救われるってどういうことなのだろう?」「罪を犯さず、聖書の教えを完璧に守らないと救われないのではないか?」というように考える人がいたようです。
 だからパウロはそんな彼らにシンプルに答えたのです。
 「イエス様を信じるだけで、神の子どもです!(救われています!)」
 そして、
 「イエス様を信じた人は、イエス様を着ています。」とも言いました。
 「イエス様を着ている」という表現は、イエス様によって「すっぽりと覆われている」「キリストのうちにある」という意味です。
 例えば、黒や赤などのカラーTシャツを着ていても、その上に色の透けない白い服を着てしまえば外からは見えませんね。
 同じように、私たちの存在がどんなに真っ赤でも、どんなに真っ黒な罪を犯したとしても、真っ白なイエス様に覆われているのです。だから、神様の目には、イエス様を来ている私たちは白にしか見えないのです。
 ただ、イエス様を着ている(信じている、信頼している)だけで、神様は「あなたはきよい。それで良い」とおっしゃるのです。そこには人間の側の努力はいっさい必要ありません。ただ、「イエス様を信じる(信頼する)こと」、それが「救い」でありクリスチャンの姿です。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(12月12日金曜日)
「イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(イザヤ書44章22-23節抜粋)
 
 今日の箇所は、神様がイザヤを通して、自分たちの罪が原因で国が滅び異国の地バビロンに捕囚となるイスラエルに対して語られたメッセージです。
 そして、この箇所は「イスラエル」の部分を私たち自身に入れかえて読むことができます。
 神様はたとえ私たちが神様を忘れても、「あなたはわたしに忘れられることがない」と語り、私たちがどんなに神様に背き逆らっても、「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。」と宣言し、私たちがどんなに神様のもとから離れていても、「わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」と、呼びかけ続けてくださいます!
 今日の箇所で明らかなのは、神様は私たちのことが好きで好きでたまらないということです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(12月13日土曜日)
「サムエルはイスラエルの全家に次のように言った。『もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。』そこでイスラエル人は、バアルやアシュタロテを取り除き、主にのみ仕えた。」(サムエル記第一7章4、3節
 
 サムエル記第一の4章から7章では、イスラエルの民とペリシテ人との戦いが記されています。今日の箇所は、サムエルがペリシテ人との戦いの前にイスラエルの民に語った言葉です。
 普通、戦いの前には敵についての分析や戦略を語るものですね。でも、この時のサムエルは違いました。ペリシテ人という外側の問題でなく、イスラエルの内側の問題について語っているのです。
 それは、イスラエルの中に入り込んでいた「バアル」や「アシュタロテ」という偶像の問題でした。それらを取り除き、ただ主なる神様だけを見上げるようにとサムエルは語ったのです。
 私たちも、日々の生活の中でいろんな戦いや問題があると思います。どちらかというと、すぐにその問題そのものに向き合いがちですね。
 でも、今日の箇所から教えられるのは、まず自分自身の内側(心)の状態を確認することが大切だということです。もし、自分の中に偶像礼拝(神様でないものを礼拝する心)があるなら、それらを捨てて、主なる神様だけを見上げ礼拝したいと思います。神様を第一として生活してゆくとき、神様は私たちを放っておかれるお方ではありません。
 今日も1日神様の祝福がありますように!