今日の聖書(12月15日月曜日)
「わたしに聞け、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ書46章3、4節)
 
 イザヤ書に記されているイスラエルに対して語られた神様のことばは、基本的に、今、聖書を読んでいる私たちへのメッセージとして受けとることができます。今日の箇所もそうです。
 私たちが生まれる前、まだお母さんのお腹の中にいる時から、神様は私たちひとりひとりをしってくださり、になってくだいました。神様が私たちに命を与え、この地上に運んでくださったるのです。
 そして、今、この瞬間も、神様は私たちを背負って下さっています。これから先、おじいさんやおばあさんになっても、与えられた生涯を終える時まで、神様は私たちを、変わらず背負い続けて下さいます。
 過去、現在、未来のすべてにおいて、主なる神様は私たちの人生を導いて下さるお方です。そのお方に私たちの全てをお任せしつつ、歩んでゆきましょう。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(12月16日火曜日)
「私(パウロ)はひざをかがめて…父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。…人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ人への手紙3章14節、19節抜粋)
 
 「エペソ人への手紙」は、パウロが捕らえられて囚人としてローマで軟禁状態になっている時に、エペソとその周辺の教会に宛てて書かれた手紙です。
 当時、エペソの町には沢山の偶像があり、クリスチャンがイエス様だけを信じ礼拝するのは、とても困難な状態でした。また、教会にはいろんな人種の人や、違った立場の人がいて、教会の中にも沢山の問題があったようです。
 パウロは、そのような彼らが心配でたまらなかったのでしょう。軟禁状態の中で、彼らのことを思いながら、ひざをかがめて祈っています。
 「どうか、神様、彼らを守ってください。彼らの内なる人(信仰)を強 めてください。」
 「彼らが、イエス様の愛を深く知り実感することができますように…。」
 聖書の中には、聖霊なる神様が私たちと共にうめきとりなしてくださるとありますから、この時のパウロの祈りも、パウロの内におられる聖霊様ご自身の祈りでもありますね。
 そして、今、時間と空間を超えて、この聖書のことばを読んでいる私たちのための祈りでもあるのです。聖霊は、私たちを心配し、いつもとりなしてくださるお方です。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(12月17日水曜日)
「まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。」(サムエル記第一12章22節)
 
 サムエル記の前半には、サウルがイスラエルの王に選ばれたことが書かれています。そもそも、イスラエルは神様に守られ導かれている民ですから、人間の王は必要ありませんでした。しかし、イスラエルの人々は周辺の国々をまねて王を求めました。神様はしかたなくそれをゆるされました。わがままなイスラエルでしたが、そんな彼らを決してあきらめないのが神様です。
 その理由が今日の箇所に書いてあります。
 「主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。」
 神様は、イスラエルを自分の民としてお選びになり、彼らを祝福すると約束されました。それは、彼らが優れていたからでも、周辺諸国と比べて良い民だったからでもありません。ただ、一方的に神様が彼らを選び、彼らを愛されたのです。その神様のご自信の真実さのゆえに、神様はイスラエルを見捨てることをなさらないのです。
 それは、今、イエス様を信じる私たちに対しても同じです。私たちが優れているからでも、良い存在だからでもありません。ただただ、神様が私たちを愛し、私たちを選んでくださっているから、その神様の真実さの故に、私たちをお捨てにならないのです。とっても、安心ですね。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(12月18日木曜日)
「サムエルは(サウル王に)言った。『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。』」(サムエル記第一15章22節、23節)
 
 イスラエルの初代王サウルは、神様に選ばれた人でした。彼は国を治め、守る為、一生懸命に戦いました。神様に従っているつもりでした。でも、彼には人間的な弱さもあったのです。それは、人の目を恐れ、自分の力や考え方を一番にしてしまう自己中心的な考え方でした。そして、いつのまにか神様のことばに聞き従えなくなってしまっていたのです。
 とても残念なことですが、サムエル記第一15章以降、サウルの心と行動はどんどん神様から遠ざかってしまいます。
 もしかしたら、私たちにもサウルのような弱さがあるかもしれません。自分なりに一生懸命に考えて行動する中でも、知らず知らずのうちに人の目を恐れ自己中心に陥ってしまうことがあるかもしません。
 でも、だからこそ、そんな私たちに神様は語って下さいます。
 「わたしのことばを聞いて欲しい。それがわたしが望んでいるただ一つのことなのだよ」と。
 ですから、今、この瞬間、聖書のことばに耳を傾けている私たちを、神様は本当に本当に喜んで下さっているのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(12月19日金曜日)
「まことに彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。…彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」(イザヤ書53章4節、5節、12節抜粋)
 
 イザヤ書53章は、十字架で苦しみを受けられたイエス様についての預言です。イエス様より700年も前に生きたイザヤが、まるで十字架の足元で見つめているかのように語られています。
 何の罪もないお方が鞭打たれ槍で刺し通され十字架にかけられました。人々にあざけられ、神様に見捨てられ、人が体験しうるすべての痛みと苦しみを負われました。それはすべて私たちのためです。
 イエス様が体験された十字架の苦しみによって、すべての罪は赦されました。私たちが神様の愛を受け、神様の子どもとして受け入れられるために、イエス様は十字架で壮絶な苦しみをうけ、とりなして下さったのです。
 私たちはただそのお方を仰ぎ見、神様によって、そのお方の内に入れられていることを感謝しつつ、歩んでゆきましょう。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(12月20日土曜日)
「ダビデはペリシテ人に言った。『おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。』」(サムエル記第一17章45節)
 
 サムエル記の16章以降に登場するのが、後にイスラエルの王となるダビデです。
 ダビデは少なくとも8人兄弟の末っ子で羊飼いをしていた少年でした。サウルの心が神様から離れてしまった後、神様が次の王として選ばれたのがダビデでした。
 今日の箇所は少年ダビデがペリシテ人の大男ゴリアテを倒した場面です。有名ですね。誰もが恐れる戦士ゴリアテを、特別な武器ではなくいつも羊飼いとして使っていた石投げと小さな石でやっつけたダビデ。戦いの前の言葉から彼の神様への信頼が伺えます。
「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」
 神様が、私とともにいて下さる。だから、普段通りのありのままの自分で戦えばいいのだ。そんなダビデの確信です。そして、見事、石投げ一つでゴリアテを倒したのです。
 私たちもいろんな問題や課題にぶち当たります。でも、イエス様を信じる私たちには、「万軍の主」なる神様がともにいて下さいます。
 だから、特別な武器や無理な力は必要ありません。自分以上でもなく自分以下でもない。普段のありのままの自分に与えられている力でイエス様と共に歩んでゆくことができるのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!