今日の聖書(12月22日月曜日)
「私(パウロ)は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」(ピリピ人への手紙3章12節)
ピリピ人への手紙はエペソへの手紙と同じ頃、パウロが囚人としてローマで軟禁状態だった時に書かれた手紙です。
新約聖書の中にはいろんな教会が出てきますが、ピリピの教会はその中でも一番問題が少なく、パウロにとって励ましとなる教会だったと言われています。パウロはいつも自分で天幕を作りながら伝道し、教会からお給料をもらうことはなかったのですが、ピリピの教会だけがパウロに献金をし経済的に支えました。
この手紙にはピリピの教会に対するパウロの感謝や愛情、信頼と助言、喜びのメッセージが書いてあります。今日の箇所で、特にパウロは自分の素直な気持ちを信頼するピリピの教会へ伝えています。
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。」
神様の御心に従って確信をもって伝道していたパウロにも、まだまだわからないことが沢山あったようです。「何故、今、自分はローマで捕らえられているのか?」「こんなに沢山の問題に直面するのか?」「神様の御心はどこにあるのだろうか?」そのようにパウロも追求し続けていたのですね。
でも同時に、「それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」と、イエス様を見上げています。「自分にはまだまだわからないことが沢山だけど、そんな自分をイエス様がしっかりと捕らえて下さっているのだ!」という告白です。
私たちも毎日の生活の中で分からないことや疑問に思うことが沢山あると思います。いろんな問題や課題、納得いかないこともあります。
また、聖書を読んでもよくわからないことや実感をもてないことも沢山あります。神様の御心、恵み、素晴らしさを一生求道しているような気持ちにもなるときもありすね。
でも、それでいいのです。イエス様は私たちのすべてをご存知で、私たちをしっかりと捕らえて下さっているからです。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(12月23日火曜日)
「ダビデは、どこでもサウルが遣わす所に出て行って、勝利を収めたので、サウルは彼を戦士たちの長とした。…サウルはダビデを恐れた。主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。」(サムエル記第一18章5節、12節)
戦士ゴリアテを倒しペリシテ人を追い払ったダビデをサウル王は召し抱えます。そして、自分の娘を妻として与えるほど気に入ります。しかし、サウルは次第に、ダビデが自分よりも若く力にあふれ、民の人気を集めていることに嫉妬します。さらに、段々とダビデに対して恐れを抱くようになり、彼の命を狙うまでになってしまうのです。
今日の箇所には、そんなサウルがダビデを恐れるようになった根本的な理由が書かれています。
「主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。」とあるように、サウルが感じた一番の恐れは、神様が自分を離れてしまったこと(実際は、サウルが神様から離れていったのですが)、そして、神様がダビデにとともにおられるということでした。
サムエル記全体を読むとよく感じることですが、サウルもダビデも同じように良いところや悪いとこがありました。ただ違ったのはサウルは自ら神様に背を向けてしまったことです。その結果、「神様がともにいる」という恵みを失ってしまったのです。
私たちもいろんな間違いや失敗をおかしてしまことがあります。だからこそ、いつも神様の方に向き、イエス様を心の中心にお迎えしたいと思います。イエス様はそんな私たちひとりひとりと共にいて下さり、人生を守り導いて下さいます。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(12月24日水曜日)
「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」(イザヤ書61章10節)
イザヤ61章は、イザヤを通して神様がイスラエルの民に語ってくださった希望のメッセージです。
これは、イスラエルの民が、バビロン捕囚から解放されることだけでなく、イエス様の十字架による救いの成就、そして、この世界の終わりに、イエスが再びこられる(再臨される)ことを、重層的に見つめてイザヤは喜んでいます。「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ」と。
神様は、私たちの生活の中で、沢山の「喜び」や「楽しみ」を与えて下さる方です。そして、その「喜び」の中心はイエス様ご自身です。
イエス様は十字架でいのちを捨てるほどに私たちを愛してくださいました。その愛を信じ受けとるだけで、イエス様は私たちを「愛の衣」、「正義の外套」で包み、「栄冠」をかぶらせ、「宝玉」で飾って下さるのです。この喜びのうちにとどまってゆきましょう。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(12月25日木曜日)
「ダビデは荒野や要害に宿ったり、ジフ荒野の山地に宿ったりした。サウルはいつもダビデを追ったが、神はダビデをサウルの手に渡さなかった。ダビデは、サウルが自分のいのちをねらって出てきたので恐れていた。」(サムエル記第一23章14、15節)
サムエル記第一の21章から27章には、サウル王に命を狙われたダビデの逃亡生活が書かれています。
ダビデは、発狂者のふりをして敵であるペリシテの領地に潜り込み、その後、ユダ西部のアドラムの洞窟、南ユダのケイラ、ジブ、マオンなど、国内外を転々とします。
サウル王に追いかけられたダビデはいつもギリギリの精神状態で逃げました。そして、そのような一番苦しい逃亡生活時代にダビデは多くの詩篇を歌ったといわれています。
ダビデの詩篇には自分の苦しみや恐れと神様への信頼がせめぎあっています。もがいて、もがいて、最後にやっと神様を見上げすべてをゆだねることができているような叫びが多くあります。
私たちの生活にも、ダビデほどではないかもしれませんが、苦しみや恐れがあります。イエス様を信じたからといって全ての問題がなくなるわけではありません。かえって状況が悪くなっていると感じることがあるかもしれません。恐れて当然ですし、不安になってあたり前です。
だからこそ、ダビデのように自分の恐れや文句のすべてを神様にぶつけましょう。そんな私たちを神様はしっかりと受けとめて下さいます。
「ダビデは、サウルが自分のいのちをねらって出てきたので恐れていた。…神はダビデをサウルの手に渡さなかった。」
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(12月26日金曜日)
「主は仰せられた。『まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ』と。こうして、主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自分の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖(あがな)い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(イザヤ書63章8、9節)
今日の箇所も、神様がイザヤを通してイスラエルの民に語られたことばです。そして、このメッセージは、今、イエス様を信じる私たちも受け取ることのできる神様からの愛のメッセージでもあります。
神様は偽りや失敗の多い私たちを「わたしの民、偽りのない子たちだ」とイエス様にあって宣言して下さっています。そして、私たちが苦しみや悲しみの中にいるとき、「いつも主も苦しみ」、助けを与えて下さいます。
そのような愛と憐れみに満ちた神様は、私たちがまだ神様を知らず、神様に背を向けて無視してしまっているような時から「ずっと、背負い、抱いて」下さっているお方です。その主に私たちのすべてをおゆだねしつつ、毎日毎日を歩んでゆきましょう。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(12月27日土曜日)
「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。…あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。…そしてあなたがたは、キリストにあって満ち満ちているのです。」(コロサイ人への手紙2章3節、6節、10節)
コロサイ人への手紙はパウロがローマの獄中から書き送ったものです。
当時、コロサイ教会には異端と呼ばれる間違った教えが広がっていました。具体的には、「哲学的で難しい教えを悟らなければ救われない」とか、「神様と人間の仲介者」として天使を礼拝したり、「極端な禁欲主義」を要求するなどでした。クリスチャン生活をすごく複雑にしていたのです。
そんなコロサイのクリチャンたちにパウロが伝えたメッセージの中心は、「ただイエス・キリストで十分なのだ」ということでした。
「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。…あなたがたは、キリストにあって満ち満ちているのです。」と、特別な悟りや特別な経験は必要ない、ただ、イエス様で十分と宣言しています。
私たちも、時々、「クリスチャンとしてもっと真面目にならないと」、「もっと頑張ってなにかをしないと」という風に、自分自身のクリチャンとしての生き方を複雑にしてしまうことがあるかもしれません。
そんな私たちに対しても、この箇所を通してパウロは語っているのです。「あなたがたがイエス様を信じたのなら、それだけで十分です。すべてに満ちたイエス様が私たちの内にすんでくださっているのだから!以上!」
今日も1日神様の祝福がありますように!