今日の聖書(12月29日月曜日)
「ダビデは非常に悩んだ。…しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。…ダビデは主に伺って言った。」(サムエル記第一30章6-8節抜粋)
 
 サムエル記第一の28章から30章では、サウル王に命を狙われたダビデが当時イスラエルの敵国だったペリシテ人の地に潜り込んだことや、別の敵国アマレク人と戦ったことなどが記されています。
 この頃のダビデの行動は、映画やドラマさながら、非常に危ない橋を渡りつつ、ギリギリのところで危機を回避するというようなスリリングな展開です。結構、無茶をするダビデなのですが、そんな彼が神様に守られた秘訣を今日のことばから感じます。
 「ダビデは彼の神、主によって奮い立った。…ダビデは主に伺って言った。」
 ダビデはさまざまな危機の中で恐怖を感じ悩みました。彼がとった行動の全てが正しいかったとは言えません。それでもダビデは失敗したときには反省し、悩んだときには主に祈り、「主(神様)によって奮い立ち」ました。また、自分がどうすべきか「主(神様) に伺い」ました。そんなダビデを神様は決して見捨てられなかったのです。
 私たちも、人生の歩みの中で、ときに無茶をしてしまうことがあるかもしれません。後になってから「失敗した」と思ってしまうような選択をすることも多いです。だからこそダビデのようにいつも神様と会話し(祈り)、神様のことばによって軌道修正していただきながら歩んで行きたいですね。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(12月30日火曜日)
「この方(イエス・キリスト)は恵みとまことに満ちておられた。…私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネの福音書1章14〜17節 抜粋)
 
 主なる神様の恵みは聖書全体に豊かに記されています。
 旧約聖書のモーセの律法も神様が与えてくださった恵みです。「父と母を敬え」「盗んではならない」など、十戒を中心とした律法は良いものです。だから、それらを守って生きることができるのなら、神様からの豊かな祝福を受け取ることができます。ですから、律法は恵みです。
 でも、問題は私たちが自分の力ではそれらを守り通せないことです。たとえ実際に人を殺さなくても、心で憎んでしまいます。物を盗まなくても、欲しがってしまう心(むさぼり)があります。生まれながらの人はどうしても律法を守ることができないのです。
 だからこそ、イエス様が来て下さいました。イエス様が神様の律法を完全に守って下さったのです。そして、私たちは完全なイエス様を信じるとき、神様によってイエス様の中にいれられます。つまり、完全に律法を守ってくださったキリストにあって(キリストの内にあるものとして)、私たちは神様から「律法を完全に守ったもの」と見なしていただけるのです。
 つまり、イエス様を信じる者は、無条件で神様の恵みと祝福の中にいられているのです。なんという恵みでしょうか。そのことを今日の箇所でヨハネはこう言っています。
 「…私たちはみな、この方(イエス)の満ち満ちた豊かさの中から、恵み(律法)の上にさらに、恵み(イエス様の完全な救い)を受けたのである。」
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(12月31日水曜日)
「ベニヤミンの地アナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば。…次のような主のことばが私にあった。『わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。』」(エレミヤ書1章1〜5節抜粋)
 
 エレミヤはイザヤの約百年後に活動した人物で、「涙の預言者」とも呼ばれています。
 イザヤは、アッシリア帝国にイスラエル(ユダ)の民が攻撃されることを預言しました。人々を悔い改めに導き、イスラエル(ユダ)の民を救いました。
 エレミヤは、バビロン帝国にイスラエル(ユダ)の民が攻撃されることを預言し、悔い改めを語ります。しかし、イスラエル(ユダ)の民は悔い改めず最終的に滅ぼされてしまいます。
 国の外側からは敵国バビロンが迫ってきていました。また国の内側も民は神様の声に耳を傾けるどころか預言者エレミヤを非難しました。
 そんなエレミヤがどうして預言者として語り続けることができたのでしょうか。今日の箇所にヒントがあります。
 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖 別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」
 主なる神様が自分を選び、使命を与えて下さった。苦しみも悲しみもすべてご存じの上で、私を支えて下さっているのだ。そのようにエレミヤは神様を見上げ、神様にしがみついたのです。
 私たちも、エレミヤのようにまるで貧乏くじを引かされたような状況におかれる時があるかもしれません。自分の役割に「なぜ、私がですか?」と苦しむことがあるかもしれません。
 しかし、神様は全てをご存知のお方です。生まれる前からあなたを選び、あなたにしか出来ない使命を与えて下さっているのです。その神様の愛の選びの現実に希望と平安があります。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(1月1日木曜日)
「ダビデは、サウルのため、その子ヨナタンのために、この哀歌を作り、この弓の歌をユダの子らに教えるように命じた。…『サウルもヨナタンも、愛される、りっぱな人だった。』」(サムエル記第二1章17、23節)
 
 サムエル記第一の最後からサムエル記第二にかけてはサウル王がペリシテ人に殺されたことが書かれています。今日の箇所はサウルの死を知ったダビデの反応です。
 ダビデはサウルとその息子ヨナタンの為に悲しみの歌を作りました。自分の命を理不尽に狙い、恐怖と苦しみを与え続けたサウルがなくなったのです。普通なら喜んでもおかしくありません。でも、ダビデは心からサウルの死を悲しんだのです。
 理由は主に2つあります。
 1つは、ダビデがサウルを王として義父として愛し尊敬していたからでしょう。出会った当初のサウルは自分の娘を妻に与えるほどダビデを気に入っていました。ダビデもまたサウルを尊敬していたのです。サウルも自分も同じ弱さをもった人間で、一歩間違えば自分だって同じ過ちを犯すものだと、ダビデは自覚していたでしょう。「罪を憎んで人を憎まず」です。
 もう1つは、サウルがどんなに人間的に間違っていたとしても、主なる神様に選ばれ、主によって油注がれた王だったからです。ダビデはサウルの背後におられる主なる神様を見ていたのです。
 そのようなダビデの姿に新約聖書のイエス様の姿が重なって見えます。
 「罪を憎んで人を憎まない」イエス様。何よりも「父なる神様の御心を第一にする」イエス様の姿です。そんなイエス様がいつも私たちのうちに住んで下さっています。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(1月2日金曜日)
「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。」(ヨハネの福音書3章17、18節)
 
 ヨハネの福音書は新約聖書の中でも比較的最後の方に書かれたものです。
 イエス様の弟子ヨハネがだいぶ歳をとってから書いているのですが、きっと彼はパウロの手紙や他の福音書も読みつつ、ヨハネなりに「聖書のメッセージはこういうことなんだよ」とまとめているのです。
 そんなヨハネが今日の箇所でこう言っていますね。
 「神様がイエス様を遣わされたのは、私たちをさばくためではないのです。イエス様によって救うためです。だから、私たちはだだイエス様を信じるだけでいいのです」と。
 私たちは聖書を読んでいると、時々、恵みよりもなんだか責められているように感じることがあるかもしれません。でも、神様は私たちを責めて、裁くために聖書を与えてくださったのではありません。神様は私たちが聖書に記されている神様の基準を自分の力では決して満たすことができないことをよくご存じです。だからこそ救い主イエス様を送ってくださったのです。そして、イエス様がその神様の基準を全て満たし、神様の律法を成就してくださいました。
 だから!私たちはそのイエス様を信じる(信頼する)だけで良いのです。私たちの努力はいっさい必要ありません。神様はイエス様を通して私たちを見てくださるのです。だから、「御子を信じる者はさばかれない」のです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(1月3日土曜日)
「ダビデは三十歳で王となり、四十年間、王であった。…ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、主が彼とともにおられた。…ダビデは、主が彼をイスラエルの王として堅く立て、ご自分の民イスラエルのために、彼の王国を盛んにされたのを知った。」(サムエル記第二5章4、10、12節)
 
 サウル王の死後、しばらくしてダビデはイスラエル二代目の王となりました。でも、ダビデは自分の力や自分の思うタイミングで王になったのでなく、神様の選びによって、神様の時に王にされたのです。彼はそのことを自覚していました。
 今日のことばからは、ダビデが神様に祝福された理由がわかります。
 1つは、「万軍の神、主が彼とともにおられた」という事実です。そして、もう1つはダビデ自身が、「主が彼をイスラエルの王として堅く立て、王国を盛んにされたのを知った」、言い換えるなら神様の選びによることを自覚していたからです。
 ダビデの生涯から知ることができるのは、神様がともにいてくださるところに祝福があるということです。そして、その事を認めて神様の前に感謝と謙遜をもって生きることは本当に素晴らしい恵みです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!