今日の聖書(1月5日月曜日)
「わたし(イエス・キリスト)のことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネの福音書5章24節)
今日のことばは、イエス様が「救い」について語ってくださっている箇所です。
「わたしのことば」は、今の私たちにとっては聖書のことば全体と理解できます。そして、「わたしを遣わした方」は、天の父なる神様です。
ですから、イエス様は「聖書を読みイエス様を遣わしてくださった天の父なる神様のことを信じる人」は「救われている」のですと、語っておられます。
そして、その「救い」の内容は、「永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがない」、つまり、イエス様によって罪が全てゆるされ、愛と恵みに満ちた神様と共に生きる「永遠のいのち」が与えられるということです。
しかも、そのいのちはやがて行くことのできる天国のことだけでなく、今地上で生きている間も、すでに与えられていて、「死からいのちに移っている」と言われています。言い換えるならば、罪と死の恐れから解放されて、神様が与えてくださる安心と希望をもっていきることができるということです。
もちろん。自分自身の感覚でいえば、不安や恐れを感じることがあります。でも、聖書の約束にある通り、今日、私たちが聖書を読み、神様を信じているということは、すでにその「救い」が、「いのち」が与えられているのです!イエス様が言っておられるのだから間違いありません!
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(1月6日火曜日)
「ダビデは(サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテに)言った。『恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。』…メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足が共になえていた。」(サムエル記第二9章7、13節)
ダビデはサウル王から命を狙われていたのにもかかわらず、サウルが亡くなったあと、サウルとその家族を最後まで大切にしました。ダビデは神様に油注がれたサウルを尊敬してたと同時に、サウルの子で親友のヨナタンとの「約束」も守ったのです。
第一サムエル記を読むとわかりますが、ダビデとヨナタンは本当に固い絆で結ばれていました。サウルがダビデの命を奪おうとするのをヨナタンは何度も救いました。彼らはお互いを守り続けるという「約束」をしていたのです。
そして、ヨナタンが亡くなった後も、ダビデは彼との「約束」を守り通しました。足が不自由なヨナタンの息子メフィボシェテを王宮に招き彼の生活を保証したのです。メフィボシェテには何の努力も必要ありませんでした。ただ、ダビデとヨナタンの「約束」の故に、彼は恵みを受けたのです。
ここに聖書の「恵み」が表されています。神様は、私たちの能力や努力、正しさによって「恵み」を与えてくださるのではありません。神様は、「イエス・キリストのゆえに恵みを与える」と聖書で約束されました。だから、神様は、ご自身の「約束」に基づいて、キリストを通して私たちに「恵み」を与えて下さるのです。
そこに私たち側の状態は関係ありません。努力も必要ありません。ただ、聖書の「約束」を根拠に、神様は私たちに「恵み」を与え、私たちはその中に生かされているのです。ハレルヤ!
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(1月7日水曜日)
「すると彼ら(群衆)はイエスに言った。『私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。』イエスは答えて言われた。『あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。』」(ヨハネの福音書6章28、29節)
今日の箇所は、ガリラヤ湖の畔にあるカペナウムという町でなされた、イエス様とその周りに集まってきた群衆(ユダヤ人)との会話です。
当時のユダヤ人にとって重要だったのは、神様から与えられた律法をいかに守るかでした。「神のわざを行う」を言い換えるなら「どうすれば(どのような律法を守れば)神様に受け入れられるのか?(救われるのか?)」ということです。
そんな彼らにイエス様はこう答えられました。
「あなたがたが、神が遣わした者(キリスト)を信じること、それが神のわざです。」
何かをするのではない。ただ、わたしを信じ(信頼し)なさい。それだけで神様に受け入れていただけます。そうシンプルに答えてくださったのです。
私たちも、時々、今日の群衆と同じように考えることがあるかもしれません。神様に受け入れていただくために「何かをすることに」とらわれがちです。クリスチャンであるために何かをしなければならないとも考えやすいですね。
でも、イエス様はおっしゃいました。「救われるために何かをする必要はない。ただわたしを信じるだけで良いのです」と。救いのメッセージは、クリスチャンであることはとてもシンプルで、簡単なことです。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(1月8日木曜日)
「ダビデはナタンに言った。『私は主に対して罪を犯した。』ナタンはダビデに言った。『主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。』」(サムエル記第二12章13節)
第二サムエル記11章と12章には、ダビデが犯した罪について記録されています。
ダビデは忠実な部下ウリヤの妻バテシェバと不倫をしました。そして、彼女がダビデの子を身ごもったことがわかると、その事実を隠すために夫であるウリヤを戦いの最前線に送り、間接的に殺したのです。ダビデは不倫をし、権力を使って人を殺し、更に隠蔽工作まで行ったのです。
しかし、神様は預言者ナタンによってダビデが隠していたそれらの罪を指摘なさいました。その時のダビデの反応が今日の箇所です。
「ダビデはナタンに言った。『私は主に対して罪を犯した。』ナタンはダビデに言った。『主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。』」
ダビデは大きな過ちを犯しました。神様の祝福を失ってしまってもおかしくありません。でも、最後の最後にダビデは自分の罪を認め、悔い改めたのです。本当に瀬戸際のところでダビデの素直さが残りました。神様の前で自分の罪を認めたのです。
もちろん。ダビデは神様に赦されましたが、その後、自分が犯した罪の結果を刈り取ることになります。それでも、決定的なさばきからは赦されたのです。
このダビデの罪の箇所を読む時、人の罪深さとそれを越える神様の哀れみの大きさを教えられます。
どんな人にも弱さがあります。罪を犯してしまいます。それを隠そうとします。それでもなお、神様は私たちが罪を認め、悔い改めることを待っておられます。ですから、たとえどんな罪を犯してしまっても、もうゆるされないと思っても、そんなことはないのです。
どんな人も神様の前に自分の罪を正直に認め、その罪を告白するとき、救い主イエス・キリストの十字架の血潮によって赦しが与えられるのです。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(1月9日金曜日)
「主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」(エレミヤ書10章23節)
今日の箇所は、預言者エレミヤが祈った神様への嘆きです。
「人は神様から離れてしまっては正しく生きることはできない。自分の悟りと力だけでは、けして幸福な道を歩むことができない」
エレミヤは偶像礼拝に明け暮れ、主なる神様から身も心も離れてしまったイスラエルの民を間近に見つめながら、つくづく実感したのだと思います。 でも、逆を言えば、神様に心を向け神様と共に歩んでいれば、どんなに険しい道であっても、しっかりと歩むことができると理解することもできます。
今、私たちがイエス様を信じ、イエス様のことばに信頼して歩んでいるなら、私たちはイエス様にあって、神様につながっています。そして、神様が私たちの歩みを確かに導いてくださって、神様が用意してくだっさっている確かな道をあむことができるのです。その恵みにとどまりつつ、主とともに歩んでいきましょう。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(1月10日土曜日)
「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書がいっているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」(ヨハネの福音書7章37、38節)
今は真冬ですが、真夏の暑い時期に読むと、より実感できるイエス様のことばですね。
私たちは肉体(喉)の渇きには敏感です。真夏に外を歩けばすぐに喉の渇きを感じ、水を求めます。でも心の渇きはどうでしょうか。以外と鈍感かもしれませんね。
そんな私たちに、イエス様はおっしゃいました。「だれでも渇いているなら」と。イエス様は、私たちが自分でも気づいていない心の渇きをご存知です。そして、イエス様のことばは、私たちを照らし、私たちの心の渇きに気づかせてくださるのです。
そして、イエス様は大声で言われました。「わたしのもとに来て飲みなさい。」私たちを招いて下さっています。聖書を読むとわかりますが、私たちに対するイエス様の招きの手は、いつも全開です。
そして、私たちがその招きに応じるなら(イエス様を信じるなら)、「聖書がいっているとおりに」「心の奥底から、生ける水の川(聖霊なる神様)」が、豊かに溢れ流れて下さり、私たちの全ての渇きを満たしてくださるのです。ハレルヤ!
今日も1日神様の祝福がありますように!