今日の聖書(1月12日月曜日)
「もし主が、『あなたはわたしの心にかなわない』と言われるなら、どうか、この私に主が良いと思われることをしてくださるように。」(サムエル記第二15章26節)
第二サムエル記15章以降には、ダビデが自分の息子アブシャロムから王位を狙われるようになった出来事が記されています。ダビデはこれまで義理の父サウルに命を狙われ、今度は息子アブシャロムからいのちを狙われるのです。ダビデの生涯は本当に苦難の多い歩みでした。
そして、今日のことばは息子アブシャロムから逃れてエルサレムの王宮から離れた時にダビデが語ったことばです。
「どうか、この私に主が良いと思われることをしてくださるように。」
少し自分をダビデの立場において考える時、このように祈れるだろうかと思います。「神様、助けてください。ここしてください。ああしてください。」という祈りなら出て来そうなのですが、「主が良いと思われることをしてくださるように」とは祈れないかもしれません。
でも、極限状態でダビデが祈ってこの祈りこそ、もっとも確かな祈りなのですね。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(1月13日火曜日)
「主よ。私たちは自分たちの悪と、先祖の咎とを知っています。ほんとうに私たちは、あなたに罪を犯しています。御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座をはずかしめないでください。あなたが私たちに立てられた契約を覚えて、それを破らないでください。」(エレミヤ書14 章20、21節)
今日の箇所はエレミヤが民のために祈ったとりなしの祈りです。
何度も何度も罪を繰り返し、神様に背を向け、そのたびに赦されてきたイスラエルの民です。エレミヤが活動した時代はもう最悪の状態でした。最終的に神様はバビロンの手にイスラエルを落とされます。
それでもエレミヤはイスラエルの民を代表して神様に悔い改めて祈っているのです。
「主よ。私たちは自分たちの悪と、先祖の咎とを知っています。ほんとうに私たちは、あなたに罪を犯しています。」
さらに、エレミヤは神様に食らいつくように祈ります。
「御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座をはずかしめないでください。あなたが私たちに立てられた契約を覚えて、それを破らないでください。」
エレミヤの預言者として神と人との間に立つ苦しみを感じます。
そして、その姿は新約聖書のイエス様の姿にも重なります。
聖なる神様と罪深い人間の間に立ち、想像を絶する苦しみを受け、その中で、「父よ彼らをお赦しください。」とイエス様は祈られました。イエス様は、あの十字架で私たち一人一人のために究極のとりなしの祈りを捧げて下さったのです。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(1月14日水曜日)
「ダビデがマハナイムに来たとき、アモン人でラバの出のナハシュの子ショビと、ロ・デバルの出のアミエルの子マキルと、ログリムの出のギルアデ人バルジライとは、寝台、鉢、土器、小麦、大麦、小麦粉、炒り麦、そら豆、レンズ豆、炒り麦、蜂蜜、凝乳、羊、牛酪を、ダビデとその一行の食糧として持って来た。彼らは民が荒野で飢えて疲れ、渇いていると思ったからである。」(サムエル記第二17 章27〜29節)
自分の息子アブシャロムにいのちを狙われ王宮を追われたダビデは荒野へと逃れました。その後、マハナイムという町にやってきました。急に王宮から逃れたダビデ一行です。おそらく「着の身、着のまま」逃げたことでしょう。食料や生活品に困っていたに違いありません。
そんな時、3人の人物がダビデに物資を援助してくれたのです。ダビデにとっては思いがけない助けでした。そして、この助けによって力づけられたダビデは、この後、ただ逃げる姿勢から問題に対処して立ち向かう姿勢へと変化していくのです。
私たちの生活にも思いがけない試練や困難がやってきますね。この先どうなるのかと心配になることもあります。でも、神様はその時々に必要な助けを色々な方法で与え、私たちを力づけ励まして下さるお方です。
今日も誰かがあなたを助けてくださるかもしれません。また、あなたが誰かの助けとなるかもしれません。今日という日を主におゆだねしつつ歩んでゆきましょう。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(1月15日木曜日)
「イエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』」(ヨハネの福音書9章1〜3節)
今日のことばは、イエス様が生まれつき目が見えなかった人を癒された有名な箇所です。
この時、弟子たちがイエス様にした質問は、私たちも持ちやすい考え方かもしれません。何か不幸なことがおこったら、「何か過去に原因があるのではないか?」とか、悲惨な出来事の背後には「いったい誰が何をしたからだろう?」と、私たちもそのような考えを自然に持ちやすいものです。
もちろん、原因が明らかなこともあるでしょう。でも、過去を振り返って原因を探っても分からない事の方が多いかもしれません。
そんな、弟子たちや私たちにイエス様はおっしゃるのです。
「神のわざがこの人に現れるためです。」
イエス様の目は「原因」という「過去」でなく、これから「神様が何をされるか」という「未来」に向けられます。この人がこれから経験する神様のすばらしさをイエス様はすでに見つめてくださっているのです。
イエス様の眼差しは、今、目の前にいる盲人の存在そのものに向けられると同時に、愛に溢れた父なる神様にも向いていたのです。
だから、悲観視するのでもなく、単なる楽観視でもない、私たちのすべてをご存知で、私たち人生に最善を成してくださる主に目を向けて歩んでゆきましょう。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(1月16日金曜日)
「王(ダビデ)は顔をおおい、大声で、『わが子アブシャロム。アブシャロムよ。わが子よ。わが子よ』と叫んでいた。ヨアブは王の家に行き、王に言った。『あなたは、きょう、あなたのいのちと、あなたの息子、娘たちのいのち、それに、あなたの妻やそばめたちのいのちを救ったあなたの家来たち全部に、きょう、恥をかかせました。あなたは、あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるからです。』」(サムエル記第二19章4-6節)
息子アブシャロムに命を狙われて荒野に逃げたダビデは、その後、様々な人物の助けを得ながらアブシャロムの軍隊を倒します。そして、アブシャロムも戦いでなくなってしまいます。
今日の箇所はそんなダビデがアブシャロムの死を聞いたときの反応です。あれだけ自分を困らせて命までねらったアブシャロムでした。それでも、ダビデにとっては息子です。彼の死の知らせを聞いて泣いて落ち込んだのです。
そんな、ダビデに将軍ヨアブがいいました。
「あなたは、きょう、あなたを救ったあなたの家来たち全部に、恥をかかせました。あなたは、あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるからです。」
そりゃそうですよね。部下たちは命がけでダビデのために戦ったのです。勝利を喜んでもらえるはずが悲しまれるなんて…。これでは部下の気持ちは離れてしまいます。しかし、ダビデは側近ヨアブの助言を聞いて我に返りました。自分のために戦った人たちに顔を見せたのです。
神様に愛され、人にも愛されたダビデですが、晩年にかけては人としての弱さが色濃く出てきてしまいます。そういう点で、聖書に出てくる人も私たちと同じように不完全で弱さを抱えていることを感じます。どんなに素晴らしく見えても完璧な人などいません。
だから、こそ大切なのは周囲の人々の助言を素直に聞く姿勢。そして、何よりも心を開いて神様のことばである聖書を読み、みことばの光に自分自身を照らしていただきながら歩んでゆくことが大切なのだと思います。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(1月17日土曜日)
「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。」(エレミヤ書17章7、8節)
今日の箇所は、イスラエルの民が偶像礼拝に陥り、人間の力に頼る中で、エレミヤが語ったことばです。ただ主なる神様だけに信頼して生きる素晴らしさが語られていますね。
この世界の全てをお造りになった創造主なる神様を信じていても、信じていなくても、暑さや日照りに象徴される試練や苦しみは、どんな人の人生にもおこります。
それでは、主なる神様(イエス様)と共に歩む人と、そうでない人との違いはなんでしょうか。
それは、「水のほとりに植わった木」のように、「絶えず神様からの恵みを受ける姿」にあらわされています。どんなに暑さが続いても、水のほとりに植わってさえすれば、地中深くに根をはって、そこから水分を吸収できます。そして、青々とした葉を茂らせ豊かな実を実らせるのです。
イエス様は、「わたしを信じる者は、聖書の示す通り、その人の内から生ける水の川が流れ出るようになる」と約束されました。それは、聖霊なる神様のことです。私たちの内には「生ける水」である聖霊がおられます。そして、そのお方がいつも溢れながれてくださいます。そのお方に私たちの人生をお任せして、歩んでいきましょう。
今日も1日神様の祝福がありますように!