今日の聖書(2月2日月曜日)
「ヤロブアム王の第十八年に、アビヤムはユダの王となり、エルサレムで三年間、王であった。…彼の心は父ダビデの心のようには、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。しかし、ダビデに免じて、彼の神、主は…エルサレムを堅く立てられた。」(列王記第一15章1節〜4節抜粋)
イスラエル王国の分裂後、北イスラエルも南ユダも、頻繁に王が変わります。どちらの国の王もほとんどが神様に背を向け偶像礼拝を続けます。でも、時々、悔い改めて主なる神様に立ち返る王様も現れます。
どちらかというと南ユダの方が良い王様が出てきますし、実際、南ユダ王国の方が長く続いていますね。その理由が今日の箇所にかいてあります。
「ダビデに免じて、彼の神、主は…エルサレム(南ユダ)を堅く立てられた。」
はっきり言って、北も南も神様の目にはどっこいどっこいで愚かさはどんぐりの背比べです。ただ南ユダはダビデの家系だったのです。
第二サムエル記7章で、主なる神様はダビデに「恵みを千代まで与える」と約束されました(「ダビデ契約」と呼ばれます)。その約束の故に南ユダを守られたのです。
このことから教えられることは、私たちが信じる聖書の神様は「約束を守ってくださる神様」だということです。私たちの「正しさ」や「行い」や「状態」を見て判断されないのです。 最終的には、ただ主なる神様の約束を信頼したを見て下さる神様です。
そして、その約束を受け取ることは全然難しくありません。ただイエス様を信じるだけです。それだけで決して変わることのない恵みと祝福に入れられているのです。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(2月3日火曜日)
「オムリの子アハブは、イスラエルの王となった。…アハブは彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行った。…彼はシドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、バアルに仕え、それを拝んだ。…テシュベ人エリアはアハブに言った…。」(列王記第一16章29節〜17章1節抜粋)
今日の箇所には、北イスラエルの七代目の王で史上最悪と言われたアハブが登場します。
この頃、北イスラエルは外国との関係が良好で表面的には国も繁栄していました。アハブ王は、シドンという外国の王様の娘イゼベルを妻として迎えました。政略結婚です。
このイゼベルが問題でした。バアルという偶像礼拝に熱心な女性でした。妻イゼベルの影響で、アハブはバアル礼拝を国家として大々的に導入してしまうのです。これが、「アハブは彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行った。」と言われる理由です。
この異常事態の中で、神様が遣わされたのが預言者エリヤです。17章以降、エリヤとアハブ(というか妻のイゼベル)との対決が紹介されます。(是非、読んでください。)
今日の箇所から思わされることは2つです。
1、神様は、人間の自主性を尊重して下さる方だということ。神様は、私たちの生活にあまり強引に介入されないようです。いろいろな状況や出来事、その中での私たちの決断を尊重し神様の許しの中で見守って下さいます。どこまでも私たちの自主性を重んじて、神様に立ち返るのを待って下さるお方です。
2、神様は、異常事態や最悪の状態をさけるために、時には特別な介入をして下さるということです。この時、北イスラエルは本当に最悪の状況でした。性的な乱れ、偶像に子供を生け贄にするなど、ひどい偶像礼拝も行っていました。だから、神様は預言者エリヤを遣わし、民たちに直接的に語られたのです。
旧約聖書のイスラエルの民を見ると人間の弱さや愚かさをこれでもかと見つめさせられます。でも、それ以上に、人を愛し罪も過ちも大きく覆って下さる主なる神様の恵みの深さを教えられます。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(2月4日水曜日)
「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭をたれて、霊をおわたしになった。」(ヨハネの福音書19章30節)
十字架の上で、イエス様が最後に語られたことばは「完了した。」です。
いったい何が完了したのでしょうか?
1、「罪の裁き」が完了しました。私たちが今までに犯した罪、これから犯す罪、過去、現在、未来のすべての罪、何よりも神様に背を向け神様との関係が壊れてしまっている「罪」を背負い、すべての身代わりとなって裁きを受けて下さいました。だから、刑罰はすべて完了しています。
2、「神様との関係(交わり)」が回復しました。罪のせいで神様がわからなくなり、神様を無視し、壊れてしまっていた私たちと神様の関係が完全に回復しました。イエス様を通して自由に神様に祈り、交わることが出来るようになりました。
3、「永遠のいのち」が与えられました。この地上において死んでも終わることのないいのちです。肉体の死のあと、永遠に神様とともに暮らすことが出来るようになりました。そこにはもう苦しみも涙も痛みもありません。私たちが想像できる最高の楽しさと喜び、それ以上のものが永遠に続きます。
この神様に約束された「救い」のすべてが、二千年前の十字架で「完了」しました。そして、その効力は今も、これからもずっと変わりません。
私たちは何をしなくても良いのです。自分の動き(努力)を止めて、ただ、イエス様の十字架を仰ぎ、そこで語られた「完了した」というイエス様のことばを受け取りましょう。ただ、イエス様の恵みによって、私たちは「完了した救い」の中にいるのです。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(2月5日木曜日)
「預言者エリヤは進み出て言った。『アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事 を行ったということが、きょう、明らかになりますように。…この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。』すると、主の火が降って来 て…焼き尽くしてしまった。民はみな、これを見て、ひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です』と言った。」(列王記第一18章36節〜39節抜粋)
第一列王記の18章では、エリヤとバアルの預言者たちとの対決が記されています。どのような対決だったかというと、それぞれの陣営が一頭ずつ雄牛を屠り、火を使わないで、祈りによって雄牛を燃やすという対決でした。
バアルの預言者たちは、偶像バアルに祈りながらいろんなことを試すのですが、何をやっても火がつきません。犠牲を燃やす事ができませんでした。
その後、エリヤが進み出て神様に祈ります。その祈りが今日の箇所です。大切なポイントは以下の通りです。
1、「私はあなたのしもべです。」…エリヤは自分には力がなく、自分はただ神様のしもべであり、神様の働きの通り良き管であることを告白しています。
2、「あなたのみことばによって、なして下さい。」…自分の考えや自分の方法ではなく神様のみことば(神様の方法)を求めています。
3、「民があなたこそ唯一の神であることを知りますように」…この対決を通して、自分がすごい預言者だということを知らせるのではなく、ただ、神様の栄光が表され民が神様に立ち返ることができるようにと求めました。
このエリヤの祈りに神様は答えてくださいました。なんと天から突然火が降ってきて雄牛を焼き尽くしたのです。それを見たイスラエルの民たちは唯一の神様の前にひれ伏すのです。
私たちが今バアルの預言者と実際対決することはありませんが、エリヤの祈りから学ぶことができますね。彼の祈りにあるように神様の前に自分の弱さを認め、みことば(聖書)を心に留めて、神様の栄光を求めて祈るものでありたいです。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(2月6日金曜日)
「アハブは、エリヤがしたすべての事…を残らずイゼベルに告げた。すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。『もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちの…ようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。』彼は恐れて…自分の死を願って 言った。『主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。』…主の使いが、彼にさわり、『起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから』と言った。そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食 べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。」(列王記第一19章1節〜8節抜粋)
バアルの預言者に勝利し、アハブとの対決を終えたエリヤ。神様による勝利でした。
しかし、そこに登場したのがアハブの妻イゼベルです。夫アハブに対して「しっかりしなさい!」と言わんばかりに立ち上がり、エリヤにこう伝えます。
「明日のうちにあんたをぶっ殺す!」
エリヤは完全に怖じ気づいてしまいます。大勝利のあとの落ち込み、いわゆる「燃え尽き症候群」のようなものでした。エリヤは荒野に逃げて木の陰に寝転び神様につぶやきます。
「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。」
前章であんなに意気揚々と神のことばを語り、バアルの預言者たちと戦ったというのに、イゼベルの脅迫に縮こまってしまうエリヤ、「もう死にたい」とまで落ち込むのです。
そんなエリヤに神様は主の使いを送ってくださいました。主の使いはエリヤに「しっかりしなさい!」とはいいませんでした。「どうしたんだ?」と問い詰めることもしませんでした。ただそっとエリヤのそばに来て食べ物を用意したのです。やさしいですね。さらに主の使いはエリヤにこう声をかけました。
「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」
エリヤは食事をし、力を得て歩き出すのです。そこから「神の山ホレブ」、つまり、神様と出会う場所へと進んでゆくのです。
私たちも時々落ち込むことがありますね。落ち込んでふてくされて「すべてを投げ出したい!」「遠くへ旅立ちたい」そんな風に思うこともあるかもしれません。
神様はそんな私たちのそばにいてくださいます。「ああしなさい。こうしなさい」とも言わず、「どうしたの」と聞くこともされない。ただ、「これを食べなさい」と、その時々の必要を満たしてくださるのです。そして、そのような神様のご配慮を受けながら、私たちは一歩一歩進ませていただくことができるのです。
今日も1日神様の祝福がありますように!
今日の聖書(2月7日土曜日)
「ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、主からエレミヤに次のようなみことばがあった。『あなたは巻き物を取り…わたしが、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる。』」(エレミヤ書36章1節〜 3節抜粋)
今日の箇所で神様は預言者エレミヤに「わたしのことばを書き残しなさい」と語っておられます。それを読んだ人々が神様の元へ立ち返ることを願われたのです。
この頃は今と違い紙はとても貴重なものでした。それでもエレミヤは神様に言われた通り、預言のことばを書き残したのです。だからこそ、今の私たちは「書き残された物」である聖書を通して神様のことばを直接読むことができるのです。
そして、聖書を与えてくださった神様の願いは昔も今も変わりません。
「わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる。」
つまり、聖書を通して、私たちが神様の御思いをしり、神様に立ち返り、神様とともに生きるようになることです。ですから、聖書には神様の私たちに対する熱い想いが込められています。私たちの手元に残されている聖書はとっても分厚いですね。でもその分厚さは、私たちに対する神様の愛の熱量ともいえるのです。
今日も1日神様の祝福がありますように!