今日の聖書(2月23日月曜日)
「神のみこころにより、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、愛する子テモテへ。父なる神および私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。」(テモテへの手紙第二1章1節、2節)
 
 テモテへの手紙第二は、おそらくパウロがローマで殉教する少し前に書かれた手紙だと思われます。
 その頃、ローマではネロ皇帝によるクリスチャンへの大迫害がありました。クリスチャンたちを捕らえ、動物の皮を被せ犬に噛み殺させたり、柱に縛りつけてアスファルトをかけて火をつけて、たいまつ代わりにしたりしました。沢山のクリスチャンが残虐な方法で殺されたのです。パウロも捕らえられローマの監獄で死刑を待っている状態でした。(後にパウロは斬首刑で殺されたといわれています。)
 そのような時代背景を考えながらこの手紙を読むとき、書き出しのパウロの挨拶に深みを感じます。
 「キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、愛する子テモテへ。」
 多くのクリスチャンが殺され、おそらく自分もこれから殺されることが予想されるなかで、パウロが見つめていたのは「キリスト・イエスにあるいのちの約束」、「永遠のいのち」でした。
 死刑を間近に控えてもちろん恐れもあったでしょう。でもパウロの内側に住む聖霊が、たとえこの地上の命がなくなったとしても、決してなくなることのない「いのち」を見せて下さっていたのです。
 そして、今も同じ聖霊が私たち、イエス様を信じる者の内に住んでくださっています。
 現在の日本ではパウロの時代のようにクリスチャンであることが理由で殺されることはありません。でも、いろいろな苦しや試練がそれぞれにあります。そんな中で私たち自身は恐れるかもしれません。でも、私たちの内に住んでくださっている聖霊が、今日も私たちの心の目を「イエス様にある永遠のいのち」に向けさせて下さっています。そのお方に信頼して歩んでゆきましょう。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(2月24日火曜日)
「そこでゲダルヤは彼らとその部下たちに誓って、彼らに言った。『カルデヤ人の家来たちを恐れてはならない。この国に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたはしあわせになる。』」(列王記第二25章24節)
 
 バビロンによって滅ぼされた後、南ユダ王国に「総督」として置かれたのがゲダルヤという人物です。 (王様とは違いバビロンが指名し任命した人)ゲダルヤは預言者エレミヤとも関係があった人のようで、エレミヤが語り続けたメッセージを良く理解していました。ですから、今日の箇所でユダの人々にこう語っています。
 「カルデヤ人の家来たち(バビロンの人々)を恐れてはならない。この国に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたはしあわせになる。」
 イスラエルの人々にとって自分の国がなくなり外国に連れ去れることは、絶望以外の何ものでもありませんでした。しかし、エレミヤやゲダルヤが語ったメッセージは「自分たちが最悪と思える今の現状も、神様の御計画の中にあるのだ」ということでした。
 私たちも人生の歩みの中で「なんでこんな状態になるのだろう」と失望を感じることがあるかもしれません。でも、すべては天の父なる神様の御手の中にあります。
 今、置かれた状況のただ中で、主なる神様が私たち一人一人にお語りになるメッセージは 「(わたしのことばに信頼すれば)あなたがたはしあわせになる」です。聖書のみことばによって、神様は私たちに今朝もそのように語ってくださっています。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(2月25日水曜日)
「神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ・・・から、同じ信仰による真実のわが子テトスへ。父なる神および私たちの救い主なるキリスト・イエスから、恵みと平安がありますように。」(テトスへの手紙1章1節、4節)
 
 この手紙は、パウロがクレテ島という場所で牧師をしていたテトスを励ますために書かれました。
 テトスは、パウロによってイエス様を信じたギリシャ人のクリスチャンでした。パウロと共に伝道の旅をし、苦楽を共にした弟子の一人であり、友でもありました。パウロが落ち込だときにテトスが励ましたこともありました。
 パウロはテトスのことを「兄弟」「仲間」「同労者」と呼び、ここでは「同じ信仰による真実のわが子」と親しく呼びかけています。テトスも以前紹介したテモテと同じように、教会を任されそこで起こる様々な問題に対処し、重荷を背負っていました。そんな彼にパウロは語りかけるのです。
 「同じ信仰による真実のわが子テトスへ。父なる神および私たちの救い主なるキリスト・イエスから、恵みと平安がありますように」と。
 人生には重荷があり苦難があるけれども、いつも変わらない父なる神様とイエス様の恵みと平安があなたにあるようにと、パウロは祈り励ましているのです。
 そして、この祈りは私たちへの祈りでもあります。神様はこの祈りの通り、私たちをイエス様の恵みと平安の中に入れてくださっています。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(2月26日木曜日)
「アダム、セツ、エノシュ、ケナン、マハラルエル、エレデ、エノク、メトシェラ、レメク、ノア、セム、ハム、それにヤペテ・・・」(歴代誌第一1章1節〜4節)
 
 今日の箇所は、歴代誌の冒頭部分です。
 歴代誌は、バビロン捕囚から70年後にエルサレムに帰ってきたイスラエルの民に対して、エズラというリーダーが語ったメッセージです。
 神様の約束通りに再びエルサレムに戻ってきたイスラエルでした。最初の頃は喜びや希望に溢れていました。でも、彼らは、以前のような栄光を失った国の現状やさまざまな問題に遭遇するなかで、次第に失望落胆していきます。同時に神様に礼拝する心が薄れてしまっていったのです。
 歴代誌は、そんなイスラエルが神様から与えられた祝福と使命を思い起こし、もう一度神様を見上げ、礼拝に生きるために書かれた励ましの書物です。
 エズラは1章から9章までを割いて「系図」から書き始めています。それは、まず自分たちのルーツを丁寧に確認したのです。しかもそれは栄華を極めたソロモン王から始まるのではなく、誰もが憧れるダビデ王からでもありませんでした。イスラエルの名前の由来ヤコブからでも、偉大な信仰の父アブラハムからでもありません。人類の始まりアダムからスタートしています。
 神様が愛をもって形造り、直接、息を吹き込まれたアダムです。つまり、たとえどんなに落ちぶれてたようでも、どんなに惨めでも、どんなになさけなくても、私たちのルーツは神様なのだ!神様が私たちを造り、私たちを選び導いてくださったのだ!その原点を思い出して欲しい!それがエズラの願いであり歴代誌に込められた神様の願いでもあるのです。
 そして、私たちも同じです。どんな家柄に生まれようとも、どんな状態にあろうとも、私たちはみんな神様に愛され、選ばれ、形づくられ、いのちの息を吹き込まれた尊い存在です。そして、イエス様を信じることによって、神の子とされました。それが私たちのルーツであり揺るぎない立場です。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(2月27日金曜日)
「ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、『私が悲しみのうちにこの子を産んだから』と言って、彼にヤベツという名をつけた。ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。『私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。』そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」 (歴代誌第一4章9節10節)
 
 歴代誌第一1章から9章にはイスラエルの系図が記録されています。
 人の名前が淡々と続く中で、今日の箇所に「ヤベツ」という人の祈りが紹介されています。それまでの流れからすると少し唐突な感じがして心に残ります。
 ちなみに、「ヤベツ」という名前には「痛み」「苦しみ」「悩み」という意味があります。現代日本ではあまり名前にネガティブな意味を込めることはありませんね。でも、旧約聖書の中にはいくつか例がありました。例えばヤコブの子べニヤミンなどは、最初、母ラケルは「ベン・オニ」(私の苦しみの子)と呼びました。その後、ヤコブは少し発音と意味を変えて「ベニヤミン」になったのですが、とにかく「ヤベツ」は、生まれた時からネガティブな要素を背負わされた人だったとも言えます。
 そんな彼が「兄弟たちよりも重んじられ」るようになったのですが、そのきっかけが次のような祈りでした。
 「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」
 難しい祈りではありませんね。シンプルに「神様、私を祝福して下さい。私とともにいて、私が苦しむことがないようにして下さい」と願ったのです。
 これなら私たちにも真似が出来る祈りだと思いませんか。もちろん、神様への祈りをこの「ヤベツの祈り」一つだけで語ることはできません。でも、お祈りは神様との親しい会話ですし、そこには自由と豊かさがあります。だから、時にはヤベツのようにシンプルに神様に祈ってみましょう。「主よ、私を祝福してください」と。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(2月28日土曜日)
「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに・・・私たちを救ってくださいました。・・・これは信頼できることばですから、私は、あなたがこれらのことについて、確信をもって話すように願っています。それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。」(テトスへの手紙3章5節、8節)
 
 テトスが牧師をしていたクレテ島の教会には沢山のクリスチャンたちがいて、それゆえに問題も多かったようです。不品行やふしだらな生活をしている人、議論ばかりして対立する人、異端と呼ばれる間違った信仰理解に走る人などです。テトスも対応が大変だったと想像します。
 そんなテトスにパウロが語ります。
 「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、あわれみのゆえに・・・私たちを救ってくださいました。・・・これは信頼できることばですから、確信をもって話すように」と。
 パウロは、いろいろな問題に直面しているテトスに、「神様の恵みを確信をもって語りなさい。そうすれば神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになる」とアドバイスしたのです。
 「神様の恵みが語られ、人々がその恵みを受け取り、信仰によってそこにとどまるなら、イエス様の恵みによって人は変えられてゆくのです。だから恵みを語り続けなさい。」それがパウロの確信だったのです。
 そして、今も主なる神様はパウロのことばを通して私たちに語って下さっています。「わたしの恵みにとどまりなさい」と。
 今日も1日神様の祝福がありますように!