今日の聖書(3月2日月曜日)
「私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。その方は私に仰せられた。『人の子よ。立ち上がれ。わたしがあなたに語るから。』その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちに入り、私を立ち上がらせた。そのとき、私は私に語りかけることばを聞いた。」(エゼキエル書1章1節、2章1節、2節)
 
 エゼキエルは、捕囚となったバビロンの地でイスラエルの民に神様のメッセージを語った預言者です。時代としてはエレミヤよりも少し後の人で、エレミヤの弟子だったのではとも考えられています。有名なダニエルとも同時代の人物で、ダニエルは主に王宮で活躍し、エゼキエルは田舎(ケバル川のほとり)でくらしていました。
 バビロン捕囚にあったイスラエルの人々と同様にエゼキエルも失望していました。落ち込んだ毎日を送っていたのです。
 そんなある日のことです。エゼキエルは、突然、神様の声を聞きました。
 「人の子よ。立ち上がれ。わたしがあなたに語るから。」
 神様の語りかけによってエゼキエルは立ち上がります。
 「その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちに入り、私を立ち上がらせた。」
 田舎の川のほとりで力なく座り込んでいたエゼキエルに、神様の霊が臨み彼を立ち上がらせ預言者としての使命を与えたのです。神様からの一方的な働きかけでした。
 私たちも時々、失望したり、立ち上がる気力がでないときがあります。でも大丈夫。そんな私たちをご存じで、それぞれの人生にご計画をもってくださっている神様が、みことばをもって私たちに語りかけてくださっているからです。そして、イエス様を信じる一人一人に聖霊が住んでくださっているからです。そのお方に信頼して歩んでゆきましょう。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(3月3日火曜日)
「その方は私に仰せられた。『人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。』そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、そして仰せられた。『人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。』そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。」(エゼキエル書3章1節〜3節)
 
 バビロン捕囚の時代に活動した預言者エゼキエルのことばです。ちなみに、バビロン捕囚を英語でいうと「THE EXILE(ジ・エグザイル)」、音楽グループのエグザイルは、売れるまでの長い下積み生活をバビロン捕囚に例えたのでしょうか?真相はわかりません。
 さて、バビロンの地で気落ちしていたエゼキエルに預言者としての使命を与えられた神様ですが、彼を選んだのち放っておかれたわけではありません。ちゃんとエゼキエルが語るべき内容を与えてくださいました。
 今日の箇所が、エゼキエルが見た幻(イメージ)なのか、実際に彼がとった行動なのかはよくわかりませんが、とにかく、エゼキエルは神様から巻き物(語るべきメッセージ)を食べた(受け取った)のです。 腹ごしらえでしたのです。するとそれは密のように甘かった(おいしかった)のです。
 神様は、私たちにもみことば(聖書)を与えて下さっています。聖書を語る(伝える)為には、腹ごしらえが必要ですね。だからエゼキエルが巻き物を食べたように聖書を読むことは素晴らしいことです。
 しかも、聖書のことばは私たちにとって密のように甘くおいしいものです。疲れた時には回復を与え、落ち込んだときは慰めて力づけてくれます。今日もみことばの腹ごしらえ完了です!
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(3月4日水曜日)
「テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」(使徒の働き1章1節〜3節)
 
 「使徒の働き」は「ルカの福音書」の下巻です。2冊はセットでした。著者のルカはパウロが亡くなる少し前まで彼と行動を共にした人で医者でもありました。
 ルカは他の弟子たちやパウロの手紙を綿密に調べて「ルカの福音書」と「使徒の働き」を書き、テオピロというギリシャ人の役人に送りました。教養や哲学、理性的なことを大切にするギリシャ人の心に響くよう、綿密に調べて丁寧に記録したのです。
 ですから「使徒の働き」の冒頭である今日の箇所は、知的で科学的な医者ルカが、哲学的で理性的なギリシャ 人テオピロに対して丁寧に語っているのです。
 「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」
 十字架で死んだイエス・キリストは確かに復活された!そして、数多くの証言者と証拠があります!信頼してください!と
 聖書は単なる物語や絵空事ではありません。しっかりと歴史の事実を調べた人物が書き記した正確な書物です。その聖書が語っているのです。「イエス様は今日も生きておられる!」と。私たちの信仰はこの事実の上に立っているのです。
 今日も1日神様の祝福がりますように!
 
 
今日の聖書(3月5日木曜日)
「ダビデはますます大いなる者となり、万軍の主が彼とともにおられた。」(歴代誌第一11章9節)
 
 歴代誌は、創世記から列王記で紹介されたイスラエル民族の歩みを要約し、もう一度振り返っている書物です。
 バビロン捕囚から戻った後、ボロボロになったエルサレムを見て嘆きました。失望し、自信を失い、神様を見失いかけていたのです。そんなイスラエルに決して変わることのない神様の祝福と使命を思い起こさすために書かれた励ましのメッセージでもあります。
 1章から9章には「系図」が記され自分たちのルーツを確認しています。その後は、ダビデを中心に振り返ってゆきます。10章から12章では、ダビデが王様になったこと、そして、エルサレムを攻めとり首都にしたことが紹介されています。
 イスラエルの民はバビロン捕囚によって自分たちのアイデンティティを見失い失望していました。「私たちはもう弱い国民だ。」「神様はどこにおられるのだろうか。」そのような気持ちだったと想像できます。
 そんな彼らに歴代誌の著者を通して神様が語っておられます。
 「私は、イスラエルを祝福の民として選び、ダビデという王を選んだ。そして、ダビデに約束した通り、わたしはあなたと共にいる。」
 そのメッセージがダビデの歴史を振り返ることを通して伝えているのです。その約束のメッセージは、聖書のみことばを通して私たちにも語られています。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(3月6日金曜日)
「わたしの怒りが全うされると、わたしは彼らに対するわたしの憤りを静めて満足する。わたしが彼らに対する憤りを全うするとき、彼らは、主であるわたしが熱心に語ったことを知ろう。」(エゼキエル書5章13節)
 
 預言者エゼキエルはバビロン捕囚の時代に活動しました。彼が神様から託されたメッセージは、「バビロン捕囚はイスラエルが犯した罪の結果であり、神様の怒りの現れである。」ということでした。
 聖書の中には、神様についていろいろな表現があります。「愛の神」「正義の神」「全能の神」「慰めの神」などなど…。そして、今日の箇所は「怒りの神」です。
 神様は私たち人間を愛して下さっています。同時に「罪」に対しては怒っておられます。聖なる神様は罪を絶対に受け入れることができません。だから、こうおっしゃいます。
 「わたしの怒りが全うされると、わたしは彼らに対するわたしの憤りを静めて満足する。」
 神様の怒りは全うされないといけないのです。どのようにでしょうか?
 究極的にはイエス様の十字架によってです。アッシリアに滅ぼされても、バビロンに滅ぼされても、人間の罪の本質は決してかわりません。神様の怒りがおさまることはありませんでした。
 だから、神様ご自身であるイエス様が、この地上にこられ十字架で死なれたのです。十字架のイエス様に対して、神様は容赦されませんでした。苦しみを与え、見放し、人類の過去、現在、未来におけるすべての罪に対して怒りをぶつけられたのです。
 神様の怒りをすべて受け止めて下さったイエス様はどれほどの苦しみだったでしょうか。想像出来ません。イエス様の十字架によって、神様の怒りは完全に静められ、今、私たちは神様に受け入れられているのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(3月7日土曜日)
「このようにして、神の箱はオベデ・エドムの家族とともに、彼の家に三か月間とどまった。主はオベデ・エドムの家と、彼に属するすべてのものを祝福された。」(歴代誌第一13章14節)
 
 歴代誌12章にはダビデがエルサレムを都としたことが記されています。そして、13章から16章では「神の箱」をエルサレムに持ち運んだ出来事が記録されています。
 「神の箱」は「契約の箱」とも呼ばれ、神様の臨在(神様がそこにおられること)そのものでした。ダビデは、その大切さを自覚していました。だから、これから国づくりをしてゆくという大切な時期に、まず国の中心エルサレムに「契約の箱」を運び込もうとしたのです。
 しかし、その途中でトラブルが発生しました。ウザという人がうっかり「契約の箱」を触ってしまったのです。これは律法に反することで、イエス様がこられる前の旧約聖書の時代ですから、ウザは神様に打たれ死んでしまいました。それによって「契約の箱」をエルサレムに運ぶのは一度中断され、オベデ・エドムという家族のもとに置かれました。聖書にはこう書かれています。
 「主はオベデ・エドムの家と、彼に属するすべてのものを祝福された。」
 今日の箇所から学ぶことができるは、神様の臨在は聖いものだということ。そして、私たちが正しい方法で神様の臨在に触れるなら祝福があるということです。
 その正しい方法とはイエス様の十字架です。そのイエス様を通して(信じることによって)、私たちは神様の臨在の中に入れられています。そして、イエス様を通して神様は恵みと祝福を豊かに注いでくださいます。
 今日も1日神様の祝福がありますように!