今日の聖書(3月16日月曜日)
「これらはみな、その父の指揮下にあって、シンバル、十弦の琴、立琴を手に、主の宮で歌を歌って、王の指揮の下に神の宮の奉仕に当たる者たちである。」(歴代誌第一25章6節、7節)
 
 今日の箇所を含む歴代誌23章から27章には、神殿完成後の礼拝における様々な役割が書かれています。現代に当てはめると「礼拝奉仕分担表」のような感じです。
 神殿の内側では、シンバルや琴、様々な楽器を用いて賛美する奏楽者たちがいました。彼らは良く訓練された音楽家でした。一方、神殿の外側にも「その奉仕にふさわしい力のある勇敢な人」が門衛として奉仕していたのです。
 音楽家と門衛たち。それぞれ違う役割ですが目的は同じでした。主なる神様への礼拝です。同じ神殿で同じ神様を礼拝するために、それぞれが自分にあった奉仕をしていたのです。
 私たちも同じですね。それぞれに個性がありまし、担うことのできる役割も違います。でも、同じ主に礼拝をささげる「礼拝の民」とされています。見えるところは関係ありません。人と比べる必要もありません。それぞれが与えられている思いや興味や許される時間を用いて、喜びをもって主に礼拝をささげるのです。
 そんな一人一人が主によって集められ、そこにしかない礼拝がささげられてゆく、主はその礼拝を喜んでくださっています。なんと素晴らしいことでしょうか。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(3月17日火曜日)
「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた。」(使徒の働き9章1節〜4節)
 
 有名なサウロ(後のパウロ)が復活のイエス様と出会った箇所です。
 もともと彼は旧約聖書の教えを厳格に守るパリサイ派で、ユダヤ人の超エリートでした。しかも、当時のローマの市民権を持っていたので、社会的にも上層階級、しかも財産も持っていたようでした。
 彼の性格は真面目で正義感が強く、自分がこうと思ったら突き進む熱血漢です。当初はナゼレのイエスを神と信じるクリスチャンたちが大嫌いで、先頭にたって迫害し、沢山の人を捕まえ牢屋にぶち込みました。
 そんなサウロがダマスコへの途上でイエス様の声を聞くのです。
 「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか?」
 そして、サウロはイエス様を信じて人生が変えられます。名前も「パウロ」に変えました。「パウロ」という名前には「ゼロ」という意味があるそうです。
 自分こそ正しいと信じて道を突き進んでいたサウロが、イエス様と出会いゼロになりました。そして、ゼロになったパウロを通して、その後、神様は素晴らしい働きをされるのです。
 私たちの人生にも失敗があります。挫折があります。まるで自分がゼロになったように感じるときがあるかもしれません。
 でも、その空っぽの私たちをイエス様が満たし、その私たちを通して働いてくださるのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(3月18日水曜日)
「『人の子よ。見よ。わたしは一打ちで、あなたの愛する者を取り去る。嘆くな。泣くな。涙を流すな。』・・・その朝、私は民に語ったが、夕方、私の妻が死んだ。」(エゼキエル書24章16節、18節)
 
 預言者エゼキエルには妻がいました。しかし、神様は彼女の命をとられたのです。理解に苦しむ箇所です。でも、一つ言えることは、その悲しい出来事は、当時のイスラエルがバビロンに攻められて、首都エルサレムが滅ぼされることがどれほど悲惨で悲しいことなのかが示されていたということです。
 旧約の預言者は時として言葉だけでなく自分の生活や行動を通して、「神のことば」を伝えました。エゼキエルにとって、とても辛く悲しいことですが、彼は預言者として身を持って、生活のすべてを通して、「神様の嘆き」をあらわしたのです。
 罪の故に人が滅ぼされること。それは本来あってはならないことで、たった一人の愛する存在が亡くなってしまうほどに神様は悲しんでおられるのです。
 だからこそ、私たちが一人も滅びることがないように、御子イエス様をこの地上に送ってくださり、十字架ですべての罪の罰をうけさせられたのです。しかも、イエス様は死んで終わりではありませんでした。三日目に復活し、天に上られ、今も生きておられると聖書は伝えています。それが、私たちが罪赦されて神の子をされている根拠です。
 今日も1日神様の祝日がありますように!
 
 
今日の聖書(3月19日木曜日)
「そこでペテロは、口を開いてこう言った。『これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるの です。神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。』」(使徒の働き10章34節〜36節)
 
 使徒の働きは、イエス様が復活され、天に帰られた後、聖霊がくだり教会が誕生し、聖霊の力強い働きによって弟子たちが福音を宣べ伝えてゆく過程が記録されています。
 そして、9章では異邦人の使徒パウロが登場しました。10章からはいよいよ異邦人(世界中の人)への宣教の扉が開かれて行きます。
 今日の箇所でペテロは当時の自分たちの常識を超える福音の広がりが、神様の御心によって進められてゆくことを宣言しています。
 1、「神様はかたよったことをなさらない。」・・・神様は、世界中どんな人でも、イエス様を信じることによって受け入れてくださるお方です。
 2、「イエス・キリストはすべての人の主です。」・・・イエス様は、イスラエル人だけの救い主ではありません。この世界のすべての人の救い主です!
 この聖書が語る「福音」は、2000年前から今日にいたるまで、変わらずに響き続けています!
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(3月20日金曜日)
「私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。今、ここにいるあなたの民が、みずから進んであなたにささげるのを、私は喜びのうちに見ました。」(歴代誌第一29章17節)
 
 第一歴代誌の最後には、ダビデが神殿建設のために様々な準備をし、自分の財産を率先して捧げたことが記録されています。そんなダビデの姿を見てイスラエルの民たちも自分にできる限りをささげました。
 今日の箇所は、その時ダビデが神様にした祈りです。このダビデの祈りから2つのことがわかります。
 一つは、神様は素直な心を喜んでくださるということです。神様は私たちを愛してくださり、いつも大きな恵みを与えて下さるお方です。そして、その恵みを受けとった私たちが素直な心で応答することを喜んで下さるのです。
 二つ目は、私たちが神様に何かをささげるとき、そこには喜びがともなうということです。人は神様によって造られました。聖書は、それを「神様のかたちに似せて造られた」と言います。言い換えるなら、「神様のご性質に似せて造られた」ということです。
 神様のご性質には、「愛すること」「与えること」も含まれます。だから、私たちがそのように生きるとき喜びを感じるのです。逆を言えば、もし「心に喜び」を感じず、むしろ「苦しさ」を感じるのであるなら、無理に「ささげる」ことをせず、その手をとめて、神様の愛と恵みを思い巡らしたらよいのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(3月21日土曜日)
「そこで今、神、主よ、私の父ダビデになさったあなたの約束を固く守ってください。・・・今、知恵と知識を私にください。さもなければ、誰に、この大いなる、あなたの民をさばくことができましょうか。」(歴代誌第二1章9節、10節抜粋)
 
 イスラエル二代目の王ソロモンは、父ダビデから王位を譲られた後、神様の守りと祝福によって、国をどんどん大きく強くしてゆきました。今日の箇所は、そんなソロモンが王様になった時に祈った神様への祈りです。
 1、「私の父ダビデになさったあなたの約束を固く守ってください。」・・・ソロモンは、神様が父ダビデを愛し、ダビデとの契約のゆえに、イスラエルを豊かに祝福してくださったことを良く理解していました。だから、神様がダビデに与えた約束の中に自分の身をしっかりとおき、神様を信頼したのです。
 2、「今、知恵と知識を私にください。」・・・ソロモンは、国は決して自分のものではなく、神様の国であることを自覚していました。そして、自分は王として国を治める役割が、神様から与えられているのだということを良くわきまえていました。また、自分の知恵と能力の限界もわかっていたようです。だからこそ、何よりも大切なものとして、神様からの「知恵」を求めたのです。
 ここにソロモンが神様に祝福された秘訣を見ることができますね。そして、私たちもイエス様にあって、神様の「約束」の中に生かされています。また、イエス様にあって求めるなら、神様からの「知恵」が与えられます。ソロモンのようにまっすぐに神様に祈るものでありたいですね。
 今日も1日神様の祝福がありますように!