今日の聖書(3月23日月曜日)
「人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。」(エゼキエル書28章2節)
 
 エゼキエル書26章から28章は、ツロという外国に対する預言で、エルサレムがバビロンに滅ぼされた年にエゼキエルが語った内容です。
 ツロは古代地中海世界に繁栄した強大な海運国でした。貿易で莫大な財と力を得た国です。「私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている」という表現は、驕り高ぶったツロの姿が表現されています。
 きっとツロの人々はイスラエルがバビロンに滅ぼされているのを横目で眺めながら、「自分たちは、ああはなるまい…」と思っていたのでしょう。
 しかし、歴史を紐解くとツロもこの後バビロンやペルシャ、そして、アレキサンドロス大王によって滅ぼされてしまいます。エゼキエルの預言の通りになったのです。
 今日の箇所に記されているツロの姿、「あなたは自分の心を神のようにみなした」は、物事がうまくいっているときに人が陥りやすい姿かもしれません。
 「自分は神だ!」とまでは思わないにしても、自分の正しさや自分の力を誇り、まるで自分が神になりかわってしまっているような姿です。だからこそ主なる神様はみ言葉を通して語ってくださいます。
 「あなたは人であって、神ではない。」と。自分を支えてくださっている主なる神様を認め、そのお方に信頼して歩んでゆくとき、本当の意味での人の幸せがあると聖書は語っています。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(3月24日火曜日)
「この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を固く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。」(使徒の働き11章22節〜24節)
 
 使徒の働き10章からは、イエス様の福音がユダヤ人だけでなく異邦人にも伝えられていったことが記されています。そして、11章では、アンテオケという町(現在の西シリアに位置するシルクロードの出発点)で、沢山の異邦人がイエス様を信じクリスチャンになったとあります。
 「この知らせ」を聞いたエルサレム教会がアンテオケに派遣したのがバルナバです。「バルナバ」という名前には「慰めの子」という意味があります。今日の箇所からは、バルナバの素晴らしさを見ることができます。
 1、「彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び」・・・バルナバは「神の恵み」に目を留める人でした。エルサレム教会から見ればアンテオケ教会のクリスチャンになったばかりの人々は、未熟で不十分に見えたかもしれません。でも、バルナバは彼らの内に働かれた「神様の恵み」に目を留めたのです。
 2、「みなが心を固く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。」・・・バルナバは何か新しい規則を伝える訳でも、先輩として信仰のあり方に注文をつける訳でもありませんでした。ただ、「あなた方は、そのまま神様の恵みとどまっているように」と励ましたのです。
 どうして、バルナバはそのような素晴らしさを身につけていたのでしょうか。それは、バルナバが「聖霊と信仰に満ちている人」だったからだとあります。そして、そんなバルナバを通して、ますます「大ぜいの人が主(イエス様)に導かれた」のです。
 今、イエス様を信じる私たちの内にも、同じ聖霊が住んでくださっています。聖霊は神様の恵みに目を向けさせて下さるお方です。そして、そのお方を信頼する私たちをいつも守り導いてくださっています。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(3月25日水曜日)
「そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った。こうして、主のみことばは、この地方全体に広まった。」(使徒の働き13章48節、49節)
 
 使徒の働き13章から15章には、パウロとバルナバたちの第一回目の宣教旅行が記されています。
 彼らはアンテオケの教会から派遣され、地中海に浮かぶキプロス島、そして、現在のトルコに位置する小アジアの町々を旅し、イエス様の福音を伝えました。
 パウロとバルナバはユダヤ人の会堂を中心に伝道しました。ある人はイエス様の救いを信じ、ある人は敵対しました。イエス様の救いを伝えて行く中で、信じる人と信じない人がいたわけです。それを今日の箇所ではこのように表現しています。
 「永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った。」
 信じる、信じないは人の行為なのですが、そこに神様の先行的な御手があるということです。つまり、私たちが今この瞬間、イエス様を信じているなら、それは神様が私たちを愛し、選び、救いを与えてくださっているということです。
 だから、私たちは力まず焦らず自分の生活を通してイエス様を紹介してゆきたいと思います。私たちの力で人をクリスチャンにする必要はありません。大切なのは「イエス様ご自身」です。私たちを通して、イエス様が人々に伝わり、神様が「永遠のいのちに定められた人たち」を信仰に導いて下さるのです。「こうして、主のみことばは、この地方全体に広まった。」
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(3月26日木曜日)
「主が夜ソロモンに現れ、彼に仰せられた。『わたしはあなたの祈りを聞いた。 ・・・今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。』」(歴代誌第二7章12節、 15節抜粋)
 
 第二歴代誌6章7章には、神殿が完成した時にソロモンが神様に祈りを捧げたことが記録されています。
 ソロモンは、神様は人の作った建物などにはお住みにならないほど偉大な存在であることを告白しつつ、神様がこの神殿に臨在してくださり、人々の祈りと願いを聞いて下さるようにとお願いしました。
 そして、今日の箇所で、神様がソロモンの祈りに応えてくださっています。
 「わたしはあなたの祈りを聞いた。 ・・・今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。」
 主なる神様は神殿に目を注ぎ、人々の祈りに耳を傾けて下さると約束されたのです。
 イエス様が既にこられた今は、イエス様を信じる私たち一人一人が神の宮(神殿)です。神様の臨在は私たちのうちに既にあります。そして、神様は、私たち一人一人に目を留めて祈りと願いを聞いてくださるのです。
 だから、聖書の約束通りに、私たちの祈りと願いのすべてを神様にお伝えしましょう。神様はすべての祈りを聞いて下さっています。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(3月27日金曜日)
「イコニオムでも、ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂に入り、話をすると、ユダヤ人もギリシヤ人も大ぜいの人々が信仰に入った。しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行わせ、御恵みのことばの証明をされた。」(使徒の 働き14章1節〜3節)
 
 アンテオケ教会から派遣されて第一回目の宣教旅行に出かけたパウロとバルナバは、地中海に浮かぶキプロス島、そして、現在のトルコに位置する小アジアの町々を旅して福音を伝えました。
 沢山の人がイエス様を信じクリスチャンになりましたが、パウロの働きを妬んで妨げる人々も多くいました。それでもパウロたちはイエス様の救いを「大胆に語り」続けたのです。
 その時、神様は「彼らの手にしるしと不思議なわざを行わせ、御恵みのことばの証明をされた」とあります。「しるしと不思議」というのは、病の癒しや悪霊からの解放、超自然的な神様のみわざのことです。パウロたちが語る「恵みのことば」、つまり、「イエス様の救い」が本物であるということが、不思議なみわざによって確かなものとして証明されたのです。
 イエス様の救いが「宣教(伝える)」されたとき、神様がみことばに伴う「しるしと不思議」をもって、その確かさを明らかにしてくださったのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(3月28日土曜日)
「人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」(使徒の働き15章8節、9節)
 
 使徒の働き15章には有名な「エルサレム会議」が記されています。
 会議ですから話し合いがなされたわけですが、何を話し合ったかというと「人が救われる(神様に受け入れられる)為に必要な条件は何か?」ということです。
 当時、教会の中にはユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがいました。ユダヤ人クリスチャンはイエス様を信じた後も、それまでと同じように旧約聖書の律法を守り、神の民としての「しるし」として割礼(男性器の包皮を切り取ること)を行っていました。
 ですから、旧約聖書の律法を守らずに、割礼も受けずに生活している異邦人クリスチャンに違和感を感じていたのです。「イエス様を信じたらもちろん救われますよ。でもね、やっぱり律法は守りましょうよ。割礼も受けましょうよ。」と主張したわけです。
 その意見に対して、ペテロやヤコブ、パウロやバルナバ、教会の長老たちが会議したわけです。その時、ペテロが言ったのが今日の言葉です。
 「人の心の中を知っておられる神は、・・・彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」
 つまり、救われる為に必要なのはただイエス様を信じる「信仰」だけでよい!律法や割礼によって救われるのではない!という宣言です。
 私たちも、時々、こんなふうに思うかもしれませんね。「イエス様信じるだけでいいのかな?」「簡単すぎないかな?」「もっと、聖書を読んで、もっと熱心にお祈りして、ちゃんとしないと神様に受け入れられないのでは・・・」
 そんなことはありません。神様は私たちの宗教的な熱心さや行動によって受け入れてくださるのではありません。
 私たちがただイエス様を信頼し、心にお迎えするなら、その「信仰によって」受け入れてくださるのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!