今日の聖書(4月13日月曜日)
「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。」(ダニエル書1章17節)
 
 ダニエルも、エゼキエルのようにバビロンに連れて行かれた人物の一人です。エゼキエルは主に田舎で活動しましたが、ダニエルはバビロンの王宮で、ハナヌヤ、ミシャル、アザルヤという同世代の仲間と共に活躍しました。神様の守りによってバビロン王から良い待遇を受けて生活することができたのです。
 そんなダニエルたちの素晴らしかった点は、遠いバビロンに連れ去られても、主なる神様を忘れず、ただ主なる神様だけを礼拝して生活したことです。だから、神様は「この四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられ」たとあります。特にダニエルには「すべての幻と夢とを解く」力を与えてくださいました。そして、彼らはバビロンの王宮でも重要な高官として活躍したのです。
 今も主は、主なる神様に信頼し礼拝する私たちを守ってくださいます。そして、必要な知恵と力を与えてくださり、それぞれの生活の場所で祝福して下さいます。そして、私たちにしか出来ない働きを用意してくださっています。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(4月14日火曜日)
「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子(イエス)によって、私たちに語られました。」(ヘブル人への手紙1章1節、2節)
 
 ヘブル人への手紙を誰が書いたのか断定はできないのですが、おそらくパウロではないかと考えられています。
 この手紙が書かれた背景には、当時のクリスチャンが経験していた様々な信仰上の問題があったようです。ローマ帝国からの迫害もありました。皇帝が神格化され、皇帝礼拝をそれを拒否するクリスチャンへの風当たりが強くなっていました。また、教会内の問題としては、異端と呼ばれる間違った教えが出てクリスチャンが混乱していました。
 著者(おそらくパウロ)は、そのような問題に対処するためにこの手紙を書いたのです。
 手紙の中心テーマは「イエス・キリストがすべて!」です。「神は、・・・預言者たちを通して・・・いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子(イ エス)によって、私たちに語られました。」
 つまり、神様はイエス様を通して、私たち一人一人に語って下さっている。そして、どんな問題の中でもイエス様に信頼してゆくとき、そこに励ましがあり、慰めがあり、解決の糸口があるのです。
 聖書の中心はイエス・キリストです。だから「イエス様はどういうお方なのだろう?イエス様は何を語られているのだろう?イエス様はどんなことをされたのだろう?」そのように考えながら聖書を読み進めるとき、神様が私たちに必要なことを語ってくださるのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(4月15日水曜日)
「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。『…私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた 金の像を拝むこともしません。』」(ダニエル書3章16節〜18節)
 
 バビロンの王ネブカデネザルの元で、ダニエルと3人の同僚(シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ) は重要な役職につきます。しかし、ある時、問題が起こりました。ネブカデネザルが自分の像を造り、それを拝むよう命令し、従わないものは焼き殺すというおふれを出したのです。
 もちろん、ダニエルたちは主なる神様だけを信じていますから偶像礼拝はしません。そこで、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの3人が呼び出されてしまいます。その時に、彼らが語ったのが今日のことばです。
 「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。」
 ここからは神様に対する強い信頼が見て取れますね。でも、それ以上に心打たれるのは次のことばです。
 「しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」
 たとえ、主なる神様が助けてくださらなくても、私たちはそのお方だけを礼拝します!という宣言です。
 そして、今日のことばから思わされるのは、神様ご自身が、まず「たとえそうでなくても」というみ思いで、私たちを愛してくださったということです。
 神様は、私たちが正しいから、優れているから、従うから、愛して下さったのではありません。私たちが、たとえ間違っていても、どんなに愚かでも、何度裏切っても、私たちを愛してくださいました。
 この主なる神様の大きな愛を受け取るとき時、私たちのうちにおられる聖霊によって、私たち自身も「たとえそうでなくても、神様を愛し礼拝します。」と告白させていただけると信じます。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(4月16日木曜日) 「この命令が広まるとともに、イスラエルの人たちは、穀物、新しいぶど酒、油、蜜など、すべての野の収穫の初物をたくさん持って来た。彼らはすべてのものの十分の一を豊富に携えて来た。ユダの町々に住むイスラエルと、ユダの人たちもまた、牛や羊の十分の一と、彼らの神、主に聖別した聖なるささげ物の十分の一を携えて来て、あちらこちらに山と積んだ。」(歴代誌第二31章5節、6節)
 
 聖書には、神様への捧げもの(献金)について書かれている箇所があります。今日の箇所からも献金について学ぶことができます。
 今日の箇所の背景には、ユダの王ヒゼキヤが行った宗教改革があります。ヒゼキヤは国中の偶像を捨て去り、旧約聖書が記している律法の通りに神様を礼拝しました。その結果、イスラエルの民たちの心が動かされ、彼らは自分たちに与えられた収穫物の十分の一を神様にお捧げしたのです。何よりもまず、神様の素晴らしさ、大きな愛と恵みと祝福を実感したからです。
 旧約聖書の時代も、今も主なる神様は同じお方です。私たちを愛し豊かに祝福してくださいます。そして、私たちが主の恵みを受け取って心満たされ、主に信頼しつつ、喜びをもって捧げるなら、神様はそれを喜んでくださいます。
 献金は、十分に与えてくださる神様への応答です。決して強制ではありません。また、必ず十分の一でなければならないとも、聖書には書いてありません。大切なことは私たちを豊かに祝福して下さる主なる神様に応答しつつ、それぞれが心に決めた通りに、喜んでささげることのできる分でよいのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(4月17日金曜日)
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル人への手紙 4章12節)
 
 今日の箇所は、ヘブル人への手紙の中でも有名なことばですね。
 ここで言われている「神のことば」は、今の私たちとっては聖書のことば全体と理解して差し支えありません。
 「生きていて、力がある」という表現は、「目的を必ず果たす」という意味があります。
 「両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し」は、切り離すことが難しいほど微妙なすきまも区別する鋭さがあるということです。
 そのように表現されているように聖書のことばは、私たちの「心のいろいろな考えやはかりごとを判別」します。
 私たち人間の心は本当に複雑で微妙ですね。正しいことを言っているつもりでもどこかでごまかしていたり、相手のことを思っているようで、実は根っこは自己中心だったりもします。時には自分でさえ自分の本当の気持ちが分からないようなこともあります。
 でも、そんな私たちのことを神様は知ってくださっています。そして、語りかけてくださっているのです。だから、神様の語りかけである聖書のことばに、自分自身を照らし合わせてゆくとき、心も行動も、みことばとともに働らかれる聖霊によって、少しずつ造り変えられ、一歩ずつ導かれてゆくのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!
 
 
今日の聖書(4月18日土曜日)
「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル人への手紙4章14節、15節)
 
 ヘブル人への手紙のテーマはズバリ「イエス・キリスト」ですが、今日の箇所でもそのことがよく分かります。
 イエス様は、神様と私たち人との間に立ってくださる「大祭司」なるお方です。罪のゆえに、本来は神様と関わることが出来ない私たちの為に十字架にかかり、神様との関係を完全に回復してくださいました。「道」となってくださいました。
 だから私たちは、イエス様のみわざによって、大胆に神様の前に近づき、遠慮なく祈り、神様の語りかけである聖書のことばを聞き(読み)、神様と親しく交わることができるのです。
 また、イエス様は「私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた」とあります。
 つまり、イエス様はどこか遠く高いところにおられるのではなく、私たちと同じ人としてこの歴史と地上に生きてくださり、人が受けるすべての苦しみ、すべての試練、すべての誘惑や悩みを経験してくださり、罪は一切犯されず、なのに罪の罰をすべてお一人で受けて下さったのです。
 ですから、私たちがたとえ「誰一人、自分のことを分かってくれる人がいない」と思ったとしても、イエス様だけは私たちのすべてを理解してくださっています。だから、「偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」ということばに、うなずくことができるのです。
 今日も1日神様の祝福がありますように!