城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二四年一月二八日             関根弘興牧師
                ダニエル書三章一節〜一二節
 ダニエル書連続説教3
    「たとえそうでなくても」
 
 1 ネブカデネザル王は金の像を造った。その高さは六十キュビト、その幅は六キュビトであった。彼はこれをバビロン州のドラの平野に立てた。2 そして、ネブカデネザル王は人を遣わして、太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官を召集し、ネブカデネザル王が立てた像の奉献式に出席させることにした。3 そこで太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官は、ネブカデネザル王が立てた像の奉献式に集まり、ネブカデネザルが立てた像の前に立った。4 伝令官は大声で叫んだ。「諸民、諸国、諸国語の者たちよ。あなたがたにこう命じられている。5 あなたがたが角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときは、ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝め。6 ひれ伏して拝まない者はだれでも、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。」7 それで、民がみな、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、および、もろもろの楽器の音を聞いたとき、諸民、諸国、諸国語の者たちは、ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝んだ。8 こういうことがあったその時、あるカルデヤ人たちが進み出て、ユダヤ人たちを訴えた。9 彼らはネブカデネザル王に告げて言った。「王よ。永遠に生きられますように。10 王よ。あなたは、『角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞く者は、すべてひれ伏して金の像を拝め。11 ひれ伏して拝まない者はだれでも、火の燃える炉の中へ投げ込め』と命令されました。12 ここに、あなたが任命してバビロン州の事務をつかさどらせたユダヤ人シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴがおります。王よ。この者たちはあなたを無視して、あなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝みもいたしません。」(新改訳聖書第三版)
 
 前回は、ダニエルがバビロニヤ帝国のネブカデネザル王が見た夢の内容と意味を解き明かしたという出来事を読みましたね。 ネブカデネザル王は、自分の見た夢が気になって夜も眠れなくなってしまいました。そこで、バビロン中の知者たちを集めて、「私が見た夢を言い当てて、その意味を解き明かせ」と命じました。しかし、知者たちが「夢を言い当てるなど人間には不可能です」と答えると、王は怒り狂って「バビロンの知者たちをすべて滅ぼせ」と命じたのです。
 その時、ダニエルと三人の同僚は、三年間の教育期間を終えて王に仕え始めたばかりでしたが、ダニエルたちも知者の仲間として殺されることになってしまいました。その絶体絶命のピンチです。ダニエルたちは神様に切に祈り求めました。すると神様は、幻の中でダニエルに王の夢の内容と意味を示してくださったのです。
 王が見た夢には、頭は金、胸と両腕は銀、腹とももは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄一部が粘土で出来ている巨大な像が出て来ました。その像が人手によらずに切り出された石によって打ち砕かれ、粉々に吹き散らされてしまい、最後に、その石が山となって全土に満ちた、という夢だったのです。
 ダニエルは、王の前に出て、その夢の内容を説明してから、意味を解き明かしました。金の頭であるバビロニヤ帝国の後に、銀、青銅、鉄で示される帝国が次々に興こり、その後、国々は鉄と粘土が混じり合っている足のように分裂した状態なってしまうけれど、最終的には、それらの国々はみな滅んで、神様御自身がお建てになる国が永遠に支配するようになる、それが王の見た夢の意味だと説明したのです。つまり、「この世の国々はいつか滅ぼされ、神様の永遠の御国が到来する」というのです。「この天地はいつか滅びるけれど、神様がもたらす新しい天地は決して滅びることがない」、これが聖書が一貫して教えている歴史観なのですね。
 王は、ダニエルの解き明かしを聞くと、ひれ伏してダニエルに礼をし、こう告白しました。「あなたがこの秘密をあらわすことができたからには、まことにあなたの神は、神々の神、王たちの主、また秘密をあらわす方だ。」ダニエルの信じている神様こそ、最高の神、王たちの主であると告白したのです。そして、ダニエルをバビロン全州を治め、知者たちをつかさどる長官に任命し、同僚のハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤをバビロン州の事務をつかさどる役職に任命しました。
 さて、今回の3章には、その三人の同僚が新たな危機に直面した出来事が書かれています。彼らがどのように対処したのか見ていきましょう。
 
1 金の像
 
 旧約聖書をギリシャ語に翻訳した七十人訳聖書では、3章1節の最初に「ネブカデネザルの治世の第18年目」という言葉が付け加えられています。ただ、原文のヘブル語には書かれていないので、正確な年代は定かではありませんが、2章の出来事より十五年以上経っていたのかもしれません。
 2章では、「ダニエルの信じる神様こそ最高の神で、王たちの主だ」と告白して謙虚な姿勢を示したネブカデネザル王でしたが、高慢さや権力欲を捨てることはできなかったようですね。なんと金の像を造って、全国の高官たちや役人たちを招集し、盛大な奉献式を行い、「この像をひれ伏して拝め。拝まない者は、火の燃える炉の中に投げ込まれる」と命じたのです。
 その像は、高さ二十七メートル、幅三メートル弱の巨大なものでした。何の像かはっきりわかりませんが、バビロンの神の像だったかも知れないし、王自身の像だったかも知れないし、王が自分自身をバビロンの神に似せて造った像だったかもしれません。ともかく、この像は、ネブカデネザル王の権威と偉大さの象徴であり、この像を拝むことには、王を崇拝し、絶対的な服従を誓うという意味があったのです。王は、自分への忠誠を強制し、拒否する者は恐怖で屈服させようとしたのですね。
 歴史を通して言えることですが、人は絶対的な権力を得ようとするとき、偶像礼拝を利用します。何かの像を造って拝ませる時もありますし、自分自身が偶像になったり、何かの思想や原理を偶像のように祭り上げることもあります。そして、その偶像を強制的に崇拝させ、逆らう者には反逆者のレッテルを貼って迫害するのです。
 残念ながら、今でも人間の中でもそうした傾向を国だけではなく、組織の中でも、様々な集団の中でみることができます。
教会の中でさえも、牧師が、まるで大きな権威があるかのようにふるまい、また何らかの教理をまるで偶像化し、人々を強制的に従わせようとすることすらあります。従わない者は、不従順というレッテルを貼るのです。そうなると、本来の教会の姿とはまったくかけ離れたものになってしまうのです。ですから、私たちは、神様以外のものを偶像化しないように、いつも注意しなければなりません。「私たちの主は、天地を造られた神様、聖書を通して私たちに語りかけ、導いてくださる神様だけです」と告白し、そのことを常に確認していくことが大切なのです。
 
2 三人の信仰告白
 
 さて、奉献式に出席していた人々は、王の命令に従って金の像を拝みました。しかし、あるカルデヤ人たちが王のもとに進み出て、「ユダヤ人シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、金の像を拝んでいません」と訴えました。カルデヤ人とは、ダニエル書では、王に助言することの出来る国の知恵者、知識者たちを指す言葉です。ダニエルの同僚ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤは、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴというバビロニヤ風の名前を与えられ、重要な役職に着いていました。王の命令に従わなかった者は、この三人の他にもいたかもしれないのに、カルデヤ人たちは、特に、この三人を名指しして訴えました。もしかしたら、南ユダから捕虜として連れてこられた三人が破格の待遇を受けていることを妬んで、陥れるチャンスを待っていたのかもしれません。また、ちょうど王様に媚びへつらう良い機会だと思ったのかもしれません。
 ところで、この3章には、不思議にもダニエルは登場していませんね。その理由は書かれてないのでわかりませんが、考えられるのは、ダニエルは王の寵愛を受け、特に重要な地位に就いていたので、カルデヤ人たちもさすがにダニエルを訴えることをためらったのかもしれません。あるいは、ダニエルは何らかの理由でこの奉献式に出席していなかったのだろうと考える人もいます。
 王は、カルデヤ人たちの訴えを聞くと激怒して、三人を連れて来いと命じました。そして、こう言ったのです。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。あなたがたは私の神々に仕えず、また私が立てた金の像を拝みもしないというが、ほんとうか。もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」以前、王は、ダニエルの神こそ最高の神だと告白しましたね。ですから、相手がダニエルなら、少しは遠慮したかもしれません。しかし、この三人は、ダニエルの願いによって重要な役職に就いたので、王はこの三人のことをよく知らなかったか、忘れていたのかもしれません。また、2章でもそうでしたが、ネブカデネザルは、感情の起伏が激しく、激情にかられると我を忘れて無謀な命令を出してしまう王だったようです。三人は、大きな命の危機に直面しました。
 ところで、前回もお話ししたように、ダニエル書のテーマの一つは、「譲ってもいいことと、決して譲ってはならないことがある」ということです。この三人にとって、まことの神様以外のものを礼拝することは、決してできないことでした。そこで、王に向かってはっきりとこう宣言したのです。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(16節-18節)
 とても勇敢で立派な信仰の姿ですね。でも、私たちは、このような姿を見ると、すぐに自分と比べてしまいがちです。「私は、命の危険が迫っていたら、こんなに大胆に語ることはできない。きっと、金の像を拝んでしまうだろう」なんて思ってしまいますね。私も、自分はこの三人のようにはとてもできないなと思ってしまいます。模範があまりにも立派だと、参考にならないどころか、逆に自分のふがいない姿に落ち込んでしまったりしますよね。でも、だからといって、今日の箇所を読んで、「なんて立派な人たちでしょう。私は無理だけど」で終わらないでいただきたいのです。
 この三人は、どうしてこのような態度を取ることができたのでしょう。ただ闇雲に頑張って信仰を守ろうとしていたわけではないと思います。彼らは、多くの預言者たちが語った言葉をずっと心に留めていたのでしょう。たとえは、有名なイザヤ書43章1節ー2節にはこう記されています。「・・・あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。』」
 彼らは、バビロンでの生活の中で、このような預言者たちの言葉を思い起こしながら、いつも励まされていたことでしょう。「苦境の中でも『恐れるな』と語りかけてくださる主がおられるではないか。私たちはバビロニヤ風の名前に改名されてしまっているけれど、私の本来の名を親しく呼んでくださる主がおられるではないか。水の中を過ぎるときも火の中を歩むときも私たちを守ってくださる方がいるのだ」と。
 それとともに、彼らは、次のようなイザヤ書55章8節ー9節の言葉も覚えていたことでしょう。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──主の御告げ── 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」神様は、自分の願い通りのことをしてくださらないこともあるけれど、それは、自分の思いをはるかに越えた神様の御計画があるからだということを彼らは知っていました。また、もし今、火の燃える炉に投げ込まれて死んだとしても、主は永遠の救いを与えてくださる、と確信していたのです。ですから「王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、私たちは金の像を拝みません」とはっきり宣言することができたのです。火の中から助け出されても助け出されなくても、神様の永遠の救いに漏れることは決してない、神様が最善のことをしてくださる、という告白です。
 ところで、新改訳聖書第三版で「もしそうでなくても」と訳されている言葉は、口語訳では「たといそうでなくても」、新改訳二〇一七では「たとえそうでなくても」と訳されています。
 この「たとえそうでなくても」という言葉は、クリスチャン生活を送る上での大切なキーワードの一つです。今の日本では信仰のゆえに命の危険に迫られるというようなことはないかもしれません。しかし、譲ることのできないことについて、はっきりと表明する必要に迫られることはあるでしょう。その時、私たちは何を拠り所にするのでしょうか。自分の気負いや頑張りではありません。聖書を通して語られる主の言葉を拠り所にするのです。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」と語りかける主がいてくださるからこそ、「神様は私を助けてくださいます。しかし、たとえそうでなくても、私はこの点に関しては決して譲ることはできません」と言うことができるのです。
 パウロもローマ8章35節ー39節にこう記していますね。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・・・ 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
 それから、もう一つ覚えておいていただきたいことがあります。聖書の中には大きな試練や迫害を受けた人々の姿がたくさん記されているので、「もし私にこんな試練が襲ってきたらどうしよう」と心配してしまう方がいるかもしれませんね。でも、第一コリント10章13節にこう書かれています。「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」
 自分ではとうてい耐えられないような出来事を経験することがあるでしょう。その時は途方に暮れ涙を流し、まるで迷路に入ってしまったかのように思うかも知れません。しかし、人生を振り返った時、主は私を支えてくださった、脱出の道を用意されていたと、うなずくことのできる人生を形造ってくださると主は約束してくださっています。試練の中で神様の力や恵みをより深く味わい知ることができるとするなら、なんと大きな励ましでしょう。
 
3 燃える炉
 
 さて、三人の冷静な対応に対して、真逆の反応をしたのがネブカデネザル王でした。王は怒りに満ち、顔つきが変わり、「炉を普通より七倍熱くせよ」と命じました。炉があまりにも熱くなったので、三人を炉に投げ込もうとした者たちは火炎に焼き殺されてしまったほどです。その灼熱の炉に三人は、なわに縛られたまま投げ込まれました。すぐに焼き殺されるだろうと誰もが思っていました。
 ところが王は、驚くべき光景を見たのです。王は言いました。「私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」驚いた王が「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。いと高き神のしもべたち。すぐ出て来なさい」と言うと、三人は火の中から出て来ました。27節には、こう書かれています。「太守、長官、総督、王の顧問たちが集まり、この人たちを見たが、火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。」
とても信じられないようなことが起こったのですね。
 ところで、ネブカデネザル王は、炉の中に投げ込まれた三人の他に、もう一人の姿を見たと言っていますね。炉の中に急に現れたのですから、超自然的な存在としか思えず、「神々の子のようだ」と言うしかなかったのでしょう。この第四の人については、聖書には何の説明もないので、推測するしかありませんが、詩篇91篇11節に「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる」と書かれているので、神様が三人を守るために遣わしてくださった御使いだったのではないかと考えることもできますし、あるいは、この世に肉体を持って下って来られる以前の御子イエスであったかもしれないと考える人もいます。いずれにせよ、神様は、燃える炉の中でも三人とともにいて、何の害も受けないように守ってくださったわけですね。
 その同じ神様が、今、私たち一人一人とともにいて、見守り、支えてくださっているのです。それを思うと、大いに励まされますね。
 
4 王の反応
 
 さて、ネブカデネザル王は、この出来事に大きな衝撃を受けました。三人を「いと高き神のしもべたち」と呼び、「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた」(28節)と言って、神様をほめたたえたのです。
 ただ、ここでも王は極端な命令を出しました。「それゆえ、私は命令する。諸民、諸国、諸国語の者のうち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神を侮る者はだれでも、その手足は切り離され、その家をごみの山とさせる。このように救い出すことのできる神は、ほかにないからだ。」(29節)
 しかし、このように脅して無理矢理従わせようとするのは、神様の方法ではありません。神様は、私たちが心から喜んで、自ら進んで神様を愛し信頼することを願っておられるのです。イエス様も「信じなければ地獄に落とされるぞ」などと言って強制的に信じさせようとは決してなさいませんでしたね。 
 第一ヨハネ4章18節にこう書かれています。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」
 中世の時代にも、キリスト教に回心しないというだけで処刑されるということがありました。しかし、神様は恐怖で支配される方ではありません。「わたしはあなたを愛し、あなたの最善を願い、あなたが滅びずに永遠のいのちを持って生きることを願っている。だから、わたしを信頼し、わたしのもとに来なさい」といつも呼びかけてくださっているのです。そして、私たちがみもとに行くなら、いつでも喜んで迎え入れ、豊かな祝福を注いでくださいます。ですから、信仰を強制するべきではありませんし、強制させられて恐怖心から信じるのは、本来の信仰の姿とはまったくかけ離れているのですね。
 
 さて、今日の出来事は、現在に至るまで、多くの人々に勇気と励ましを与えてきました。私たちも、「私の仕える神様は、私を救い出すことができます。しかし、たとえそうでなくても、神様を信頼し、礼拝し続けていきます」と告白しつつ、歩んでいきましょう。