城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二四年四月一四日             関根弘興牧師
               ダニエル書八章一節〜一四節
 ダニエル書連続説教8
    「いつまでですか」
 
1 ベルシャツァル王の治世の第三年、初めに私に幻が現れて後、私、ダニエルにまた、一つの幻が現れた。2 私は一つの幻を見たが、見ていると、私がエラム州にあるシュシャンの城にいた。なお幻を見ていると、私はウライ川のほとりにいた。3 私が目を上げて見ると、なんと一頭の雄羊が川岸に立っていた。それには二本の角があって、この二本の角は長かったが、一つはほかの角よりも長かった。その長いほうは、あとに出て来たのであった。4 私はその雄羊が、西や、北や、南のほうへ突き進んでいるのを見た。どんな獣もそれに立ち向かうことができず、また、その手から救い出すことのできるものもいなかった。それは思いのままにふるまって、高ぶっていた。5 私が注意して見ていると、見よ、一頭の雄やぎが、地には触れずに、全土を飛び回って、西からやって来た。その雄やぎには、目と目の間に、著しく目だつ一本の角があった。6 この雄やぎは、川岸に立っているのを私が見たあの二本の角を持つ雄羊に向かって来て、勢い激しく、これに走り寄った。7 見ていると、これは雄羊に近づき、怒り狂って、この雄羊を打ち殺し、その二本の角をへし折ったが、雄羊には、これに立ち向かう力がなかった。雄やぎは雄羊を地に打ち倒し、踏みにじった。雄羊を雄やぎの手から救い出すものは、いなかった。8 この雄やぎは、非常に高ぶったが、その強くなったときに、あの大きな角が折れた。そしてその代わりに、天の四方に向かって、著しく目だつ四本の角が生え出た。9 そのうちの一本の角から、また一本の小さな角が芽を出して、南と、東と、麗しい国とに向かって、非常に大きくなっていった。10 それは大きくなって、天の軍勢に達し、星の軍勢のうちの幾つかを地に落として、これを踏みにじり、11 軍勢の長にまでのし上がった。それによって、常供のささげ物は取り上げられ、その聖所の基はくつがえされる。12 軍勢は渡され、常供のささげ物に代えてそむきの罪がささげられた。その角は真理を地に投げ捨て、ほしいままにふるまって、それを成し遂げた。13 私は、ひとりの聖なる者が語っているのを聞いた。すると、もうひとりの聖なる者が、その語っている者に言った。「常供のささげ物や、あの荒らす者のするそむきの罪、および、聖所と軍勢が踏みにじられるという幻は、いつまでのことだろう。」14 すると彼は答えて言った。「二千三百の夕と朝が過ぎるまで。そのとき聖所はその権利を取り戻す。」(新改訳聖書第三版)
 前回は、ダニエル書の7章を見ましたね。ダニエル書は、前半の1章から6章まではダニエルとその仲間たちに起こった様々な出来事、後半の7章からはダニエルが見た四つの夢や幻が年代順に記録されています。この夢や幻は難解な箇所が多く、ダニエル自身もすべてをよく理解できたわけではありません。でも、今私たちが理解すべきことは明確に書かれているので、「今は、よくわからないままでもいいこと」と「今、私たちが明確に理解すべきこと」を区別しながら学んでいきましょう。
 前回の7章には、バビロンの最後の王ベルシャツァルの治世の第一年にダニエルが見た幻が書かれていました。海の中から四頭の獰猛な獣が次々と出て来ました。まず、鷲の翼を持つ獅子のような獣、次ぎに、三本の肋骨をくわえた熊に似た獣、そして、四つの鳥の翼と四つの頭があるひょうのような獣、最後に獰猛で大きな鉄のきばと十本の角がある獣です。その十本の角の間から現れた小さな角は人間の目のような目と大口を語る口があり、聖徒たちを滅ぼし尽くし、時と法則を変えようとしたというのです。つまり、神様を信じる人々を迫害し、神様が定めた季節毎の祭りや律法の教えを廃棄しようとする恐ろしい支配者が現れるということですね。しかし、最終的には、神様がこの獣を燃える火に投げ込み、神様から主権を与えられた人の子のような方が天の雲に乗ってこられ、永遠に支配してくださるようになる、という幻をダニエルは見たのです。この世の支配者たちは、獣のように貪欲で身勝手で、周りを威圧して支配しようとします。自らが全能の神であるかのように振る舞い、自らを崇めさせようとします。しかし、そのような支配者たちは滅び、永遠の神の国では、人の子のような柔和な方が支配してくださるというのです。
 この箇所から、「人の子のような方」「天の雲に乗ってこられる方」という言葉は、救い主を意味するようになりました。そして、今、私たちは、この「人の子のような方」とはイエス・キリストのことだと知っています。このイエス様は、獣のように力と恐怖で強制的に支配するのではなく、私たちと同じ立場に立って私たちを深く理解し、ともに歩み、良い羊飼いとして、愛とまことと恵みによって導き、見守り、必要を満たしてくださる方です。この方の支配の中で、歩むことが出来るとは、素晴らしいことですね。この幻は、世の終わりにイエス様が支配する新しい御国が到来することを示していますが、それは、この世界の終末の時に実現することであると同時に、すでにイエス様によって私たちのただ中に御国が到来しているとも言えるのですね。
 さて、今日は、8章の幻を見ていきましょう。これは、7章の三年後、紀元前五五一年ごろにダニエルが見た幻です。
 
1 雄羊と雄やぎ
 
 幻の中で、ダニエルはエラム州にあるシュシャンの城にいました。このシュシャン(スサ)は堅固な要塞地として知られていました。後のペルシヤ帝国の時代には、冬の宮殿が建てられた場所でもあります。その宮殿の近くのウライ川のほとりでダニエルが見ていると、川岸に一頭の雄羊が立っていました。その雄羊は長さの違う二本角があり、西や北や南に突き進み、思いのままにふるまって、高ぶっていました。しかし、西から大きな一本の角がある雄やぎがやって来てきて、雄羊を打ち殺してしまったのです。この雄やぎは、非常に高ぶり、強くなりましたが、その大きな角が折れ、その代わりに、天の四方に向かって、四本の角が生え出てきました。そして、そのうちの一本の角から、また一本の小さな角が芽を出して、南と東と麗しい国とに向かって、非常に大きくなり、天の軍勢にまで達し、自分が神であるかのようにふるまい、神殿を踏みにじり、真理を地に投げ捨てたというのです。その時、ダニエルは幻の中で御使い二人が語り合っているのを聞きました。「神殿が踏みにじられる苦難の期間はいつまでだろう」「二千三百の夕と朝が過ぎるまで。そのとき聖所はその権利を取り戻す。」
 
2 ガブリエルの解き明かし
 
 ダニエルがこの幻の意味を悟りたいと願っていると、幻の中で、神様の命令を受けた御使いガブリエルがかたわらに来て、解き明かしを始めました。このガブリエルは、新約聖書では、マリヤに「あなたは聖霊によって神の御子を身ごもります」と告げましたね。御使いの中でもガブリエルは、神様からの大切な知らせを届ける特別な役割を果たしていたのかもしれません。
 
(1)「人の子」
 
 ガブリエルは、まず、17節で「悟れ。人の子よ。その幻は、終わりの時のことである」と語り始めました。この「人の子」というのは、前回の7章に出て来た「人の子のような方」とは意味が違います。ガブリエルがダニエルに「人の子よ」と呼びかけたのは、人間の弱さを強調する表現です。主の助けを得なければ理解できない弱い存在というわけですね。
 
(2)雄羊と雄やぎ
 
 前回の幻の中では四つの獣が登場しましたが、それが具体的にどの国を指すのかは説明されていませんでしたね。しかし、今回の幻の中では、ガブリエルはこう説明しました。「あなたが見た二本の角を持つ雄羊は、メディヤとペルシヤの王である。毛深い雄やぎはギリシヤの王であり、その額にある大きな角はその第一の王である。その角が折れて、代わりに四本の角が生えたが、それは、その国から四つの国が起こるということである。しかし、第一の王のような勢力はない。彼らの治世の終わりに、その背く者たちが行き着くところに至ったとき、横柄で策にたけた一人の王が立つ。彼の力は強くなるが、自分の力によるのではない。彼は、驚くべき破壊を行って成功し、有力者たちと聖なる民を滅ぼす。狡猾さによってその手で欺きを成し遂げ、心は高ぶり、平気で多くの人を滅ぼし、君の君に向かって立ち上がる。しかし、人の手によらずに彼は砕かれる。」
 ダニエルがこの幻を見たすぐ後、紀元前五五〇年に、メディヤ王国の支配下にあったペルシヤ人が反乱を起こしてメディヤ王国を滅ぼし、アケメネス朝ペルシヤを建国しました。メディヤ人はペルシヤ帝国に吸収され、重要な役割を担うようになりました。つまり、メディヤとペルシヤという二本の角を持つ雄羊はペルシヤ帝国を表しているわけですね。このペルシヤ帝国は、バビロニヤ帝国を滅ぼし、領土を拡大して強大な力を誇るようになりました。しかし、西から勢力を拡大してきたギリシヤ帝国に征服されて滅亡したのです。西から来た雄やぎとは、このギリシヤ帝国のことだというのですね。そして、大きな一本の角は、アレキサンダー大王を指していると考えられます。しかし、アレキサンダー大王は全盛期に突然亡くなってしまいました。紀元前三二三年のことです。その後、「四本の角が生え出てきた」とありますが、おそらく、ギリシヤ帝国が分裂した後のアンティゴノス朝マケドニヤ、セレコウス朝シリヤ、プトレマイオス朝エジプト、そして、小アジアを指すと思われます。そして、「そのうちの一本の角から、また一本の小さな角が芽を出して、南と、東と、麗しい国とに向かって、非常に大きくなっていった」とありますが、この小さな角とは、セレウコス朝シリヤの王アンティオコス・エピファネスを指していると考えられるのです。前回出て来た「人間のような目と大口を語る口を持つ小さな角」も、このエピファネスのことではないかと考えられているということをお話ししましたね。エピファネスは、非常に高慢で、東西に勢力を伸ばし、「麗しい国」であるエルサレムに対しても容赦なく振る舞いました。神様を信じる人々を迫害し、神殿の祭壇を破壊し、異教の神々の祭壇を持ち込み、モーセの律法に規定されている常供のささげ物や過越の祭などの祭儀をすべて禁じました。また、人々に律法で食べるのを禁じられている豚肉を食べるよう強要し、異教の神々を礼拝しなければ死刑に処したのです。
 この王について、ガブリエルは24節-25節こう説明していますね。「彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。彼は、あきれ果てるような破壊を行い、事をなして成功し、有力者たちと聖徒の民を滅ぼす。彼は悪巧みによって欺きをその手で成功させ、心は高ぶり、不意に多くの人を滅ぼし、君の君に向かって立ち上がる。しかし、人手によらずに、彼は砕かれる。」最後に「人手によらずに砕かれる」、つまり、神様はしばらくの間は彼の暴虐を黙認しておられるが、最終的に滅ぼしてしまわれる、というのです。
 
(3)終わりの時
 
 ガブリエルは、17節で、それが起こるのは「終わりの時」だと言いました。19節では、「終わりの憤りの時」「終わりの定めの時」という言い方もしています。この「終わりの時」とは、どういう意味があるのでしょうか。
 皆さんは、「終わり」と言う言葉をどのような時に使いますか。「もうすぐ家の新築工事が終わるんですよ」という場合は、「完了する」という意味になりますね。「長い入院生活がついに終わるんですよ」というと、「今までの生活が終わって新たな生活が始まるということになりますね。でも、「もう私の人生は終わりです」というときは、先の見えない絶望的な状態を表していますね。ですから、「終わりの時」というのは、単に「世の終わり」というだけでなく、様々な意味が含まれていることを知っておいてください。
 では、聖書の中では「終わりの時」とは、どのような意味で使われているでしょうか。
 
@苦難の終わり
 
 ダニエルや神様を信じる人々は、「終わりの時」という言葉を聞いて、苦難が終わる時という意味を強く感じたでしょう。迫害の苦しみが終わり、破壊された神殿が建て直されて礼拝が回復し、神様の支配の中で新しい生活を始めることができる時というイメージです。
 ダニエルは、今のバビロンの捕囚生活が終わってユダヤの人々がエルサレムに戻り、再建された神殿で神様を礼拝することができるようになることをずっと願っていたことでしょう。それは、次のペルシヤの時代に実現することになりますが、それとともに、今回見た幻の中では、将来、神様を信じる人々が迫害され、神殿が破壊されるけれど、最終的に迫害する者は神様のさばきによって滅ぼされるという約束が与えられました。ですから、ダニエルにとって、「終わりの時」とは、「今の時代」、そして、「遠い将来」の二重の意味で、苦難の終わりと新しい生活の始まりを意味していたことでしょう。
 
A律法の終わり
 
 もう一つは、律法を守ることによって救いを得ようとする時代が終わったという意味です。旧約聖書の「旧約」とは、神様との古い契約のことです。「神様の与えた律法を完全に守れば、神の民と認められる」という契約でした。しかし、人間が神様の律法を完全に守ることなど不可能です。つまり、「人は自分の力で救いを得ることは決してできない」ということを旧約聖書は教えているのです。だから、救い主が必要なのですね。そこで、神様は御自分の御子イエスを救い主として遣わし、「イエス・キリストを救い主として信じる者は誰でも救われる」という新しい契約を結んでくださいました。パウロは、ローマ10章4節で「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです」と書いています。それは、律法が不要なものになったという意味ではなくて、「キリストが私たちに代わって律法の要求をすべて満たされた」「キリストが律法の生き方を全うされた」、だから、そのキリストを信じる私たちも律法に合う正しい者と認められるということなのです。
 私たちがいくら自分の力で頑張って努力して善行を積んで神様に認めていただこうとしても出来ないという苦難の時代は終わり、キリストを信じる者は誰でも救われる、神様と隔てのない関係の中に歩むことができるという新しい時代が始まったのです。ですから、終わりの時とは、救い主イエスが来られてからの新約の時代を意味する言葉でもあるのです。
 
Bこの世の終わり
 
 この世界はいつかは終わります。私たちには三つの終末の中に生きていると考えることが出来ます。一つは、自分自身の終末です。私たちはかならず死を迎えますからね。もう一つは、自分と関わりのある人々の終末です。家族、友人、身の回りの人がいなくなっていきますね。そして、いつか来るであろうこの世界の終わりという意味での終末です。そのような終末がどのように訪れるのかということを、ダニエルの見た幻は教えくれていると思うのです。
 前回もお話ししましたが、聖書の預言や教えには、いくつかの意味が重複して含まれていることがよくあります。ダニエルのバビロン捕囚の時代やエピファネスの迫害の時代だけでなく、私たちも多かれ少なかれ、自分の終末やまわりの人々の終末の時に痛みや苦しみや悲しみを覚えることでしょう。また、この世界の終末にも様々な苦難があることを聖書は教えています。ですから、終わりの時に苦難があることを覚えておくことは大切なことです。しかし、聖書は、「終わりの時」は絶望の時ではなく、新しい希望と喜びが始まる時であると教えています。前回の7章では、「人の子のような方」、愛と恵みに満ちた救い主の支配する永遠の御国が建てられると約束されていましたね。また、今日の箇所を読んで、私は大変励まされたことがあります。神殿を破壊し踏みにじる者を神様が滅ぼしてくださると書かれていますが、新約聖書では、神殿は単なる建物ではありません。第一コリント3章16節-17節にこう書かれています。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」まさに、今日ダニエルの見た幻にあるとおりではありませんか。もし神様の神殿である私たちを破壊しようとするものがあれば、神様は黙ってはおられません。私たちを最後の最後まで守り支え、回復してくださるのです。
 
(4)苦難の期間
 
 さて、幻の中で御使いは苦難の続く期間は「二千三百の夕と朝が過ぎるまで」と語っていましたね。これが何を意味するのかはっきりわかりません。ユダヤの社会では夕方から新たな一日が始まりますから、二千三百日、つまり、七年に少し満たない長さとも考えられるし、夕と朝を別々に数えると半分の一千百五十日、つまり、三年と少しということになります。前回の7章25節の「ひと時とふた時と半時の間」を3年半と解釈すると、今回の8章の数字とほぼ符合しますね。いずれにせよ、完全数の七に満たない期間、あるいは半分の期間ということで、苦難はいつまでも続かないという意味だと考えることもできます。とにかく、はっきり言えるのは、苦難の期間には必ず終わりがあるということですね。
 
3 ガブリエルの命令
 
 さて、ガブリエルは最後に26節でダニエルにこう告げました。「あなたはこの幻を秘めておけ。これはまだ、多くの日の後のことだから。」終末に対する意識は、これが大切です。つまり、終末が来るのは確かだけれど、だからといって、終末はいつ来るのかといろいろ憶測したり、動揺したり、騒ぎ立てるのではなく、心にしまって、今の生活を大切に、落ち着いて生きていきなさい、というのです。
 27節でダニエルは「私はこの幻のことで、驚きすくんでいた。それを悟れなかったのである」と語っています。バビロンでもっともすぐれた知者として認められたダニエルにもよく理解できなかったのです。それで思い悩んだせいでしょうか、ダニエルは幾日か病気になってしまったようです。しかし、その後、「起きて王の事務をとった」と書かれています。「終わりの時」についてよくわからないことがたくさんあるまま、ダニエルは、いつもと同じ生活を続けていきました。私たちもそれでいいのです。
 イエス様もこう言われました。「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24章36節)「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」(マタイ25章13節)私たちは、終わりの時がいつ来るか知らなくていいのです。歴史の背後に働いてくださる神様を思い、お互いの人生を支えてくださる主を見上げ、歩んでいきましょう。