城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二四年四月二一日              関根弘興牧師
               ダニエル書九章二〇節〜二七節
 ダニエル書連続説教9
    「七十週の定め」
 
 20 私がまだ語り、祈り、自分の罪と自分の民イスラエルの罪を告白し、私の神の聖なる山のために、私の神、主の前に伏して願いをささげていたとき、21 すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、22 私に告げて言った。「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。23 あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」(新改訳聖書第三版)
 今日はダニエル書の9章に入ります。
 7章と8章でダニエルが見た幻の中には、獰猛な獣が次から次へと出て来ましたね。一つの獣が覇権を握って高慢になると、次に出て来た獣に殺されてしまう、そして、最後の獣には非常に高慢な角が生えてきて、聖徒たちを迫害し、エルサレムの神殿を踏みにじるという幻でした。つまり、これから獣のように横暴な国々が次々と興ってきて、終わりの時には神様を信じる人々が大きな苦難にあうということが示されたのです。しかし、その苦難には必ず終わりがあり、最終的には、神様が正しいさばきを行ってくださること、また、永遠の神の国が建てられ、神様のもとから来られた人の子のように柔和な方が王となって支配してくださるようになる、という約束も示されましたね。
 幻の中に現れた御使いは、ダニエルにこう言いました。「それは真実である。しかし、あなたはこの幻を秘めておけ。これはまだ、多くの日の後のことだから。」終わりの時は必ず来るということを心に留めながらも、それがいつなのかとむやみに詮索したり、浮き足だったりしないで、落ち着いて今の生活を大切に生きていきなさい、というのです。
 8章27節でダニエルは「私はこの幻のことで、驚きすくんでいた。それを悟れなかったのである」と記しています。優れた知恵と解き明かしの力を持つダニエルでさえ、幻の意味を十分に理解することができなかったのですね。そして、ダニエルは、この幻を見た後、幾日か寝込んでしまったようです。大きな衝撃を受け、意味が理解できずに思い悩んだのでしょう。しかし、「その後、起きて王の事務をとった」と書かれています。いつもと同じ生活に戻ったわけですね。
 私たちにも、わからないことがたくさんあります。でもそれでいいのです。終わりの日がいつ来るかわからない、でも、それが必ず来ることを覚えつつ、今、与えられている場所で与えられている役割を果たしながら、神様を信頼して歩んで行くことが大切なのですね。
 さて、今日の9章には、ダニエルが見た第三の幻が記されています。
 
1 エレミヤの預言
 
 まず、9章1節ー2節にこう書かれています。「メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、 すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。」
 以前読んだ5章31節には「メディヤ人ダリヨスが、バビロニヤ帝国の最後の王ベルシャツァルから王国を受け継いだ」と書かれていましたね。バビロニヤ帝国が滅び、ペルシヤ帝国が覇権を握ったのです。しかし、バビロニヤ帝国を滅ぼしたのは、ペルシヤ帝国のクロス王であることがわかっていますから、このダリヨスと記されているのはクロス王のことではないかと考えられています。いずれにしても、ダリヨスの治世の第一年というのは、紀元前五三八年で、前回の8章と今回の9章の間には十二年の時間の経過があったことになります。
 ダニエルたちに捕囚生活を強いてきたバビロニヤ帝国が滅亡し、ペルシヤ帝国の支配下に入ったわけですから、ダニエルたちは、これからどうなるのだろうと、期待と不安が入り交じったような複雑な思いで過ごしていたに違いありません。
 そんな時、ダニエルは、預言者エレミヤに与えられた主の言葉を読んだのです。エレミヤ書29章には、エルサレムにいるエレミヤがバビロンに連れて行かれた捕囚の民に送った手紙の内容が記されていますが、その中にこういう言葉があります。「まことに、主はこう仰せられる。『バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。・・・わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。』」このエレミヤの手紙は、バビロンで捕囚生活を送っていた人々が大切に保管していて、それをダニエルも読んだのではないかと思います。
 この「七十年」については、次のような解釈があります。
@エルサレムと神殿の崩壊[南ユダ王国滅亡:第三回バビロン捕囚](紀元前五八七年)からバビロン陥落(紀元前五三九年)までを指すという説。しかし、それだと四八年間になります。七十年を象徴的な数字として考えるわけですね。
A第一回バビロン捕囚(紀元前六〇五年)からバビロン陥落(紀元前五三九年)までを指すという説。これは後数年で七十年ですね。@とAの説の場合、バビロン陥落の時は、エルサレムはまだ荒廃したままですから、「荒廃が終わるまでの年数」という言葉に合いませんね。
Bエルサレムと神殿の崩壊[南ユダ王国滅亡:第三回バビロン捕囚](紀元前五八七年)からエルサレム神殿が再建された紀元前五一六年までを指すという説。これは、ちょうど七十年になります。
C詩篇90篇10節に「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年」とあるので、七十年という数字は人の寿命を示す概数で、世代が変わるほどの年数という意味だという説。
 
2 ダニエルの祈り
 
 とにかく、ダニエルは、エレミヤの言葉を読んで、主の約束が果たされるときは近いと感じたようです。しかし、ただ浮かれたわけではありません。3節にこう書かれています。「そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。」これは、悲しみと悔い改めの祈りの姿です。ダニエルは、神様の前に正しく誠実な人でした。しかし、自分の同胞が神様に背を向けて愚かなことを繰り返した結果、今の悲惨な状況がもたらされたことをよくわかっていました。人の愚かさや弱さを痛感していたのです。ですから、神様の前で自分たちの罪を告白し、何とかして神様に赦していただき、解放と回復の約束を実現していただきたいと願い求めたのでしょう。その祈りの中で、ダニエルは、神様がどのような方であるかを告白しています。
 
(1)契約の神
 ダニエルは、まず、4節で神様にこう呼びかけました。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。」
 私たちの神様は、私たちと契約を結んでくださる神様です。
 神様は、まず、イスラエルの民と契約を結ばれました。そして、出エジプト記19章5節でこう言われました。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。」するとイスラエルの民は「私たちは主が仰せられたことを、みな行います」と誓ったのです。神様とイスラエルの民の間に契約が結ばれたわけですね。神様が彼らをお選びになったのは、彼らが他のどの民よりも強く正しく立派だったからではありません。むしろ、彼らは繰り返し神様に逆らい、「うなじのこわい民」と呼ばれることが何度もありました。それなのに神様がまず彼らをお選びになったのは、神様がどれほど愛と恵みとあわれみに満ちた方であるか、また、神様の選びとはどのようなものなのかをすべての人々に示すための見本とするためであり、すべての人々に救いをもたらすためだったのです。イスラエルの民が何度神様に逆らっても、神様は、忍耐強く教え導き、時には叱責し、苦しみを通して学ばせながら、愛とあわれみとまことを示し続けてくださったのです。そして、人は自分の力では神様との契約を守り通すことができない弱い存在だということを教えた上で、神様は、御子イエスを救い主として遣わし、新しい契約を与えてくださいました。「救い主イエスが、私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださり、死んで葬られ、三日目によみがえられたということを信じ受け入れるなら、罪の赦しと永遠のいのちが与えられ、愛と恵みにみちた神様とともに永遠に生きることができる」という契約です。私たちは、今、この神様との新しい契約の中に生きているのです。
 神様と私たちとの契約は、対等の契約ではありません。神様は私たちのために救いのすべてを用意してくださいました。私たちが果たすべきことは、ただ約束を信じ、受け入れるだけです。それで永遠の救いの契約が結ばれるのですから、恵み以外のなにものでもありませんね。
 
(2)赦しと回復を与える神
 
 契約はお互いが信頼し合い、お互いに対して誠実であるときに有効になりますね。神様は、常に誠実な方です。しかし、人はどうでしょうか。旧約聖書の歴史を見てわかるように、不誠実で身勝手で、神様に逆らうことを繰り返してきました。ですから、ダニエルはこう告白しています。「私たちは罪を犯し、あなたにそむき、あなたに聞き従いませんでした。その結果、国は滅び、神殿は破壊され、エルサレムは廃墟になり、自分たちは敵国に囚われの身になってしまいました。それなのに、不義から立ち返り、あなたの真理をさとれるよう、お願いすることもしませんでした」と。
 しかし、ダニエルは、自分たちの礼拝する神様は、愛と赦しの神様であることも知っていました。ですから、9節で「あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです」と力強く告白したのです。そして、17節ー19節でこう願い求めました。「私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、主ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行いによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行ってください。私の神よ。あなたご自身のために遅らせないでください。あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです。」
 「私たちは正しい行いができません。でも、あなたの御名があがめられるために、主よ、エルサレムを回復し、神殿を建て直してください」とダニエルは祈り求めたのです。
 
3 祈りの答え
 
(1)祈りに答える神
 
 詩139篇4節に「ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます」とあります。私たちが祈る前から、神様は私たちの思いや願いをご存じだというのです。「それなら、祈らなくてもいいじゃないか」と思うかも知れませんね。それが大間違いなんです。なぜなら、私たちは、言葉に出すことによって、自分の思い、願いを整理し、自分が何を祈ったかを明確にできるからです。また、神様は、エレミヤ33章3節でこう言っておられます。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」
 ダニエルは、祈ることによって、理解を超えた大いなる事を知ることになったのです。
 
(2)七十週の定め
 
 祈っているダニエルに御使いガブリエルがやって来て、神様のみことばを伝えました。「あなたが願い祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。」
 この七十週というのは、一週間の七十倍の四百九十日という意味ではありません。ここで「週」と訳されているのは、私たちが考える一週間のことではなく、「七」という単位の言葉で、普通は「七年」という意味だと言われています。ですから、七十週とは、七年の七十倍、つまり、四百九十年ということになりますね。
 エレミヤの文書を読んだダニエルは、七十年が過ぎればエルサレムの荒廃が終わってすべての問題が解決すると思っていたのでしょうが、御使いはその七倍も長い四百九十年が必要だと言ったわけですね。ダニエルは驚いたことでしょう。
 この七倍や七十倍という表現は、イスラエルの人には馴染みのあるものでした。例えば、レビ記には、民が神様に背を向けて罪を犯し続けるなら、「七倍」重く懲らしめるとあります。また、マタイの福音書18章21節でペテロが「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」と尋ねると、イエス様は「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」と言われましたね。この場合、七の七十倍とは、四百九十回ということではなく、完全に赦しなさい、という意味ですね。
 ですから、こうした数字というのは、実際の数を表すこともあれば、比喩的に使われることもあるのです。今日の箇所の七十週も、実際に四百九十年という意味なのか、長い期間を比喩的に表しているのか、どちらにも解釈できるわけです。
 さて、ガブリエルは、七十週を、七週、六十二週、一週と三つの期間に分けて説明していますね。いろいろな解釈があるのですが、代表的な解釈を二つ紹介しましょう。
 
@エルサレム陥落からエピファネスの支配までという解釈
 
 まず「引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週」とありますね。この最初の七週は、エルサレム神殿がバビロニヤによって崩壊した紀元前五八七年から、ペルシヤのクロス王が神殿再建命令を出した五三八年までの四十九年間のことだと考えます。「エルサレムを再建せよ」という命令と「油そそがれた君主」クロス王が来る時が同じ年に起こったと解釈するのです。
 次の六十二週は「その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される」とありますが、エルサレムの神殿と町が再建され、街路や広場が建て直され、外壁も修復され、町としての機能が回復していく期間ということになります。
 しかし、この時期の終わりに、指導者が断たれ、破壊がやってくるというのです。最初の七週の終わりが紀元前五三八年なら、次の六十二週の終わりは紀元前一〇四年頃になりますが、この頃、パレスチナの地方でそれに該当するような歴史的な出来事は見当たりません。ですから、六十二週というのは、文字通り七年の六十二倍の四百三十四年間なのではなく、ペルシヤ帝国と次のギリシヤ帝国が支配した三百九十年間のことだろうと考えるのです。結構いい加減ですよね。
 そして、最後の一週には、町と聖所が破壊され、荒らす忌むべき者が猛威を振るうけれど、最後にこの荒らす者の上に定められた絶滅が下るというのですが、これは、アンティオコス・エピファネスが支配した紀元前一七一年から一六四年までの七年間だと考えるのです。彼は、最初の三年半はユダヤ人らと協力関係を保つという契約を結ぶのですが、後半の三年半は神殿を汚し、ユダヤの民を苦しめました。しかし、最後には神の裁きに服することになったのです。
 ただ、エピファネスの時代の後も罪と苦難の歴史は続いていますから、御使いが告げた「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらす」ということばに合いませんね。
 
Aペルシヤ王アルタシャスタのエルサレム再建命令から終わりの時までという解釈
 
 そこで、七十週の最後とは、世の終わりを意味しているという解釈をする人もいます。この解釈では、最初の七週の起点を、エズラやネヘミヤの時代にペルシャの王アルタシャスタがエルサレム再建命令を出した紀元前四五〇年頃とします。そして、七週と六十二週を合わせた六十九週の終わりの頃(紀元三〇〜三三年頃)がイエス様の公の活動の時期にあたると考えるのです。そして、その後、最後の一週が始まるまでの間に教会の時代とも呼ばれる長い中間時代があり、その後に最後の一週(七年間)を迎えるというのです。その最後の七年間に優れたリーダーが現れ、最初は友好的で協力関係を持とうとするのですが、後半の三年半は荒らす憎むべき者となって大きな患難をもたらします。しかし、遂に終わりの時が来るというわけです。しかし、教会の時代が七十週に含まれていないのか疑問ですね。
 
 もうおわかりでしょうが、このように数字に細かく意味を当てはめようとすると、無理が出てくるのですね。よくわからないことは、わからないでいいのです。では、今日の箇所から私たちが覚えておくべきことは何でしょうか。
 この七十週の定めについてのみことばが与えられたのは、ダニエルが自分たちの罪を告白し、神様に赦しと回復を祈り求めたときでした。最終的に聖徒たちを惑わし迫害する荒らす憎む者が滅ぼされるというのです。神様は私たちを苦難の中に放って置かれる方ではありません。ご自分の予定しておられる時に、ご自分の方法で、信じる一人一人を必ず救い出してくださいます。それが私たちがいつも覚えておくべき大切な指針なのです。私たちの信仰は細かな終末の計算によって導かれるものではありません。ダニエルが「あなたは、神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟れ」と告げられたように、私たちも、みことばを聖書全体から把握し、理解していく洞察力を与えていただきながら、将来の終わりの時を期待しつつ、主がいつも祈りを聞いて支えてくださることを感謝し、歩んでいきましょう。