城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二四年五月五日              関根弘興牧師
              ダニエル書一〇章一節〜一二節
 ダニエル書連続説教10
    「触れる手」
 
 1 ペルシヤの王クロスの第三年に、ベルテシャツァルと名づけられていたダニエルに、一つのことばが啓示された。そのことばは真実で、大きないくさのことであった。彼はそのことばを理解し、その幻を悟っていた。2 そのころ、私、ダニエルは、三週間の喪に服していた。3 満三週間、私は、ごちそうも食べず、肉もぶどう酒も口にせず、また身に油も塗らなかった。4 第一の月の二十四日に、私はティグリスという大きな川の岸にいた。5 私が目を上げて、見ると、そこに、ひとりの人がいて、亜麻布の衣を着、腰にはウファズの金の帯を締めていた。6 そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがき上げた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。7 この幻は、私、ダニエルひとりだけが見て、私といっしょにいた人々は、その幻を見なかったが、彼らは震え上がって逃げ隠れた。8 私は、ひとり残って、この大きな幻を見たが、私は、うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った。9 私はそのことばの声を聞いた。そのことばの声を聞いたとき、私は意識を失って、うつぶせに地に倒れた。10 ちょうどそのとき、一つの手が私に触れ、私のひざと手をゆさぶった。11 それから彼は私に言った。「神に愛されている人ダニエルよ。私が今から語ることばをよくわきまえよ。そこに立ち上がれ。私は今、あなたに遣わされたのだ。」彼が、このことばを私に語ったとき、私は震えながら立ち上がった。12 彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。」(新改訳聖書第三版)
 これまで読んできた7章、8章、9章には、ダニエルが見た三つの幻の内容が書かれていました。最初の7章の幻では、獰猛な四頭の獣が次々と海から上がってきましたね。そして、最後の獣から高慢な角が生え出てきて、聖徒たちを迫害し神殿を踏みにじりました。しかし、最後には神様のさばきが行われ、人の子のような柔和な方が天の雲に乗って来られて、その方に永遠の主権が与えられ、決して滅びることのない国が建てられるという幻でした。
 二番目の8章の幻では、長さの違う二本角を持つ雄羊が出て来ましたが、西からやって来た大きな一本の角を持つ雄やぎが雄羊を打ち殺してしまいました。雄やぎが非常に高慢になったとき、突然その角が折れて、代わりに四本の角が生えてきました。そして、そのうちの一本から小さな角が芽を出して非常に大きくなり、神殿を破壊し、聖所を踏みにじったのです。幻の中に出て来た御使いは、「その苦難の時は、二千三百の夕と朝が過ぎるまでだ」と語りました。つまり、必ず終わりの時が来て、神様による正しいさばきが行われるということですね。御使いは、ダニエルに「この幻は真実だけれど、あなたはこの幻を秘めておけ。これはまだ、多くの日の後のことだから」と告げました。いたずらに騒ぎ立てるのではなく、神様の最終的な救いを期待しながら、落ち着いた生活を続けていきなさいというのですね。ダニエルは、理解を超えた幻の内容に衝撃を受け、幾日か寝込んでしまいましたが、その後もバビロンで自分の職務を淡々と果たしていったのです。
 しかし、しばらくして、バビロニヤ帝国がペルシヤ帝国に滅ぼされるという大事件が起こりました。ダニエルは今度はペルシヤ帝国の王に仕えることになったのです。その第一年にダニエルは第三の幻を見ました。それが前回の9章に書かれていましたね。第二の幻を見てから十二年が経った頃です。ダニエルは、預言者エレミヤが書き記した文書を読んで、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを知りました。その時すでにエルサレムがバビロニヤに滅ぼされてから七十年近く経っていましたから、ダニエルは、エルサレムの町や神殿が建て直される時は近いと感じたようです。しかし、ただ浮かれたわけではありません。彼は、自分の同胞が神様に背を向けて愚かなことを繰り返した結果、今の悲惨な状況がもたらされたことを知っていました。ですから、同じようなことが起こらないように、神様の前で自分たちの罪を告白し、何とかして神様に赦していただき、解放と回復の約束を実現していただきたいと願い求めたのです。ダニエルが祈っていると、御使いがやって来て「あなたは、神に愛されている人だ。・・・あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている」と伝えました。この「七十週」の「週」とは一週間、つまり七日間のことではなく、七年を意味する言葉で、七十週は、七年の七十倍、つまり四百九十年という意味に取れる言葉です。ダニエルは、もうすぐエルサレムの荒廃が終わって、すべての問題が解決すると期待していたでしょう。しかし、御使いは、その七倍も長い四百九十年かかると言うのです。ダニエルは驚いたでしょうね。
 前回もお話ししましたが、聖書に出てくる数字は、実際の数を表すこともあれば、比喩的に使われることもあります。ですから、様々な解釈ができる箇所が多いのです。そういう箇所については、一つの解釈に断定するのではなく、全体として何を伝えようとしているのかを知ることが大切です。
 「七十週が定められている」と御使いが告げたのは、ダニエルが自分たちの罪を告白し、神様に赦しと回復を祈り求めたときでした。そのダニエルに、御使いが告げたのは、「あなたは神様に愛されているから大丈夫。神様はあなたの祈りを聞き、必ず答えてくださる」ということなのです。思ったよりも時間がかかるかも知れません。自分が生きている間には起こらないこともあるでしょう。しかし、神様は、最善の時に最善の方法で信じる一人一人にとって最善のことを成し遂げてくださるのです。それを信頼して生きていけばいいのですね。神様は、ダニエルに繰り返し幻を見せることによって、そのことを示してくださったのです。
 さて、9章から三年ほど経ったとき、ダニエルはまた幻を見ました。その内容が10章から最後の12章に記録されています。少し長いので、今回と次回の二回に分けて見ていくことにしましょう。今日は、10章です。
 
1 三週間の断食
 
 まず、10章1節にこう書かれていますね。「ペルシヤの王クロスの第三年に、ベルテシャツァルと名づけられていたダニエルに、一つのことばが啓示された。そのことばは真実で、大きないくさのことであった。彼はそのことばを理解し、その幻を悟っていた。」
 第二歴代誌の最後に書かれていましたが、ペルシヤの王クロスはその治世の第一年に王国中におふれを出しました。「バビロンに捕囚となっていたユダヤ人はエルサレムに帰って神殿を再建せよ」という命令です。その命令によって約五万人のユダヤ人がエルサレムに戻って行きました。しかし、ダニエルは、このときすでに九十歳近い年齢でした。エルサレムの回復を熱心に祈り求めていましたが、自分はペルシヤに残って最後の時を迎えようと考えていたようです。エルサレムに帰還したユダヤ人たちは、さっそく神殿再建に取り組みました。しかし、様々な妨害に遭い、なかなか工事が進まないまま三年近く経ってしまいました。そんなとき、10章1節にあるようにダニエルは大きないくさの幻を見たのです。その幻を見た経緯はどのようなものだったのでしょう。
 2節ー3節にこう書かれています。「そのころ、私、ダニエルは、三週間の喪に服していた。満三週間、私は、ごちそうも食べず、肉もぶどう酒も口にせず、また身に油も塗らなかった。」これを読んで、「あれ?」と思いませんか。以前、少年だったダニエルと仲間たちが王宮で仕えるための教育を受ける時、王の食べるごちそうやぶどう酒で身を汚さないようにするために、野菜と水だけを与えてもらうことにしたと1章に書かれていましたね。だから、その後も野菜と水しか口にしていなかったのだろうと勘違いしてしまいますが、そうではありません。ダニエルたちはモーセの律法で禁じられている汚れた食物や異教の神々にささげられた食物には手を付けませんでしたが、律法で認められているものは肉でも何でも飲み食いしていたわけです。
 しかし、今日の箇所では、ダニエルは三週間断食をして、嘆き悲しみながら祈っていました。具体的に何を祈っていたのかは書かれていませんが、神殿の再建がなかなか進んでいないことや、帰還した人たちを妨害してくる敵がいること、また、これまでに見た幻の中で示された「終わりの時」の苦難のことを考えながら、回復と主の助けを祈り求めていたのではないかと思います。老いてもなお苦悩があるわけですね。
 
2 亜麻布の衣を着た人
 
 その三週間の祈りを終えたダニエルがティグリス川の岸にいたとき、次のような幻を見ました。「私が目を上げて、見ると、そこに、ひとりの人がいて、亜麻布の衣を着、腰にはウファズの金の帯を締めていた。そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがき上げた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。この幻は、私、ダニエルひとりだけが見て、私といっしょにいた人々は、その幻を見なかったが、彼らは震え上がって逃げ隠れた。私は、ひとり残って、この大きな幻を見たが、私は、うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った。私はそのことばの声を聞いた。そのことばの声を聞いたとき、私は意識を失って、うつぶせに地に倒れた。」(10章5節ー9節)
 これと大変よく似た出来事がヨハネの黙示録1章12節-17節に記されています。「そこで私(ヨハネ)は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。」
 ダニエルもヨハネも、幻の中で栄光と力を帯びたキリストの象徴的な姿を見たのでしょう。そして、その圧倒的な主の威光の前に地に倒れてしまったのです。
 また、「この幻は、私、ダニエルひとりだけが見て、私といっしょにいた人々は、その幻を見なかったが、彼らは震え上がって逃げ隠れた」と書かれていますが、ここを読むと、新約聖書のパウロのことを思い起こしますね。彼は、クリスチャンを迫害するためにダマスコに向かう途中、突然天からのまばゆい光に打たれ、地に倒れてしまいました。そして、自分が迫害している主イエス様の語りかけを聞いたのです。その時、同行していた人々は、光を見、誰かの声が聞こえたけれど、その内容を聞き分けることができず、唖然として立ち尽くしていました。パウロだけがイエス様の言葉を聞いて理解することができたのです。パウロもイエス様の威光の前に地に倒れ、しかも、目が見えなくなってしまいました。また、今まで自分が犯した罪に気づいて意気消沈し、何も口にすることができなくなってしまったのです。
 完全に聖なる主の前に出たとき、人はただ圧倒され、倒れてしまうしかないのですね。
 
3 触れる手
 
 しかし、主は御手を差し伸ばし、励まし、力づけてくださる方です。ヨハネの黙示録では、主御自身が右手をヨハネの上に置いて「恐れるな」と語りかけてくださいました。
 パウロの場合は、主に遣わされたアナニヤという人がサウロの上に手を置くと、パウロは再び目が見えるようになり、聖霊に満たされ、主のために大きな働きをする者に変えられました。
 そして、ダニエルのもとには御使いが遣わされてきて、ダニエルに触れ、「神に愛されている人ダニエルよ」「立ち上がれ」と声をかけてくれたのです。また、御使いは「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれている」と言ってダニエルを励ましました。ダニエルは、主の圧倒的な威光に満ちた姿を見た衝撃で何も言えなくなってしまっていたのですが、御使いがさらにダニエルの唇に触れると、「私には主とお話しするような力はありません」と告白することができました。すると、御使いは、またダニエルに触れて、「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ」と力づけてくれました。今日の箇所で御使いは三度もダニエルに触れて励ましたわけですね。それによって力を取り戻したダニエルは「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから」と言いました。そこで、御使いは終わりの日についての幻を語り始めたのです。その幻が10章20節から12章まで続くのですが、内容は次回見ていくことにしましょう。今日は、その幻の中にも出てくる御使いたちについて少し整理してみたいと思います。
 
4 御使いについて
 
 今日の箇所には、ダニエルに現れた御使いの他に、10章13節ー14節や20節ー21節に「ペルシヤの君」「ギリシヤの君」「あなたがた(ユダヤ人)の君ミカエル」の呼ばれる御使いのことが記されていますが、聖書には、御使いが登場する場面がたくさんあります。御使いとは、どのような存在なのでしょうか。聖書にはっきりと説明されているわけではないので、わからないことも多いのですが、聖書全体から見てわかることがいくつかあります。
 
@御使いの姿
 御使いは、目に見えない存在ですが、人の姿をとって目に見える姿で現れることがあります。たとえば、創世記ではアブラハムのもとに旅人の姿で現れました。
 
A仕える霊
 ヘブル1章14節には「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか」とあります。また、詩篇91篇11節には「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる」と書かれています。つまり、御使いは、神様の命令に従って、人に神様のメッセージを伝えたり、人に仕えたり、人を助ける働きをする存在だということですね。
 
B礼拝の対象ではない
 御使いは神様の命令に従って奇跡的なわざを行うことがありますが、だからといって、私たちは御使いを礼拝しないように注意する必要があります。今日の16節ー19節でダニエルは御使いを「わが主」と呼んでいますが、これは、神様から遣わされた御使いに対する尊敬を表す言葉として使われているのです。パウロは、コロサイ2章18節で「御使い礼拝をする人々に惑わされないように」と警告しています。私たちが礼拝する対象は三位一体の神様だけです。私たちは、聖霊のみわざの中で、父なる神、御子イエス・キリストを礼拝する者とされているのです。
 さて、第二列王記6章にこんな話が出てきましたね。敵国のアラムの王が大軍を率いて預言者エリシャの家を包囲しました。それを見て慌てる召使いに対して、エリシャは落ち着いてこう言いました。「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」召使いは、エリシャが何を言っているのか理解できませんでした。彼の目にはアラムの大軍しか見えていなかったからです。すると、エリシャは「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください」と主に祈りました。すると、「主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」と書かれているのです。御使いの大軍勢がエリシャを守っていたのですね。
 私たちは、目で見えることだけがすべてだと思ってしまいがちです。目に見えることだけで判断して「もう駄目だ。絶望だ」と結論を出してしまうことがあるのですね。でも、目に見えなくても、神様は私たちを守ってくださっているのですね。それを知ることは大きな励ましです。
 では、今日の箇所に出てくる「ペルシヤの君」「ギリシヤの君」「あなたがたの君ミカエル」とは、何でしょうか。
 これを「それぞれの国に守護天使がいる」と解釈する人もいます。しかし、実際にそうなのか、それとも象徴的に語られていることなのか、はっきりわかりません。
 しかし、繰り返しお話ししているとおり、私たちは、よくわからないことを一つの解釈に断定するのではなく、全体として何を伝えようとしているのかを考えることが大切なのです。主の守りがいろいろな形であるのだということを知ると勇気づけられるではありませんか。
 
5 真理の書
 
 ダニエルが三週間の断食の祈りを終えたときに現れた御使いは、13節でこう語りました。「ペルシヤの君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。この御使いは、終わりの日に起こることを伝えるためにダニエルのもとに来ようとしたけれどペルシヤの君に妨害された、しかし、大天使ミカエルが助けに来てくれたので、ダニエルのもとに来ることができた、というのですが、どうしてペルシヤの君は妨害しようとしたのでしょうか。それは、単純明快です。ペルシヤ帝国はやがて滅亡するという、ペルシヤにとって都合の悪い知らせが広まることを何としても阻止したかったわけですね。その妨害を振り切ってやって来た御使いは、ダニエルに「終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来た」と語りました。
 また、この御使いは、20節ー21節でこう言いました。「私が、なぜあなたのところに来たかを知っているか。今は、ペルシヤの君と戦うために帰って行く。私が出かけると、見よ、ギリシヤの君がやって来る。しかし、真理の書に書かれていることを、あなたに知らせよう。あなたがたの君ミカエルのほかには、私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者はひとりもいない。」ここに出てくる「真理の書」というのは、7章からずっと幻の中で繰り返し示されているように「獣のような国々が次々と起こり、神様を信じる人々に苦難が襲うけれど、最終的には回復と救いが与えられる」という神様の御計画が記されている書と考えていいでしょう。ペルシヤの君の後、ギリシャの君がやって来る、しかも「私とともに彼らに立ち向かう者はミカエルしかいない」というのですから、これからまだまだ大きな苦難が続くということですね。そして、その戦いの様子と結末が11章-12章に記されているのです。ダニエルは、苦難がまだ続くことを知らされてショックだったかもしれません。しかし、同時に「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ」という励ましの言葉を聞いたのです。
 実は、これが信仰が与えられていることの大切な意味なのですね。信仰は、問題解決の魔法の道具ではありません。困難や、苦難があり、どこに助けがあるのだろうかと迷ってしまうことがあります。しかし、「あなたは神に愛されている。安心せよ。強くあれ」このメッセージに信頼して生きていくことが信仰の姿なのですね。