城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二四年五月一二日             関根弘興牧師
              ダニエル書一二章一節〜一三節
 ダニエル書連続説教11
    「休みに入れ」
 
 1 その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。2 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。3 思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。4 ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」5 私、ダニエルが見ていると、見よ、ふたりの人が立っていて、ひとりは川のこちら岸に、ほかのひとりは川の向こう岸にいた。6 それで私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人に言った。「この不思議なことは、いつになって終わるのですか。」7 すると私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人が語るのを聞いた。彼は、その右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方をさして誓って言った。「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する。」8 私はこれを聞いたが、悟ることができなかった。そこで、私は尋ねた。「わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう。」9 彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。10 多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行い、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。
11 常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。12 幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。13 あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」(新改訳聖書第三版)
 今日はダニエル書の最終回です。テレビドラマでは最終回が十分延長拡大版で放送されることがよくありますね。今日のダニエル書最終回も十分延長拡大スペシャル版でお届けします。
 前回の10章から今日の11章ー12章には、ダニエルが見た四つ目の最後の幻が記されています。
 ペルシヤ帝国がバビロニヤ帝国を滅ぼして覇権を握った第一年目に、ペルシヤ王はバビロンに捕らわれていたユダヤ人たちに対し、エルサレムの神殿を再建せよという命令を出しました。そこで多くのユダヤ人がエルサレムに帰って行ったのですが、神殿再建がなかなか進まないまま三年ほど経ってしまいました。そんな時、ダニエルは三週間の断食の祈りをしたのです。神殿の再建や故国に帰った同胞のために祈っていたのではないかと思います。その祈りを終えた時、ダニエルは、亜麻布の衣を着、金の帯を締めた方の幻を見ました。そのからだは緑柱石のようで、顔はいなずまのようであり、目は燃えるたいまつのよう、その声は群衆の声のようでした。これは、黙示録に記されているキリストの姿と似ています。ダニエルは、その威光に満ちた姿に圧倒されて地に倒れてしまいました。主の栄光の輝きの前では人はまったく無力なのだということなのでしょうね。しかし、神様に遣わされた御使いがダニエルに三度も触れて、「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ」と励ましたのです。それによって、ダニエルは立ち上がることができました。そして、12章まで続く幻を見たのです。どんな幻だったでしょうか。それは、様々な国が登場して戦いが繰り広げられ、聖徒たちにかつてなかったほどの苦難の時が来るけれど、最後には、全き休みの中に入ることができるという内容です。ですから、最後に見た幻も今までダニエルが見てきた三回の幻と同じような内容ですね。しかし、今回は、今までよりもさらに詳しい戦いの様子が記されているのです。
 
1 南と北の覇権争い
 
 まず、11章2節ー4節では、「これからペルシヤ帝国にはなお三人の王が起こるけれど、ギリシヤの王が大きな権力を持って治めるようになる。しかし、ギリシヤは四つに分裂してしまう」ということが書かれています。ペルシヤ帝国を滅ぼして覇権を握ったのはギリシヤのアレキサンダー大王です。しかし、彼は、紀元前三二三年、全盛期に突然亡くなってしまい、その後、ギリシヤ帝国は四つに分裂しました。アンティゴノス朝マケドニヤ、セレウコス朝シリヤ、プトレマイオス朝エジプト、そして、小アジアを指すと思われます。
 そして、11章5節からは、セレウコス朝シリヤの「北の王」とプトレマイオス朝エジプトの「南の王」の間で様々な画策と戦いが繰り広げられる様子が記されていると考えられるのです。
 まず、11章6節にこう書かれています。「何年かの後、彼らは同盟を結び、和睦をするために南の王の娘が北の王にとつぐが、彼女は勢力をとどめておくことができず、彼の力もとどまらない。この女と、彼女を連れて来た者、彼女を生んだ者、そのころ彼女を力づけた者は、死に渡される。」これは、エジプトのプトレマイオス二世の娘ベルニケがシリヤの王アンティオコス二世に嫁いだことを指すと考えられます。この結婚のためにアンティオコス二世の前の妻ラオディケは離縁されてしまいました。しかし、後にラオディケは、エジプトから嫁いできたベルニケとその子に復讐を企て、殺害してしまったのです。
 すると、殺されたベルニケの弟であるエジプトのプトレマイオス三世がシリヤに攻め入り、寺院を略奪しました。11章8節に「彼は彼らの神々や彼らの鋳た像、および金銀の尊い器を分捕り品としてエジプトに運び去る」と書かれている通りです。その後も、やられたらやり返すということで、北と南の争いが繰り返されました。
 そして、11章21節に登場する「ひとりの卑劣な者」というのがこれまで何度も名前が出てきたアンティオコス・エピファネス(アンティオコス四世)だと考えられるのです。彼は、エジプト軍を撃破してパレスティナの支配権も握り、さあエジプト本国に攻め込もうとしたところ、「キティムの船隊」と呼ばれるローマ軍の介入により追い返されてしました。11章30節に「キティムの船が彼に立ち向かって来るので、彼は落胆して引き返し」とあるとおりのことが起こったのです。彼は、エジプトからの帰還途中、ユダヤ人の反乱軍を武力で制圧しました。そして、反乱の芽を摘むにはユダヤ人の宗教を破壊してしまうことだと考え、徹底的な弾圧を行ったのです。その様子が31節後半から34節に書かれています。31節には「彼の軍隊は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据える」とあります。一切の礼拝を禁じ、神殿に忌むべきものを安置し、汚したのです。そして、信仰を捨てない人々にはすさまじい苦難と困難が待ち受けていました。33節に「彼らは、長い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる」と書かれています。この時期にシリヤ軍に対して反乱を起こしたのがユダス・マッカバイオスです。このマッカバイオス側につく人もいれば、シリヤにおもねる人もいるという混乱した状態が続いたのですね。このエピファネスの時代の様子が11章の最後まで記されていると考える人もいますし、11章36節以降は終末に現れる反キリストについての預言だと考えるひともいます。
 いずれにせよ、神を神とも思わない支配者によって様々な戦いや患難や混乱がもたらされるというのはエピファネスの時代だけではありません。その後のローマ帝国の時代にもすさまじい苦難と迫害が起こりました。また、この世の終わりの時にも高慢な指導者が現れて大きな苦難をもたらすことになるでしょう。12章1節には終末の時に「国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る」と書かれていますね。
 
2 希望の約束
 
 しかし、ダニエルの見た幻は、苦難で終わってはいません。11章の最後には「しかし、ついに彼の終わりが来て、彼を助ける者はひとりもない」と書かれています。どんな暴君にも終わりが来るのです。大軍を率いて力を誇示した高慢なエピファネスも、ローマ皇帝も、これまで現れたどんな支配者も、これから現れると預言されている高慢な指導者も、神様の御前では無力なのです。
 そして、12章1節ー3節には、終わりの時の約束がこう記されています。「その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」
 
(1)永遠のいのち
 
 「あの書にしるされている者」の「あの書」は、聖書の他の箇所では「いのちの書」と呼ばれています。いのちの書に名が記されている者は、死んでもよみがえり、神様の永遠のいのちの中に生きることができるというのです。私たちは、新約聖書を通してイエス様が実際によみがえったことを知っていますね。しかし、ダニエルにはそれを知るよしがありません。この時、ダニエルは九十歳前後でした。自分の終末が近いことがわかっていました。しかし、この終わりの時の幻を通して、死で終わらない永遠のいのちの約束が示されたのです。
 
(2)最終的なさばき
 
 その一方「そしりと永遠の忌み」に定められる人々もいると書かれています。横暴で高慢な者たちに対して神様の正しいさばきがあるということですね。
 
(3)大空の輝き、星のように
 
 また、「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる」とあります。 この「思慮深い人」とは、「与えられた信仰について深く正しい洞察力を持っている人」という意味です。私たちは信仰について語るとき「強い」「弱い」とか「深い」「浅い」という言い方をしてしまうことがありますね。見かけの感情的な熱心さや奉仕の量で評価してしまうことがあるのです。しかし、信仰において最も大切なのは、思慮深さです。信仰が与えられていることからもたらされる適切な判断や考え方や配慮なのです。パウロは、第二テモテ1章7節で牧会者としてのテモテに「神が私たちに与えてくださったものは・・・力と愛と慎みとの霊です」と書き送りました。言葉についての論争ばかりしている人、間違った熱心さに捕らわれている人、外側だけ信仰深そうに見せかけている人などがいる中で、主が望んでおられる本来の信仰の姿とは何かを判断していく心が大切だということですね。
 また、「多くの者を義とする者」とありますが、これは、私たちが裁判官のように人々を裁くと言うことではありません。「義」には「正しい」という意味がありますが、それだけではありません。「神様との正しい関係」を示すことばでもあるのです。神様を信頼し、神様に従い、神様の愛と恵みを受け取っていくのが人として「義」なる状態なのです。しかし、人は、自分がまるで神のように振る舞い、神など必要ないと無視してしまうことがあります。それは義なる姿ではありません。不義なる姿です。「多くの者を義とする」というのは、まず、自分が神様との正しい関係を持ち、自分の生き方を通して神様と義の関係を結ぶことの大切さを示していくということなのです。ダニエルたちは異教の地で譲歩できることは譲歩しましたが、神様との関係については決して譲ることをしませんでした。燃える炉やライオンの穴に投げ込まれてもです。そして、「神様は助けてくださいます。しかし、たとえそうでなくても、神様との関係を放棄するようなことはしません」と宣言したのです。それが結果として、王たちや人々の心を神様に向けることになりました。ですから、「多くの者を義とする」というのは、自分が気負って何かをすることよりも、むしろ、こうして礼拝をささげ、神様との正しい関係を大切にしていくときに、まわりの人々に神様の愛と真実が伝わっていくということなのですね。
 そして、「思慮深い人々」「多くの者を義とした者」は、大空の輝きのように輝き、星のようになると書かれています。ダニエル書を読み終えようとしている今、ダニエルの姿に大空の輝き、星の輝きを感じとることができるように思いますね。
 
3 苦難と忍耐
 
 さて、将来に起こる出来事を聞いたダニエルは、12章5節で、この幻が始まった時と同じように川のほとりにいました。川のこちら岸と向こう岸に御使いが一人ずついて、川の水の上には幻の最初に現れた亜麻布の衣を着た人が立っていました。ダニエルはその人に「この不思議なことは、いつになって終わるのですか」と尋ねました。すると、「ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する」という答えが返ってきたのです。ダニエルがさらに「わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう」と尋ねました。すると主はこう言われたのです。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行い、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」(12章9章-13節)
 
(1)苦難が終わるとき
 
 ここで、苦難の終わるのは「ひと時とふた時と半時である」、また、「常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は」と言われていますね。
 これらの数字が何を意味しているのか様々な解釈があります。 まず「ひと時とふた時と半時」という表現は7章25節にも出て来ましたね。その時もお話ししましたが、「三年半のことだ」とか「完全数七の半分だから不完全で永遠には続かない限られた期間を示しているのだ」という解釈があります。
 「千二百九十日」はどうでしょうか。これは一ヶ月を三十日として計算すると四十三ヶ月、つまり、三年半に一ヶ月を付け加えた長さということになりますね。これを「世の終わりの苦難は三年半だけど、汚された神殿をきよめるための期間が一ヶ月追加されているのだ」と解釈する人がいます。また、「この余分の一ヶ月は、三年に一度のうるう月が追加されているのだ」と解釈する人もいます。 
 それから、「忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は」とありますが、千二百九十日より四十五日長いですね。これを「世の終わりから四十五日後に新しい世界が到来するという意味だ」と解釈する人もいますし、これは「定められた日数よりさらに少しの忍耐が必要だということを教えているのだ」と解釈する人もいます。「自分の予想より困難が長引いても、信仰を捨ててしまうのではなく、忍耐を持って歩んで行きなさい」という意味だというのですね。
 
(2)秘められ、封じられている
 
 そして、主は「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで秘められ、封じられているからだ」と言われました。12章4節では御使いが「ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう」と言いました。多くの人はダニエルが見た幻の意味を探ろうといろいな解釈を考えます。しかし、何度も繰り返しますが、私たちにとって大切なのは、一つの解釈に断定するのではなく、この幻全体が語っているメッセージをしっかり心に刻むことです。それは、最終的に神様が正しいさばきをして高慢な人間の企てを虚しくし、正義の支配を打ち立ててくださること、そして、神様は信頼する者を決して見捨てることはなさらないから、終わりの時がいつ来るのかはよくわからなくても、その時まで希望を持って忍耐強く歩んで行きなさいということなのですね。私たちは、いたずらに騒ぎ立てるのではなく落ち着いた生活をしていくことが大切なのです。
 
(3)練られた品性
 
 また、「多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる」とありますね。苦しみや悲しみを通して私たちはこころが洗われ、練られていくというのです。詩篇119篇71節には「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」とあります。また、パウロはローマ5章2節-5節でこう書いています。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」苦難にも意味があり、希望は失望に終わることがない、というのが聖書の約束なのです。
 
(4)休みに入れ
 
 主は、最後にダニエルに言われました。「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」これがダニエル書を締めくくる言葉です。
 「ダニエルよ。自分に与えられた生涯を誠実に終わりまで歩み続けよ。そして、休みに入れ」と主は言われたのです。与えられた寿命はそれぞれ違います。しかし、何があっても終わりまで歩むことは、それ自体が私たちの大切な務めなのです。何が出来ても出来なくても、主にあって生かされているこの人生を終わりまで歩むのです。決して放棄してはいけません。諦めてはいけません。私たちに待っているのは、安息なのですから。そして、主は「あなたの割り当ての地に立つ」と約束しておられます。一人一人に天の永遠の住まいが用意されているのですね。第一ペテロ1章5節に「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです」と書かれているとおりです。
 
 ダニエル書を読み終えて、私はイエス様の語られた言葉を思い起こしました。ヨハネ16章33節の「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」という言葉です。
 ダニエルは、異境の地で様々な困難や葛藤を経験しました。幻を示されても、時には理解できずに苦しみました。しかし、神様は「この世にあっては患難がある。しかし、あなたは終わりまで歩め。わたしはすべての勝利者なのだから」と語りかけてくださったのですね。
 主は、終わりの時代に生きる私たち一人一人にも同じように語りかけてくださっているのです。「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ」と。与えられた人生を終わりまで主とともに歩み続けていきましょう。