城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二四年五月二六日             関根弘興牧師
        エゼキエル書一章一節〜五節、二六節〜二八節
  エゼキエル書1
     「転機」
 
1 第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。2 それはエホヤキン王が捕囚となって連れて行かれてから五年目であった。その月の五日に、3 カルデヤ人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルにはっきりと主のことばがあり、主の御手が彼の上にあった。4 私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった。5 その中に何か四つの生きもののようなものが現れ、その姿はこうであった。彼らは何か人間のような姿をしていた。・・・ 26 彼らの頭の上、大空のはるか上のほうには、サファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。 27 私が見ると、その腰と見える所から上のほうは、その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見えた。その腰と見える所から下のほうに、私は火のようなものを見た。その方の回りには輝きがあった。28 その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。(新改訳聖書第三版)
 
 前回でダニエル書を読み終わりましたが、今日からは、ダニエルと同じ時代にバビロンで預言活動をしたエゼキエルの記録を数回に分けて見ていくことにしましょう。
 
1 エゼキエルの時代
 
 まず、旧約聖書の流れを振り返ってみましょう。
 神様は、罪と死の力に支配されているすべての人を救うために壮大な救いの御計画を立ててくださいました。そして、まずアブラハムとその子孫であるイスラエルの民を選び、神様に聞き従うことの大切さと素晴らしさを教えようとなさいました。イスラエルの民は、エジプトで奴隷状態になってしまいましたが、神様に遣わされたモーセに導かれてエジプトを脱出し、四十年間の荒野の旅の後に約束の地に入り、混沌とした時代を経てイスラエル王国を築き、ダビデ、ソロモンの時代に全盛期を迎えました。しかし、その後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいます。このイスラエルの歴史を見ると、人間はどんなに神様の恵みや祝福を経験しても神様に逆らってしまう弱い存在だということ、また、自分の力では神様に従い続けることができない罪の状態にあるということがわかるのです。
 北イスラエルは最初から神様に背を向けていたために、紀元前七二二年にアッシリヤ帝国に滅ぼされてしまいました。一方、南ユダは、北イスラエル滅亡後も百年以上存続しました。悪を行う王もいましたが、信仰を回復しようとする王もたびたび登場したからです。しかし、南ユダも末期には神様に逆らって悪を行い続けたので、バビロニヤ帝国に攻撃され、支配されるようになってしまいました。バビロニヤ帝国は、最初は、南ユダがバビロニヤに従う限りは存続を認めていましたが、南ユダの王が反旗を翻すと、南ユダを襲って神殿や王宮の財宝を奪い、優秀で利用価値の高いと思われる人々をごっそりバビロンに連れて行ってしまいました。これを「バビロン捕囚」と言います。バビロン捕囚は三回行われました。一回目は紀元前六〇五年で、エホヤキム王やダニエルたちがバビロンに連れて行かれました。二回目は紀元前五九七年で、エホヤキン王や多くの有力者や技術者が連れて行かれましたが、エゼキエルもこのとき連れて行かれたのです。そして、それから約十年後の紀元前五八六年には、ゼデキヤ王がバビロンに反逆したため、バビロニヤ軍はエルサレムの神殿も王宮も町も城壁もすべて焼き尽くして南ユダ王国を滅ぼし、多くの民をバビロンに連れて行ってしまったのです。これが三回目の捕囚です。
 さて、エゼキエルは祭司の家系の生まれなので本来ならエルサレム神殿の祭司となるはずでしたが、その道が閉ざされ、バビロンの地で預言者として活動することになりました。そのきっかけとなった出来事が今日の箇所に記されています。
 
2 第三十年
 
 まず1節に、エゼキエルは第三十年の第四の月の五日に神々しい幻を見たと書かれていますね。この「第三十年」には、いくつかの解釈があります。一つは、南ユダの十六代目のヨシヤ王の時代に律法の書(モーセの五書)が発見されて大きな宗教改革が行なわれましたが、その時から三十年目という解釈です。しかし、何の説明もなくただ第三十年とあるので、エゼキエルが三十歳になった時というふうにも解釈できるのです。エゼキエルは祭司でした。民数記4章に「祭司としての務めができるのは、三十歳以上五十歳までの者」と書かれているとおり、一人前の祭司として認められるのは三十歳になってからです。ちなみに、イエス様も三十歳になってから公の働きを開始なさいました。ルカ3章23節に「教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳であった」と書かれています。当時のユダヤの社会では、三十歳に満たない青二才の言葉など説得力に欠けていたわけです。ですから、神様は、三十歳になったエゼキエルを祭司になる代わりに預言者として任命しようとなさったのかもしれませんね。
 また、2節に「それはエホヤキン王が捕囚となって連れて行かれてから五年目であった」とありますね。つまり、エゼキエルがバビロンに連れて行かれてから五年目ということです。おそらく、エゼキエルは二十代でバビロンに行ったのでしょう。将来は祭司として神殿で神様に仕えるはずだったのに、エルサレムの神殿から遠く離れたバビロンで捕囚生活をし、祭司の働きとはまったく異なる労働を強いられていたのです。しかも、信頼するエレミヤの預言によると、もうすぐエルサレムの神殿は廃墟となってしまうというのです。神様のために働くぞと思っていた志も将来の希望もすべて打ち砕かれて、エゼキエルは失意の五年間を過ごしていたのではないでしょうか。
 
3 ケバル川のほとり
 
 詩篇137篇には、こう歌われています。「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。それは、私たちを捕らえ移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、『シオンの歌を一つ歌え』と言ったからだ。私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。」捕囚となった人々は、ある程度の自由と集団生活できる居住地が与えられていました。しかし、涙の渇くことはなかったようですね。彼らは定期的に川のほとりに集まり、そこを祈りの場所としていたようです。その祈りの場所でエゼキエルは人生が一変する経験をしました。神々しい幻が示され、神様の言葉を大胆に伝える預言者としての使命が与えられたのです。ここから、彼の新しい生涯が始まりました。
 私たちがエゼキエル書から最初に受け取ることのできるメッセージは、「あなたの考えている未来像が崩されたとしても、その同じ場所で主は新しい未来を供え、与えてくださる」ということです。
 エゼキエルだけでなく、聖書には、失意や無力感を味わった後に新しい出発をした人が何人も登場します。
 例えば、モーセは、エジプトの王宮で生活していましたが、一番脂ののった四十歳の時、同胞のイスラエル人が奴隷として虐待されているのを見て助けようとしましたが失敗して逃亡し、その後四十年間、荒野で失意の生活を送っていました。自分の人生はこの荒野で終わると思っていたでしょう。しかし、八十歳になった時、主がその荒野でモーセに現れ、新しい使命をお与えになったのです。それは、イスラエルの民をエジプトから脱出させ、約束の地に導くという壮大な使命でした。
 また、エゼキエルより百年以上前に活躍した預言者イザヤは、尊敬し頼りにしていたウジヤ王が死んでしまい、これからどうなるのか大きな不安を感じていたときに、栄光に満ちた主の姿を見、預言者としての使命を与えられたのです。
 それから、イエス様の弟子たちはどうだったでしょうか。彼らは、イエス様が王となってイスラエルの国を再興してくださると期待していました。しかし、頼りにしていたイエス様が十字架にかかって死んでしまったのです。彼らは恐れ惑い、閉め切った部屋の中で意気消沈していました。希望を失い、これからどうなるのか不安でいっぱいだったでしょう。しかし、そんな彼らの前に復活したイエス様が現れ、全世界に出て行って福音を伝えるという新しい使命を与えてくださったのです。
 私たちも、自分が期待していた未来がやってこないことに失望したり、意気消沈してしまうことがあるものです。
 私は、二十六歳で牧師になり、この教会の開拓を始めました。自分では、すぐにも人が集まり、すべてが順調に進んでいく未来を思い描いていたのです。しかし、一年が経ち、二年、三年と経過しても何も起こりませんでした。「牧師として召されたと思ったのは自分の勘違いではなかったか」と思い始めました。就職情報誌を買って転職先を探したりもしました。しかし、三年目が終わろうとする頃、エレミヤ書の言葉が心にとまったのです。そこには「わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される」と書かれていました。また「彼らの中から、感謝と、喜び笑う声がわき出る」ともありました。もちろん、それは、バビロンで捕囚生活をしていた人々に対する解放の預言です。しかし、神様は、落ち込んでいた私を建て直すために、この言葉を示してくださったのです。それは、私にとって新しい出発の転機となりました。
 失意の期間は人それぞれです。エゼキエルは五年、モーセは四十年、弟子たちは、十字架から復活までの三日間、私は三年間でした。どのくらい待つ必要があるのかは、人それぞれ違います。でも、主は、その人に最もよくわかる方法を用いて、新しい未来を備えてくださるのです。
 
4 主がともにおられる
 
 では、エゼキエルはどんな幻を見たのでしょうか。とても不思議な幻です。言葉では到底語り尽くせないような光景です。それをエゼキエルは可能な限りの言葉で書き留めようとしました。彼は、このように書いています。「激しい風とともに大きな雲と火がぐるぐるとひらめき渡りながら来て、その中から人間のような姿をした四つの生きものが現れた。彼らはおのおの人間、獅子、牛、鷲の四つの顔を持ち、四つの翼を持ち、翼の下から人間の手が四方に出ていてる。二つの翼は互いに連なり、他の二つの翼は体を覆っている。彼らは燃える炭やたいまつのように見え、いなずまのひらめきのように走って行き来しており、四つの輪が彼らの動きに合わせて動いている。彼らの頭の上には澄んだ水晶のように輝く大空のようなものがあり、そのはるか上にはサファイヤのような王座に似たものがあり、そのまたはるか上には人間の姿に似たものがあった。」そして、エゼキエルは、その人間の姿に似たものについて27節ー28節でこう書いています。「私が見ると、その腰と見える所から上のほうは、その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見えた。その腰と見える所から下のほうに、私は火のようなものを見た。その方の回りには輝きがあった。その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。」
 これを読んでも、私たちには何のことやらさっぱりわかりませんね。写真や絵があればよかったのにと思いますね。でも、写真や絵を見たとしても、私たちに意味がわかるでしょうか。
 今、私は、カポタストを持っています。これはギターに付けて音程を調整する道具です。ギターを弾く人なら見ればすぐにわかります。しかし、ギターを弾かない人には何だかわかりません。まして、これを言葉で説明しようとするとさらにわからないと思います。「金色で、手のひらサイズで、角のようなものが出ていて、細長いくちばしのようなものが上下に動くんです」と言っても、奇妙キテレツな物としか思えませんね。
 実は、幻もそれと似ているところがあるんです。言葉で表現するには限界があり、経験のない人には何の意味なのかさっぱりわからないけれど、経験がある人にはわかるのですね。
 エゼキエルには、この幻の意味がすぐにわかりました。それは、エゼキエルの生きてきた背景が私たちと全く違うからなのです。エゼキエルは祭司として教育を受け、神殿の中のことをよく知っていました。ですから、幻の中の四つの生きものを見てすぐに、神殿の中にあるケルビム(有翼天使)を思い起こしたのです。エゼキエルは10章でも同じ幻を見て、10章15節でこう記しています。「そのとき、ケルビムが飛び立ったが、それは、私がかつてケバル川のほとりで見た生きものであった。」
 ケルビムは、ケルブの複数形です。モーセの時代に荒野の旅の途中、移動式の神殿である幕屋が作られましたが、その幕にはケルビムが織り出されていました。また、幕屋の一番奥に置かれた契約の箱の蓋には、向かい合って翼で蓋をおおう一対のケルビムの像が付けられていました。それらはすべて神様の命令に従って作られたのです。そして、神様はモーセに「わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう」(出エジプト25章22節)と約束してくださいました。
 その後、イスラエル人がカナンの地に定住すると、ソロモン王がエルサレムに神殿を建てましたが、この神殿も神様に示されたとおりに造られたものです。神殿の契約の箱の両脇には高さ約四メートル半の二つのケルビムの像が安置され、神殿の壁やとびらにはケルビムの彫刻が施され、垂れ幕にもケルビムの模様が縫い付けられていました。
 このような背景から、旧約聖書の中には、神様に向かって「ケルビムに座しておられる主」「ケルビムの上の御座に着いておられる主」と呼びかける場面が何度も出て来ます。つまり、ケルビムは、神様の臨在を象徴する生きものだったわけです。
 エゼキエルは、この幻を見て大きな衝撃を受けたことでしょう。エルサレムの神殿の中にあるはずのケルビムとその上に座しておられる主の栄光を、遠く離れたバビロンの地で見たからです。当時、多くの人は「エルサレムから離れることは神様から離れることだ」と考えていました。また、捕囚を免れてエルサレムに留まっている人の中には「彼らがバビロンに連れて行かれたのは神様に従わなかったからだ」と考えて批判的な目を向ける人もいたでしょう。エゼキエル自身もエルサレムの神殿にこそ神様の臨在が現れると信じ、自分が神様から遠く離れた場所にいると感じていたのではないかと思います。しかし、何の望みもないように思われたこのバビロンの地で、彼は圧倒的な神様の臨在を示す幻を見たのです。
 エゼキエルは祭司としての教育を受けていましたから、神様がどのようなお方かということについて他の人たちよりも多くの知識があったはずです。エレミヤ23章24節には「人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。──主の御告げ──天にも地にも、わたしは満ちているではないか」、また、詩篇139篇7節-8節には「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます」とあります。主はどこにでもおられる、と聖書は教えているのです。そのことを神学用語では「神の遍在」と言います。
 しかし、「主はどこにでもおられる」と知識としてわかってはいても、そのことがまったく実感できない時が人生には時々襲ってくるのですね。エゼキエルもそうだったのかもしれません。ここには主はおられないと感じていたかもしれません。しかし、神様は、バビロン生活の五年目にエゼキエルだからこそわかる幻を見せてくださったのです。
 つまり、神様は、御自分が私たちともにおられることを、私たちそれぞれに、その人だからこそわかる方法で示してくださるのです。時には、日常の些細な出来事の中で「主がいてくださる」と気づかされることがあるでしょう。また、いつも聞き流していた聖書の言葉が、急に心に響いてくるということもあるでしょう。主は、一人一人を心にかけ、それぞれにわかる方法で、それぞれにちょうどいい時に、「わたしはあなたとともにいる」ということをわからせてくださるのです。
 この「主がともにおられる」というのは、エゼキエル書を貫くメッセージでもあります。エゼキエル書は、ケバル川のほとりで「主がここにおられる」という幻を見ることから始まっています。そして、最後は、新しいエルサレムの様子が示された後、「その日からこの町の名は、『主はここにおられる』と呼ばれる」という言葉で終わっているのです。今も将来も主がともにいてくださるという確信をエゼキエルは生涯を通じて持ち続けたのですね。
 
5 約束の虹
 
 さて、今日の幻の中で、1章28節に「その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようである」とありましたね。エゼキエルにとってバビロンでの最初の五年間は雨雲に覆われているような状態だったでしょう。しかし、その雲の間から栄光に輝く虹を見たのです。先日、教会の墓地に行ってきましたが、すぐ近くの墓石に「No Rain No Rainbow」と刻まれていました。「雨が降らなければ虹も出ない」ということですね。聖書では虹は特別な意味を持っています。創世記9章では、大洪水の後、神様がノアに「わたしが大洪水で世界を滅ぼすことはもう二度とない」と言われ、その契約のしるしとして虹を立ててくださいました。虹は赦しと希望のしるしとなったのです。エゼキエルにとっても希望のしるしとなったでしょう。
 
 さて、今日学んだ二つの大切なことを心に留めてください。一つは、自分の計画や未来像が崩されても諦めなくていいということです。神様が新しい未来を用意してくださるからです。そのことを信頼して礼拝を続けながら主の最善の時を待ちましょう。もう一つは、主がいつもともにいてくださるということです。私たちを主の愛から引き離すものは何もありません。主は雨を降らせ、虹を見させてくださいます。その虹を仰ぎながら、新しい週も歩んでいきましょう。