城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二四年六月二日              関根弘興牧師
              エゼキエル書二章八節〜三章三節
  エゼキエル書2
     「召命」
 
 8人の子よ。わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」9 そこで私が見ると、なんと、私のほうに手が伸ばされていて、その中に一つの巻き物があった。10 それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。1 その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」2 そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、3 そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。(新改訳聖書第三版)
 
 前回の1章では、エゼキエルの人生の大きな転機となった出来事を読みました。エゼキエルは祭司の家系に生まれ、エルサレムの神殿の祭司となる準備をしていました。しかし、第二回目のバビロン捕囚のときに、バビロンに連れて行かれ、将来の希望を失って失意の日々を過ごしていたのです。
 しかし、バビロン生活五年目にケバル川のほとりにいたとき、エゼキエルは神々しい幻を見ました。翼を持つケルビムと呼ばれる四つの生きものと、その上におられる神様の栄光を見たのです。ケルビムは、神様の臨在を示す生きもので、エルサレムの神殿の壁や扉にはケルビムが刻まれ、至聖所の入り口の幕にもケルビムが縫い付けられ、至聖所に安置された契約の箱の蓋にもケルビムの像が付いていました。さらに、契約の箱の両側には高さ四メートル半もあるケルビムの像が置かれていたのです。そのエルサレム神殿から遠く離れたバビロンに連れてこられたエゼキエルは、神様から遠く引き離されてしまったように感じていたのかもしれません。しかし、神様は、その意気消沈しているエゼキエルに「わたしはここにいる」という幻を見せてくださったのです。
 今日は、その続きの2章ー3章の内容を見ていきましょう。
 
1 召命
 
 圧倒的な神様の臨在の幻を見たエゼキエルはひれ伏しました。すると、神様は「人の子よ。立ち上がれ。わたしがあなたに語るから」と言われました。
 この「人の子」という表現はエゼキエル書にたくさん出て来ます。新約聖書では「人の子」は、人の姿で来てくださった救い主イエス様を指す言葉として使われることが多いのですが、エゼキエル書では、エゼキエルが「人の子」と呼ばれていて、「死ぬべき弱い人間のひとり」という意味で使われています。神様は、エゼキエルが十分に弱い存在であることをご承知の上で、エゼキエルに語りかけ、新しい使命をお与えになったのです。どんな使命でしょうか。
 神様は2章3節-7節で言われました。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす。あなたは彼らに『神である主はこう仰せられる』と言え。彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。」神様はエゼキエルに「預言者となれ!あざみといばらの中に飛び込め!さそりの中に住め!相手が聞いても聞かなくても、預言者がいることを知らしめよ!」と言われたのです。
 私たちは、説教によって多くの人が心動かされて神様を信じ、教会が大きくなることが成功だと考えてしまいます。もちろんそれはすばらしいことです。しかし、エゼキエルの場合はどうでしょう。エゼキエルの語る言葉を相手が聞こうが聞くまいが、自分たちの中に預言者がいることを知ることが大切だというのです。神の言葉を託された預言者がそこにいるということは、結局、後には民の回復に繋がっていくからです。
 しかし、いくら語っても聞こうとしない人々に語り続けていくときには多くの困難や試練が待っているでしょう。傷ついたり、死の危険を味わうこともあるでしょう。堅い意志や覚悟が必要です。そこで神様は、これから預言者として活動するエゼキエルに必要な励ましと心構えを示してくださいました。
 
2 準備
 
(1)巻物を食べよ
 
 2章8節ー10節にこう書かれていますね。「『あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。』 そこで私が見ると、なんと、私のほうに手が伸ばされていて、その中に一つの巻き物があった。それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。」
 神様は巻物を食べよと言われました。その内容が「喜びと感謝と希望」だったら喜んでいただきたいですが、この巻物の内容は「哀歌と、嘆きと、悲しみ」だったというのです。これは、巻物自体が嘆きに満ちていたということではなく、それを読んだ人や聞いた人たちに苦痛や苦悩を起こさせるという意味だと考えることができます。つまり、これからエゼキエルが預言者として語ろうとする言葉は、決して聞き心地のよいものではなく、むしろ、それを聞いた人の心に嘆きや悲しみをもたらす言葉となっていくということでしょう。神様に背を向け、心を頑なにして生きている人にとっては、それが神様のさばきの言葉となり、嘆かわしい内容になるというわけですね。
 ところが、3章3節には「私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった」と書かれていますね。哀歌と嘆きと悲しみが書かれた巻物を食べたら、蜜のように甘かったというのです。どういうことでしょうか。正しい神様のさばきの言葉は、神様に背を向ける者たちにとって苦いものです。しかし、その言葉を心に留め、受け入れていく人々にとっては、甘いものとなっていくということなのですね。
 詩篇19篇9節-10節には「主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い」と書かれています。また、詩篇119篇103節には「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」とありますが、これは神様の言葉が聞き心地のいいものばかりという意味ではなく、神様の言葉を聞いて自分を見つめ直し、生き方を変えていく人々にとっては麗しく感じられるということなのですね。神様の言葉は、最初は聞いた人たちに悲しみや嘆きをもたらすかもしれないけれど、それが咀嚼され吸収されていくとき、蜜のように甘くなるというわけです。そこに神様の赦しや恵みを体験することができるからです。第二コリント7章10節に「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます」と書かれているとおりです。また 詩篇30篇11節には、「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました」とあります。嘆きや悲しみを喜びに変えてくださる神様がおられることを味わうことができるのですね。
 また、3章3節で神様は「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ」と言われました。これから走り出す車にガソリンを満たすのと同じように、これから預言活動を始めるエゼキエルに必要な燃料が満たされたわけですね。
 
(2)金剛石の額
 
 しかし、それで張り切って預言活動開始というわけにはいきませんでした。神様は、エゼキエルの心に急ブレーキをかけるようなことを言われたのです。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。わたしはあなたを、むずかしい外国語を話す民に遣わすのではなく、イスラエルの家に遣わすのだ。あなたを、そのことばを聞いてもわからないようなむずかしい外国語を話す多くの国々の民に、遣わすのではない。もし、これらの民にあなたを遣わすなら、彼らはあなたの言うことを聞くであろう。しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らはわたしの言うことを聞こうとはしないからだ。イスラエルの全家は鉄面皮で、心がかたくなだからだ。」(3章4節ー7節)
 皆さん、どう思いますか。エゼキエルは、むずかしい外国語を話す国々の民ではなく、同胞のイスラエル人たちのもとに遣わされるのです。ところが イスラエルの家はエゼキエルを通して語られる神様の言葉を聞こうとしないというのですね。神様は「外国語を話す民なら聞くだろうが、イスラエルの民は鉄面皮で心がかたくなだから聞こうとはしない」と断言なさったのです。それなら、聞いてくれる人たちのところに遣わされたいと思いますね。ところが、エゼキエルは、聞こうとしない人たちに対して神様の言葉を語れと命じられたのです。同胞の中で、非常に難しい立場に立たされるわけですね。考えただけでも大変な任務です。
 しかし、神様は続けて3章8節ー11節でこう励ましてくださいました。「見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし、あなたの額を、彼らの額と同じように堅くする。わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。・・・彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう仰せられる』と彼らに言え。」金剛石というのはダイヤモンドのことです。イスラエル人の額は鉄のように堅いけれど、ダイヤモンドはさらに堅いですね。堅さ比べで負けることはありませんね。
 ただ、これは、神様がエゼキエルを協調性のない頑固な人にするということではありません。イスラエルの民がどんなに神様の言葉を頑なに拒否したとしても、それに動じることなく頑なに神様の真実の言葉を語り続けていくことのできる堅さをエゼキエルに与える、と神様は約束してくださったのです。
 ダニエル書で見たとおり、ダニエルは譲歩できることは譲歩しましたが、神様を礼拝することについては決して譲歩しませんでした。ダニエルもダイヤモンドのような堅さを備えていたわけです。エゼキエルも、相手が頑ななら、こちらはさらに頑なに神様の真実を語り続けようとする堅い志を持った預言者として備えられたのです。
 私は、こうして牧師をしながら、改めてこの頑なさが欲しいと思いました。ヨハネ1章14節に「この方(イエス・キリスト)は恵みとまことに満ちておられた」とあります。ですから、これからもイエス様の恵みとまことを頑なに語り続けていくことができる者とさせていただきたいと願っているのです。
 
(3)見張り人としての自覚
 
 幻を見たあと、エゼキエルはどうしたでしょうか。3章14節ー15節にこう書かれています。「霊が私を持ち上げ、私を捕らえたので、私は憤って、苦々しい思いで出て行った。しかし、主の御手が強く私の上にのしかかっていた。そこで、私はテル・アビブの捕囚の民のところへ行った。彼らはケバル川のほとりに住んでいたので、私は彼らが住んでいるその所で、七日間、ぼう然として、彼らの中にとどまっていた。」
 エゼキエルにとって、栄光に輝く神様の臨在の幻を見たことは、天にも昇るような素晴らしい体験であったはずです。しかし、今度は、主の霊によって捕囚の民の町テル・アビブに戻されたのです。そこには、エゼキエルの家もありました。
 「私は憤って、苦々しい思いで出て行った」と書かれていますが、エゼキエルは、心頑なな民に対して神様が感じておられる思いを共有していたのかもしれません。
 あるいは、日常に戻ると、これまで捕囚生活の苦労を共にしてきた人々がいます。その人々に対して、突然、神様の言葉を語り始めなければならないわけですから、躊躇する思いも出て来たことでしょう。しかも、聞き心地の良い言葉を語るのではなく、嘆きや悲しみをもたらす言葉を語るわけです。それを受け入れてくれれば甘く感じられるようになるでしょうが、人々は鉄面皮のように頑なで聞こうとしないと言われているのです。エゼキエルにしてみれば、預言者として召されても、喜びよりも、何か苦々しさを感じていたのかもしれませんね。
 ダニエル書には、ダニエルが幻を見た後、幾日かの間、寝込んでいたことが書かれていましたね。エゼキエルも幻を見た後、七日間、ぼう然として過ごしていました。その七日目の終わりに神様はエゼキエルに言われました。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞き、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが、悪い者に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。」(3章17節ー19節)
 エゼキエルは、この言葉に身震いする思いだったでしょう。自分には見張り人として警告を発するという重要な責任があることを知ったのです。もし自分が警告を発しても相手がその警告を聞かずに死んだ場合は、自分は責任を問われない、しかし、もし自分が警告を発しないで相手が死んでしまったら、警告しなかった自分もその人の死の責任を問われるというのですから、厳しいですね。私だったら、預言者に召されても辞退してしまいそうです。
 しかし、よく考えると、神様のこの言葉の根底には、人々に何としても生きてほしいという神様の熱心な思いがあるのですね。神様は、エゼキエル書の中で、繰り返し「生きよ」と語りかけておられます。18章23節では「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。──神である主の御告げ──彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか」、18章32節では「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。──神である主の御告げ──だから、悔い改めて、生きよ」、また、33章11節では「わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」と語りかけておられるのです。この「生きよ」という言葉は、エゼキエル書のキーワードの一つです。 その「生きよ」というメッセージをエゼキエルは託されたわけです。
 つまり、神様は、私たちが生きること、神様のいのちの中で生かされていくことを心から求めておられます。だからこそ、聞こうとしない頑なな民にも繰り返し預言者を送って「生きよ」と語り続けてくださるのです。そして、同胞に語ることを躊躇しているエゼキエルにも、「生きよ」と語る見張り人としての使命をお与えになったのです。それは、今日においては、教会の使命でもあるのですね。
 
(4)預言者としての覚悟
 
 それから、エゼキエルは、主に命じられて谷間に出て行きました。そこに、ケバル川のほとりで見たような主の栄光が現れ、主がこう言われたのです。「行って、あなたの家に閉じこもっていよ。人の子よ。今、あなたに、なわがかけられ、あなたはそれで縛られて、彼らのところに出て行けなくなる。わたしがあなたの舌を上あごにつかせるので、あなたは話せなくなり、彼らを責めることができなくなる。彼らが反逆の家だからだ。しかし、わたしは、あなたと語るときあなたの口を開く。あなたは彼らに、『神である主はこう仰せられる』と言え。聞く者には聞かせ、聞かない者には聞かせるな。彼らが反逆の家だからだ。」(3章24節-27節)
 何だかわかりづらいですね。「見張り人として警告を発せよ」と言われた神様が、今度は、「自分の家に閉じこもっていよ」と言われるのです。それも、なわで縛られ、外出できず、話せなくなるというのですね。それでは、預言者としての働きができませんね。どういうことなのでしょうか
 これは、神様がエゼキエルにこれから起こることを事前にちゃんと説明しておられるということです。病院のインフォームド・コンセントのようなものですね。患者が自分の病状や治療方法の説明を聞いて理解し、自らの意思で医療行為を決めるプロセスのことです。手術前には、手術に伴ってどんなことが起こるか、良いことも悪いこともすべて含めて説明を受けますね。 エゼキエルも、これからの預言活動の中で何が起こるか、神様から説明を受けたわけです。神様はエゼキエルに「家に閉じこもる」という象徴的な行為をさせることによって、「これから縛られて自由に行動できないときも来るし、何も語ることのできないときも来る」ということを説明してくださったのです。しかし、それとともに、「わたしは、あなたと語るときあなたの口を開く」と約束してくださいました。つまり、「わたしとのホットラインを遮ることのできる者は誰もいない。だから、わたしの言葉を聞いたら、『神である主はこう仰せられる』と大胆に語れ」と言われたのです。
 エゼキエルは、神様の幻を見、神様の命令や約束の言葉を聞きながら、どんな状況にあっても預言者として語り続ける覚悟を固めていきました。
 今、私たちも「生きよ」と語りかけてくださる主がおられることを伝える者とされています。そのことを覚えつつ、新しい一週間も歩んで行きましょう。
 
 次回は、エゼキエルの預言者として活動のスタートは具体的にどのようなにことを行い、語っていったのかを見ていくことにしましょう。