城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二四年六月二三日             関根弘興牧師
              エゼキエル書三七章一節〜一四節
  エゼキエル書4
     「回復」
 
 1 主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。2 主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。3 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」 4 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。5 神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。6 わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」7 私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。8 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。9 そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。11 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる』と言っている。12 それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。13 わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。14 わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。──主の御告げ──」(新改訳聖書第三版)
 
 エゼキエルは、バビロニヤ帝国の捕囚となってバビロンに連れて来られてから五年目に神様の栄光の幻を見、預言者に任命されました。その頃、南ユダ王国は、バビロニヤの属国になったとはいえ、首都エルサレムも神殿もまだ存続していましたから、「神様がエルサレムや神殿を守ってくださるはずだ。神様がバビロニヤを滅ぼして、私たちを故国に連れ戻してくだるだろう」と期待している人もたくさんいたようです。その人々に対してエゼキエルは「もうすぐエルサレムも神殿も敵に滅ぼされ、国は滅亡し、多くの国民が命を落とし、残された者たちも各地に散らされる」という神様からの厳しい預言を語り始めたのです。また、ただ語るだけでなく、粘土板に彫りつけたエルサレムを敵が包囲している様子を示すジオラマを作ってその横で四百三十日間横たわったり、自分の頭髪と髭を剃って三等分し、それを火で焼いたり、剣で切ったり、風に吹き飛ばしたりして、エルサレムの滅亡と住民に下る苦難を象徴的な行動で示したのです。しかし、人々はエゼキエルの預言を真剣に聞こうとしません。そんな頑なな人々に対して、神様は「わたしはあなたがたを惜しまず、あわれまない」と厳しく宣言なさいました。神様は愛に満ちたお方です。だからこそ、自ら滅びに向かうような態度を取り続ける人々をいったん突き放すことになさったのです。相手に命の危険が迫っている時に「そのままでいいですよ」と容認するのは本当の愛ではありません。本当に相手を愛し、相手の最善を願うなら、時には厳しく断固とした態度を取る必要もあるのです。しかし、それとともに、神様は「わたしは、だれが死ぬのも喜ばない。悔い改めて、生きよ」と繰り返し呼びかけておられます。この「生きよ」というのがエゼキエル書の中心的なテーマなのですね。
 さて、エゼキエルが語った預言は現実のものとなりました。33章21節には、エゼキエルが捕囚になって十二年目に、エルサレムの町も神殿もバビロニヤ軍によって破壊され、南ユダ王国が滅亡してしまったという知らせがエゼキエルのもとに届いたと書かれています。その知らせを聞いたエゼキエルは、「今イスラエルの地に残されている人々も災いを受け、そこは荒廃した地になるだろう」と預言しました。
 第二列王記25章やエレミヤ書39章ー44章には、南ユダ王国滅亡後の出来事が記されています。バビロニヤの王は、ユダの地に残された人々を治めるためにユダヤ人ゲダルヤを総督として任命しました。しかし、南ユダの王族の一人であったイシュマエルが、ゲダルヤやその部下やバビロンから派遣されてきた人々を殺して逃亡してしまいます。残された人々は、バビロニヤの報復を恐れてエジプトに亡命することを決意しました。エレミヤが「バビロンの王を恐れるな。この国にとどまれば大丈夫だ。しかし、エジプトにいけば災いが下る」と預言したのに、その神様の命令を聞こうとしなかったのです。エレミヤもエジプトに連れて行かれ、そこでしばらく預言活動を続けました。
 こうして、エゼキエルの預言の通り、イスラエルの地は荒廃してしまいました。祖国が滅亡し、エルサレムと神殿が廃墟となってしまったことで、バビロンに捕囚になっていた人々は、それまでの希望が打ち砕かれ、悲嘆にくれていました。そんな中で、エゼキエルは、こんどは神様の回復の約束を語っていくのです。34章ー37章を見ていきましょう。
 
1 良き羊飼い
 
 まず、34章には、羊飼いのたとえが出て来ます。
 イスラエルの指導者たちに対して神様は、2節-8節でこう嘆いておられます。「ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。・・・わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。」指導者たちは、牧者としての責任をまったく果たさず、かえって羊たちを苦しめていたのです。
 そこで、神様は、11節-12節でこう宣言なさいました。「見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。・・・わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。・・・わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。・・・わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」神様御自身が散らされた民を連れ戻し、養い、いやし、力づけ、正しい道に導いてくださるというのですね。
 しかし、これは、イスラエルの人たちにとって決して目新しいメッセージではありませんでした。たとえば、ダビデが作った有名な詩篇23篇には、同じような内容が書かれています。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます」とあります。また、詩篇100篇3節には「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である」と書かれています。ですから、「神様は愛とまことに満ちた私の羊飼いです」と告白することは、ずっと以前から当たり前のように行われていたのです。
 しかし、神様の羊を託された王や指導者たちは、神様のみこころに逆らい、自分勝手に羊たちを利用し、虐げ、強制的に支配するだけでした。そこで神様は、10節ー11節でこう言われたのです。「彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。・・・わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。」そして、23節ー24節でこう言われました。「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。」ダビデはイスラエルの国を統一した王ですが、ずっと以前に亡くなっていますから、ここで言われている「ダビデ」とは、ダビデ王の子孫のことです。
 第一歴代誌17章14節で神様はダビデ王についてこう約束されました。「わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。」イスラエルの人々はこの約束をよく知っていましたから、余計にダビデ王の子孫が支配する南ユダ王国が滅びるはずはないと思っていたことでしょう。しかし、実際には、南ユダ王国は滅びてしまいましたね。神様の約束はどうなったのでしょうか。
 実は、神様がここで「わたしの家」「わたしの王国」と言っておられるのは、神の国のことなのです。「ダビデの子孫の中から、神の国の王座に着く王が現れ、その王が良い羊飼いとしてとこしえに人々を養うようになる」と神様は約束してくださったわけですね。そして、25節ー29節に書かれているように、羊たちは、この良き羊飼いに守られ、豊かな養いと祝福の中で安心して住むことができるというのです。
 今、私たちは、この約束がイエス・キリストによって実現したことを知っていますね。ヨハネ10章10節ー11節でイエス様はこう言っておられます。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、それを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」また、同じく16節では「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです」とあります。つまり、イエス様は、イスラエルだけでなく、すべての人々の永遠の羊飼いとなるために来てくださったのですね。この方に、守られ、養われ、導かれていくなら安心ですね。
 エゼキエルが羊飼いの預言をしたときには、イエス様の到来は想像すらできなかったことでしょう。しかし、失望の中にいる人々に、将来、良き羊飼いとなる王が来られるという希望の言葉を語ることができたのです。
 
2 いのちの息
 
 それから、37章には、エゼキエル書の中で特に有名な幻が記されています。
 エゼキエルは、主の霊によって谷間に連れて行かれました。そこには、ひどく干からびた骨が満ちていました。神様は、エゼキエルに「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか」とお尋ねになりました。エゼキエルは「神、主よ。あなたがご存じです」と答えましたが、かみ砕いて言えば「そりゃ無理でしょ」と思ったのです。ところが、神様は、エゼキエルにこうお命じになりました。「これらの骨に預言して言え。『干からびた骨よ。・・・わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」エゼキエルがそのとおりに預言していると、大きなとどろきがして、骨と骨がつながり、筋がつき、肉がつき、皮膚がその上を覆い、人のかたちになったのです。
 しかし、それだけでは十分ではありません。主は続けて言われました。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」エゼキエルがその通りに預言すると、息が彼らの中に入って、彼らは生き返り、自分の足で立ち上がったのです。人を生かすものは何か、それは神様が吹きかける息だというのですね。
 これを読むと、創世記の最初に人が造られたときのことを思い出しますね。創世記2章7節に「神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」とあります。人は、神様のいのちの息を吹き込まれて初めて人となるのです。神様の息のかかった者として神様と応答しながら、神様をあがめ、祈り、賛美し、礼拝し、神様とともに生きることが本来の人としての姿なのですね。
 しかし、エゼキエルの見た多くの干からびた骨は、神様とのつながりを失い、神様のいのちの息を受けることができずに死んだような状態になっていました。祖国が滅亡したイスラエルの民も、神様から見捨てられたように思い、未来への希望を失い、自分たちが生ける屍のように感じていたことでしょう。しかし、神様は、死んだ者たちをよみがえらせ、いのちの息を吹き込むと約束してくださいました。ただ生かすだけでなく、神様を見上げて生きる本来の人としての姿を回復してくださるというのです。エゼキエルは、この幻に衝撃を受けるとともに、心からの安堵を感じたのではないでしょうか。
 神様は、死と滅びに向っている人々に対して「なぜあなたがたは死のうとするのか。生きよ」と呼びかけてくださいましたが、それだけでなく、死んでしまった人々に対しても「わたしは、あなたを死からよみがえらせ、生かすことができるのだ」ということを示してくださったのです。
 また、36章24節ー28節では、神様はこう約束されています。「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」
 人々は神様に逆らい続けたために各地に散らされてしまいました。しかし、神様御自身が散らされた民を集め、約束の地に連れて行き、すべての汚れからきよめ、新しい霊を授けてくださるというのです。新しい霊を受けた人々は、新しく生かされ、頑なな石の心の代わりに神様に素直に従う柔和な心が与えられ、心から喜んで神様に従い、神様の支配のもとで神様とともに生きることができるようになるというのですね。そして、36章35節には「荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった」と人々に言われるようになると書かれています。
 この約束も、先ほどの良き羊飼いの預言と同じく、イエス様によって成就することになります。イエス様は十字架にかかって、すべての人の罪の贖いを成し遂げてくださいました。そのイエス様を信じる人々は、罪赦され、きよい者とされるのです。そして、イエス様は三日後に復活し、弟子たちの前に現れたとき、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。イエス様の十字架の死によって絶望と失意の中で死人のようになっていた弟子たちに、新しいいのちの息を吹きかけ、「新しいいのちに生きよ」と言ってくださったのです。そして、神様のいのちの息を受けた弟子たちは、内側から新しくされ、神様とともに喜びをもって大胆に生きる者へと変えられていったのです。
 それは、私たちも同じです。神様は、私たちにも「わたしはあなたを生かす。だから、生きよ」と語りかけ、いのちの息を吹きかけてくださるのです。
 
3 一つの国、ひとりの王
 
 次ぎに、37章16節-17節で神様はエゼキエルにこう言われました。「人の子よ。一本の杖を取り、その上に、『ユダと、それにつくイスラエル人のために』と書きしるせ。もう一本の杖を取り、その上に、『エフライムの杖、ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために』と書きしるせ。その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中でこれを一つとせよ。」つまり、ユダ部族中心の南ユダを表す杖と、エフライム部族中心の北イスラエルを表す杖を一つにせよというのです。そして、神様はその意味をこう説明なさいました。「わたしは、各地に散らされたイスラエル人を救い、イスラエルの地に集めてきよめ、一つの国とする。ダビデがただひとりの王、羊飼いとして永遠に君主となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う。わたしは彼らととこしえの平和の契約を結び、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
 これには、いくつかの解釈があります。一つは、世界中に散っているイスラエルの人々が集められ、イスラエル国家ができるという意味だという解釈です。確かに国がまったく失われてしまった状態から人々が集められ国が出来ていきましたので、聖書の預言だと語ることも出来るでしょう。また神様は歴史を支配してくださっていますから、こうしたことの中に神様の働きがあることを知っています。しかし、その解釈には問題があります。「わたしのしもべダビデが彼らの王となり」という部分が実現していませんし、今のイスラエルの人々が神様のおきてを守り行い、とこしえの平和の契約の内にあるとは、とても思えませんね。聖書全体から見ると、ここで神様が言っておられる「イスラエル」とは、神様から遣わされた救い主イエス様を信じ、新しく生かされるようになった人々のことだと理解することができます。パウロも、ガラテヤ6章15節ー16節で「キリストによって新しく造られた人々こそ神のイスラエルだ」と言い、エペソ1章10節では「いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです」、ガラテヤ3章28節では「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」とはっきり言っています。つまり、エゼキエルのこの二本の杖の預言も、イエス・キリストによって成就されるものなのですね。 さて、次ぎの38章からは、終末に起こることについてエゼキエルが見た幻が記されています。その中で、エゼキエルは、待ちに待った光景を見ることになります。それは、どんな光景だったのでしょうか、次回をお楽しみに。