城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二四年七月一四日             関根弘興牧師
              エゼキエル書四七章一節〜一二節
  エゼキエル書5
     「希望」
 
 1 彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。
2 ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。3 その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。4 彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。5 彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。6 彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。10 漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。11 しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。12 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。(新改訳聖書第三版)
 
 エゼキエルは、バビロニヤ帝国の捕囚となってバビロンに連れて来られた五年目に神様の栄光の幻を見、預言者に任命されました。その時、故国の南ユダも首都エルサレムも神殿もまだ存続していましたから、捕囚となった人々は「神様がきっとエルサレムと神殿を守ってくださるはずだ」と期待していました。その人々に対してエゼキエルは神様の厳しい言葉を語り始めました。「もうすぐエルサレムも神殿も敵に滅ぼされ、国は滅亡し、多くの国民が命を落とし、残された者たちも各地に散らされる」という内容です。人々は頑なで、エゼキエルの預言を聞こうとしませんでした。しかし、エゼキエルの捕囚生活の十二年目に南ユダ王国はバビロニヤ軍に滅ぼされ、エルサレムも神殿も廃墟になってしまったのです。絶望し悲嘆にくれた人々に対し、エゼキエルは、こんどは神様から示された将来の回復と希望の預言を語り始めました。前回は、その内容を見ていきましたね。神様は大きく分けて三つのことを約束してくださいました。第一は、神様ご自身が散らされた羊たちを集め、ダビデの子孫から現れる良き羊飼いのもとで永遠の平安を与えてくださるという約束でした。第二に、谷間に満ちていた多くの干からびた骨が再び肉体を持つようになり、神様の息を吹き込まれて生き返るという幻が示されました。これは、神様が、死んだような者たちをよみがえらせ、いのちの息を吹き込み、神様を見上げて生きる本来の人としての姿を回復してくださるという約束を示す幻でした。そして、第三に、神様はエゼキエルに「二本の杖を合わせて一つとせよ」とお命じになりました。それは、すべての人が一人の王のもとで永遠に一つとされるという約束でした。神様は、どん底の時代に、将来の素晴らしい回復と希望を示してくださったのです。そして、37章26節ー27節でこう約束してくださいました。「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」預言したエゼキエルもそれを聞いた人々も、大いに励まされたことでしょう。
 では、この預言はいつ実現するのでしょうか。以前にもお話ししましたが、預言には重層的な意味があります。
 この預言は、イエス・キリストが来てくださり、十字架と復活によって救いを完成させてくださったことによって実現したと言うことができます。キリストを信じる人々は、神様のいのちの息である聖霊によって新しく生かされ、神様との関係を回復し、良き羊飼いであり永遠の王であるキリストのもとで生きることができるようになりました。また、信じる一人一人の内に聖霊が与えられ、それぞれが神様の聖所とされて「主がここにおられる」という言葉が実現したのです。
 それとともに、この預言は、この世の終わりに完全に成就すると言うこともできます。その終末についての預言がエゼキエル書最後の38章ー48章に記されているのです。今日は、その内容を見ていきましょう。
 
1 終末の苦難と平和の到来
 
 まず、38章ー39章を見ましょう。エゼキエル書の前に読んだダニエル書の内容を思い出していただきたいのですが、「終末の時代に聖徒たちを苦しませる悪しき者が現れるけれど、最終的に悪しき者は滅ぼされ、神様を信じる人々に永遠の救いが与えられる」ということが繰り返し語られていましたね。エゼキエルも、38章ー39章で神様から同じような内容のことを示されたのです。
 38章2節に「メシェクとトバルの大首長であるマゴグの地ゴグ」が登場します。これは、神様に敵対し、神様を信じる人々を攻撃してくる勢力の象徴と考えられます。この名前を聞いてピンとくる方もおられるかもしれませんね。新約聖書のヨハネの黙示録20章にも「ゴグとマゴグ」のことが書かれているのです。黙示録ではマゴグは地名ではなく、悪の勢力の名前として使われています。ヨハネがどんな幻を見たかというと、「世の終わりにサタンに惑わされたゴグとマゴグが諸国の民の大軍勢を率いて聖徒たちの住む町を攻撃しようと取り囲んだけれど、天から火が降ってきて彼らを焼き尽くし、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そして、神様の最終的なさばきが行われた後、新しい天と新しい地が到来した」という幻でした。そのヨハネより約650年前の時代のエゼキエルも同じような幻を見たわけですね。
 38章14節ー16節にこう書かれています。「それゆえ、人の子よ、預言してゴグに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民イスラエルが安心して住んでいるとき、実に、その日、あなたは奮い立つのだ。あなたは、北の果てのあなたの国から、多くの国々の民を率いて来る。彼らはみな馬に乗る者で、大集団、大軍勢だ。あなたは、わたしの民イスラエルを攻めに上り、終わりの日に、あなたは地をおおう雲のようになる。ゴグよ。わたしはあなたに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがあなたを使って諸国の民の目の前にわたしの聖なることを示し、彼らがわたしを知るためだ。」神様は、ゴグに対し、聖徒たちが安心して住んでいる地を攻撃することをあえて容認なさいました。それは神様だけがまことの主であることを諸国の民が知るためだというのですね。
 そして、ゴグが聖徒たちの住む場所を包囲したとき、神様はゴグが率いる悪の勢力に最終的なさばきを下されるというのです。3章18節ー39章4節にこうあります。「ゴグがイスラエルの地を攻めるその日・・・わたしは怒りを燃え上がらせる。わたしは、ねたみと激しい怒りの火を吹きつけて言う。その日には必ずイスラエルの地に大きな地震が起こる。・・・彼らは剣で同士打ちをするようになる。わたしは疫病と流血で彼に罰を下し、彼と、彼の部隊と、彼の率いる多くの国々の民の上に、豪雨や雹や火や硫黄を降り注がせる。・・・メシェクとトバルの大首長であるゴグよ。わたしはあなたに立ち向かう。・・・あなたの左手から弓をたたき落とし、右手から矢を落とす。あなたと、あなたのすべての部隊、あなたの率いる国々の民は、イスラエルの山々に倒れ、わたしはあなたをあらゆる種類の猛禽や野獣のえじきとする。」神様を信頼する人々はまったく自ら戦う必要がありませんでした。神様御自身が敵を滅ぼしてくださるというのですね。
 そして、39章9節ー16節には、ゴグの軍隊の戦死した人々の遺体をすべて埋め終わるまで七ヶ月かかり、また、残された武器はたきぎの代用として使われると書かれています。通常、戦いで獲得した武器は、次の戦いのために武器庫に保管されるのですが、ここではそうではありません。残った武器は七年間にわたってたきぎの代わりに燃やされるというのです。この世界を最も冷たくするものは戦争です。しかし、ここでは世界を冷たくしてきた武器が人々を暖めるたきぎとして使われるというのですね。つまり、戦いが終わり、平和が訪れる幻をエゼキエルは見たわけです。預言者イザヤは、イザヤ書2章4節で「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」と預言しましたが、エゼキエルも同じような平和の到来の幻を見たわけですね。
 ところで、この38章ー39章はエゼキエル書の中でも特に難解な箇所で、様々な解釈があります。極端に解釈する人の中には、「マゴグの地」とはロシアのことであり、「ゴグ」はロシアの指導者、「メシャク」はモスクワ、「トバル」はロシアの古い町であるトポリスクのことで、世の終わりに北方のロシアが攻めてくるのだと考える人がいます。今ウクライナの問題があるので、エゼキエルの預言の通りだと思い込んでしまう人もいるのです。しかし、そのように自分勝手な解釈で断定するのはとても危険です。私たちは、どれか一つの解釈に決めつけるのではなく、その中にある中心的なメッセージを受け取っていくことが大切です。この箇所の中心的なメッセージとは何でしょうか。それは、神様が歴史を支配しておられること、悪しき勢力には神様の最終的なさばきが下ること、また、主を信頼し生きる人々は支えられ、永遠の平和が与えられるということです。それは、どの時代の人にとっても大切なメッセージなのです。
 
2 新しい世界
 
 さて、エゼキエルの時代には、国もエルサレムも神殿も廃墟となっていました。しかし、先ほども引用したように、37章26節ー27節で神様はこう約束してくださいました。「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」その約束が成就した光景を神様は40章からの幻の中でエゼキエルに見せてくださったのです。
 
(1)回復した神殿
 
 40章ー46章で、エゼキエルは御使いに導かれて新しされた神殿ツアーに出かけました。御使いはひもとはかりざおざおをもち、神殿の外側から内部までの構造や細かい寸法をはかり、エザキエルはそれを書き留めるように言われたのです。ほとんどの人は、これを読んでも特に興味を感じないでしょう。
 しかし、例えば、鉄道に興味のある人は、線路の幅、車両の寸法、装置などの細かいことを聞いたり調べたりすることに魅力を感じと思います。まして、新型車両などがでれば、すべての情報を聞いて感動するでしょうね。興味があることに関しては夢中になるのですね。考えて見てください。エゼキエルは祭司の家に生まれ、幼い頃から神殿に仕えるための教育を受けてきました。それなのに、バビロンに捕らえられ、神殿は破壊され、祭司になる夢が絶たれてしまったのです。そんなエゼキエルにとって、回復した神殿の細部を見学する幻のツアーなのですから、どれほど感動し興奮する体験だったことでしょう。
 しかも、43章1節ー5節にはこう書かれています。「彼は私を東向きの門に連れて行った。すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現れた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。私が見た幻の様子は、私がかつてこの町を滅ぼすために来たときに見た幻のようであり、またその幻は、かつて私がケバル川のほとりで見た幻のようでもあった。それで、私はひれ伏した。主の栄光が東向きの門を通って宮に入って来た。霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。」
 エゼキエルは、以前にバビロンの地で神様の栄光に満ちた臨在の幻を見て、預言活動を開始し、エルサレムや神殿が滅びるという預言を語り始めましたが、今、その時見たのと同じ神様の栄光が、回復した神殿の中に満ちているのを見たのです。
 また、44章2節で、主は東向きの門についてこう言われました。「この門は閉じたままにしておけ。あけてはならない。だれもここから入ってはならない。イスラエルの神、主がここから入られたからだ。これは閉じたままにしておかなければならない。」神様は御自分が入った門を閉じたままにしておけと言われました。それは、「わたしはもはやこの聖所を去ることはない。あなたを離れない」という神様の思いの表れでしょう。また、神様は、43章9節で「わたしは永遠に彼らの中に住もう」と約束してくださったのです。。
 神様はまた、神様の栄光の満ちた神殿にふさわしい礼拝がなされるために、祭司やいけにえやささげものや祭りについての規定を書き記すようにエゼキエルにお命じになりました。
 バビロニヤ軍に滅ぼされる以前の神殿は、形だけの礼拝がなされるだけの神様不在の神殿でした。しかし、今、エゼキエルは、すべてのものの中心に神殿が据えられ、主の栄光が神殿に満ちている光景を見、まことの礼拝が回復される希望をみたのです。
 
(2)いのちの水の川
 そして、47章1節ー12節には、神殿の敷居の下から流れ出る水の幻が記されています。その水は、東の方に流れていました。水に沿って下りながら1千キュピト(約半キロ)ごとに川の深さを測ると、最初は足首までの深さでしたが、二度目はひざに達し、三度目は腰まで、四度目は泳げるほどの深さで歩いて渡ることができないほどの川になっていました。その川は、アラバの海に流れ込んでいました。アラバの海とは、死海のことです。死海は、標高マイナス四百メートルの低い所にあるので、たまった水が蒸発して塩分濃度が濃くなり、魚が生息できません。だから死の海と呼ばれているわけです。しかし、神殿から流れ出た水が流れ込むと、死海の水が良くなり(直訳では、癒やされ)、多くの魚が住むようになるというのです。47章9節にはこう書かれています。「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。」また、47章12節でには「川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる」と書かれています。
 この箇所も、新約聖書のヨハネ黙示録22章1節ー2節に同じような光景が記されています。「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」
 エゼキエルとヨハネが見たいのちの水の川の光景は、この世が終わりにおける完成された神の国、私たちにとっては、永遠の天の御国と言って良いのですが、そうした光景を見たわけです。しかし、ある意味では、この幻はすでに実現しているとも考えることもできるのです。イエス様はヨハネ4章13節「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と言われましたね。またヨハネの福音書7章37節ー39節『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」イエス様を信じる人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになると約束されています。それは、イエス様が十字架にかかり復活して天に昇って行かれた後に、聖霊が私たちの内に与えられたことによって実現しました。今、私たちの内に聖霊が宿っておられるので、私たち一人一人が神殿とされ、内側からいのち水の川が流れ出る者にされているのです。その水によって自分も生かされ、まわりの人々も生かしていくような存在とされているのです。うれしいではありませんか。その意味で、エゼキエルの預言は今の私たちの内に成就していえるし、将来、終わりの完成の時にも見る光景でもあるわけですね。
(3)主はここにおられる
 さて、最後の47節13節から48章で神様はエゼキエルに新しい割り当て地についてお語りになりました。これは、神様を信じる人々は皆、新しい神の国の割り当て地を相続することができるということを象徴的に表しているのです。そして、国の中央にある町の十二の門にはイスラエルの十二部族の名が付けられ、その町の名前は「主はここにおられる」と呼ばれると書かれていまず。
 ヨハネの黙示録21章では、この町は新しいエルサレム、永遠の神の都と呼ばれています。その町の十二の門にはイスラエルの十二部族の名が書かれ、城壁の十二の土台石には十二使徒の名が書かれているとあるのです。つまり旧約聖書のイスラエル十二部族の歴史を通して、また、新約聖書で福音を宣べ伝えた十二使徒によって、神の国の門と土台が備えられたということなのですね。
 そして黙示録21章3節ー4節にはこう書かれています。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
 今回でエゼキエル書を終えますが、改めて、すべての歴史を支配し、私たちに「生きよ」と呼びかけ、永遠の住まいを備えてくださる主が「ここにおられる」ことを覚えつつ歩んでいくことにしましょう。