城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二五年一月一二日             関根弘興牧師
                   創世記一章一節ー五節
 創世記から士師記まで連続説教1
   「すべてのはじまり」 
 
 1 初めに、神が天と地を創造した。2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。(新改訳聖書第三版)
 
 昨年まで、私は、旧約聖書の歴史の後半部分の連続説教をしてきました。イスラエルの最初の王が選ばれたサムエル記の時代から始めて、旧約最後のネヘミヤ記や預言者マラキの書の内容を見てきたわけですね。
 今週からは、サムエル記より前の時代、つまり、旧約聖書の一番最初の創世記から士師記までの内容をご一緒に学んでいくことにしましょう。
 まず、創世記の内容を何回かにわけてお話ししていく予定ですが、創世記は、大きく二つに分けることができます。最初の1章から11章9節までには、すべてのものの「はじまり」が記されています。天地のはじまり、人類のはじまり、罪のはじまり、神の救いの御計画のはじまり、家庭のはじまり、神様抜きの文化のはじまり、国々のはじまり、言語の混乱のはじまりが記されているのです。そして、11章10節からは、救い主の系図に登場する人々に起こった様々な出来事が記録されています。
 私たちは皆、「自分はいったい何者なのだろう」「なぜ私は今ここに存在しているのだろうか」「自分の存在や人生には何の意味があるのだろうか」と考えることがあります。そして、答えを見つけようとするのですが、なかなか見つかりませんね。
 では、人は、どうすれば自分の価値を知り、存在の意味を知ることが出来るのでしょうか。そのためには、「初め」に戻って考えることが必要なのです。創世記には、すべてのもののルーツが書かれていますから、創世記を読むことによって、私たちは、自分の存在の意味や目的を確認することができるのです。
 
1 初めに、神が天と地を創造した
 
 今日は、創世記1章に記されている天地創造の記録を見ましょう。
 まず、1節に「初めに、神が天と地を創造した」と書かれていますね。聖書は「神が存在するのか、しないのか」などという議論は一切しません。最初の一ページの一行目から、「初めに、神が天と地を創造した」と新聞の大見出しのように宣言しているのです。つまり、すべては、私たちがこの最初の一行を信じて生きることから出発するのだと教えているわけです。
 私たちは、時間の中に生きています。今日は、二〇二五年一月十二日で、明日は十三日になるわけですね。「いや、私は明日も十二日のままです」という人はいません。時間は、誰にでも同じように経過し、決して止まりません。それでは、この時間は、どこからスタートしたのでしょう。
 1節は「初めに、神が」という言葉から始まっていますね。つまり、時間の出発も含めて、すべてのもの出発が、神様に起因しているということを教えているのです。
 また、聖書の最後の書物である黙示録の1章8節には、こう書かれています。「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』」
 「アルファ」は、ギリシャ語のアルファベットの最初の文字で、「オメガ」は最後の文字です。つまり、「わたしはアルファであり、オメガである」というのは、「わたしは、初めであり、終わりである」という意味なんです。
 聖書は、歴史には、初めがあり、終わりがあるということを教えています。そして、その歴史を造り支配しているのは天地万物を創造された神様なのだというのです。ですから、私たちが歴史の中の限られた時間の中で生きていることも、神様の存在なしにはありえないというのですね。
 では、聖書が宣言している「神が天と地を創造した」という事実は、私たちに何を確信させてくれるのでしょう。
 
@私たちの存在は偶然ではない
 
 「すべてのものは偶然にできたのだ」と考えている人はたくさんいます。もし偶然が重なり合ってすべてのものができたとするなら、人は何の意味も目的も見いだすことができません。そもそも、偶然とは何の意味も目的もないということですからね。しかし、この世界のすべてが偶然に出来たと証明することのできる確実な証拠は、まだ一つも見つかっていないのです。「すべては偶然に出来たのではないか」という仮説を立てることはできます。そして、その仮設を信じている人がたくさんいるというだけなのです。
 実は、「偶然が重なってこの世界ができた」という説には、考えれば考えるほど疑問が出てきます。
 たとえば、サイコロの目は六つありますね。その目のひとつ、たとえば一が出るのは、六分の一の確率です。一が続けて二回出るのは、六を二乗して三十六分の一の確率になります。それでは、同じ目が続けて十二回出る確率はどのくらいだと思いますか。なんと二十一億七千六百七十八万二千三百三十六分の一の確率なんです。サイコロの同じ目が続けて十二回出るだけでも気の遠くなるような数の偶然が重なる必要があるわけです。ましてや、この世界のすべてのものが偶然から生まれたというは、到底信じがたいことだとは思いませんか。
 今、私の手元にiPadがあります。「箱の中に数種類の金属を入れて振っていたら、いつのまにか偶然にもこのiPadが出来たんですよ」と説明したら、あなたは信じますか。私は、信じません。ですから、クリスチャンではない科学者たちの中にも、研究すればするほど、この世界の背後には「Something Great」、つまり、「何か偉大な存在」があるのではないかと感じる人が大勢いるのです。聖書は、その「何か偉大な存在」こそ、天地を創造された神様だと教えています。聖書は、最初の一行目からこの世界は偶然によってできたのではなく、神様に「造られたもの」だと教えているのです。
 そうであるなら、造られたものには造り手の意図や目的が必ずあるはずです。たとえば、マイクが造られた目的は声を拡大したり録音したりすることです。私たちの身の回りにあるいろいろなものは皆、何かの目的と意味をもって造られていますね。
 聖書は、神様が私たちを意図や目的をもって造られたと教えています。つまり、私たちの存在には意味があるというのです。
 しばらく前ですが、ある教会で説教を頼まれました。私の説教の前に、一人の方が、どのようにクリスチャンになったのか、という話をしてくださいました。その方は、大手家電メーカーの営業部長をされていました。奥さんは、毎週日曜に礼拝に出席するクリスチャンでした。しかし、ご主人は、仕事仕事の日々で、一度も教会に行くこともなく、定年を迎えました。定年後は時間があるわけですね。奥さんにこう言いました。「お前、こんどの日曜日は、教会まで車で送ってあげよう。」こうして、教会までの送り迎えが始まりました。そして、しばらくすると、「お前、一度でいいから教会の礼拝に来て欲しいって言ってたな。今度、一度、行ってやろう。」そして、礼拝に出席したのです。奥さんと一緒に初めて礼拝に出たのですが、奥さんは、その日の説教箇所にショックを受けてしまいました。創世記1章1節だったのです。「主人は、理屈っぽいから、『初めに、神が天地を創造した』なんて話を聞いたら、きっと、『馬鹿馬鹿しい。二度と教会には行かない』と言うのではないだろうか」と思ったそうです。しかし、ご主人の反応は違いました。「今日は、いい話を聞いた。神様が世界を造り、俺の命さえも造られたなら、俺のこれからの人生にも意味があるに違いない。」こう言って、続けて教会に行くようになり、クリスチャンになって洗礼を受けられたそうです。
 神様が私たちをお造りになったということは、私たち一人一人の存在そのものに意味があるということなんですね。聖書には「神は愛です」と書かれています。神様の本質は、愛です。そして、愛には、愛する対象があります。私たちは、神様の愛を受ける対象として、神様に無条件で愛される存在として造られたのです。
 
A神様が私たちの助けとなってくださる
 
 もしこのプロジェクターが壊れたら、どこに持っていきますか。近くのスーパーですか。違いますね。壊れたら、製造元に送りますよね。なぜなら、そこで造られたからです。製造元ならプロジェクターのすべてを知っていますから、どこが悪いのか調べて直すことができますね。
 では、私たち自身に問題があるときは、どこに行ったらいいでしょうか。もちろん、私たちを造ってくださった神様のもとに行くのが一番いいですよね。神様は、私たちのことをすべてご存じですから、私たちのどこに問題があるのか、どこを直せばいいのかがわかるのです。
 詩篇121篇1ー2節には、こう書かれています。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」私たちの助けは、天地を造られた神様から来るのです。 人生には、山のように立ちはだかる様々な問題が起こってきます。途方に暮れてしまうこともあるでしょう。しかし、「天地を造られた神様ならあなたを助けることができる」と聖書は宣言しているのです。
 私たちは、聖書を通して、礼拝を通して、また、日々の生活を通して、神様こそ最もすばらしい助けを与えてくださる方だと知ることができるのです。
 
B祈り、ゆだねる生き方が始まる
 
 では、私たちの助けとなってくださる神様を知ると、こんどは、何が起こるのでしょう。祈ること、ゆだねることが始まるのです。人生にはいろいろなことが起こりますが、私たちにはなぜそんなことが起こるのかわからないことが本当に多いですね。「どうして?」という問いは、生きている限り続く問いです。しかし、私たちは、創造者を知ることによって、「祈り、ゆだねる」ことを始めます。「神様、私にはわからないことがたくさんあります。だから、あなたにお任せします。ゆだねていきます」という姿です。
 詩篇42篇1ー2節には、こう書かれています。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」この詩篇の作者は、人生の一番困難なときに、神様の助けを求めています。人間が作った木や石でできた神々に求めるのではなく、生きて、具体的な助けを与えてくださる神様を求めているのです。聖書の神様は、生ける神様です。私たちを造られた神様は、私たちの求めや叫びに耳を傾け、応答することのできる神様なんです。だから、この神様に祈り、ゆだねる姿が生まれてくるのです。
 
2 創造のみわざ
 
 さて、1章2節以降には、神様の創造のみわざが具体的に記されています。ここからは、地球を外から眺める目線ではなく、地球の中にいる目線で記録されていると考えることができます。
 神様は、第一日から第六日にわたって様々なものを造っていかれたと書かれていますが、この「第一日」という言葉は、普通の二十四時間の一日と解釈する人もいますが、ここでは、「第一段階」「第一期」というような意味として考えたらいいのです。神様はこの世界を六つの段階に分けて造られたというのです。
 
@「光よ。あれ」
 
 まず、2節には、宇宙が出来、太陽系ができ、地球ができたばかりのときの様子が書かれています。「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた」とあります。別の訳では「地は混沌としていた」と訳されています。つまり、出来たばかりの地球の上には、大水以外の形のあるものはなにもなく、闇に覆われていたのです。しかし、それだけでなく「神の霊が水の上を動いていた」とありますね。
 「ひょこりひょうたん島」の元プロデューサーで、後に牧師となられた武井博牧師が聖書物語を書きました。その中で、この「神の霊が動いていた」という言葉を「神の愛が覆っていた」と表現しています。いい表現ですね。神様は愛そのものなるお方だからです。闇と混沌のカオスの世界を神様が愛をもって覆うことによって、創造のみわざが進められ、美しい豊かな世界と新しいいのちが生まれていったのです。
 では、神様はどのような方法ですべてのものをお造りになったのでしょうか。3節に、こう書かれていますね。「神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」神様は言葉を発することによってすべてのものを造られたのです。神様の言葉には力があります。神様が「光あれ」と仰せられると、闇に覆われた混沌とした世界に光がもたらされたのです。
 これは、私たちの人生にもあてはまる真理です。神様は、私たちの人生の混沌や闇の中に光をもたらしてくださるからです。旧約聖書の預言者イザヤは、イザヤ9章2節でこう預言しました。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」また、新約聖書のヨハネの福音書1章9節には、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」と書かれています。
 ご承知の通り、イザヤが預言した「やみの中を歩んでいる民に与えられる大きな光」、ヨハネが記した「すべての人を照らすまことの光」とは、イエス・キリストのことです。イエス様は、私たちの闇を照らし、私たちの混沌とした状態に秩序を与え、私たちの人生を新しく形造ってくださるお方なのです。
 この世界の創造のみわざは、光が与えられることからスタートしました。それと同じように、私たちの人生は、光なるイエス・キリストが来てくださることによって、新しく造られていくのです。
 
A神様の備え
 
 それから、4-5節には、こう書かれています。「神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。」
 昼と夜の区別が始まったというのですね。ここで疑問に思う方もおられるでしょう。16ー19節を見ると、太陽、月、星は第四日に造られたと書かれているからです。太陽や月がまだできていないのに昼と夜があるなんておかしいと思いますね。
 現代の私たちは、地球が出来たときには、すでに太陽や他の星も出来ていたことがわかっていますね。でも、もし地球上にいたとしたらどうでしょうか。出来たばかりの地球は、水蒸気と二酸化炭素に覆われて、地上からは空の太陽や月や星は見えず、その光も届かなかったと考えられます。その後、地球が徐々に冷えて、第二日に水蒸気が海と空の雲に分かれ、第三日に陸地が現れ、たくさんの植物が生じ、その植物の働きによって二酸化炭素が酸素に変えられていくにつれて大気の透明度が増し、第四日には、昼は太陽、夜は月や星々が見えるようになったのではないかと考えられるのです。
 そして、14節ー15節を見ると、神様はなんと配慮のあるお方だろうと思います。こう書かれています。「神は仰せられた。『光る物が天の大空にあれ。昼と夜を分けよ。定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ。また天の大空で光る物となり、地の上を照らすようになれ。』すると、そのようになった。」神様が太陽や月や天体を備えてくださった目的の一つは、私たちに時や年月や季節を知らせるためだというのです。私たちの生活に欠かすことのできないカレンダーの役目をしてくれるというわけですね。また、神様は、昼は太陽が、夜は月星が私たちを照らすようにしてくださいました。神様の愛の配慮を感じますね。
 次ぎに、第五日から第六日にかけて、神様は様々な生きものを造られました。そして、最後の最後に人が造られたのです。
 この創世記の創造のみわざを見ると、神様が人のためにすべての環境を整えた上で、最後に人を造ってくださったことがわかります。そして31節にはこう書かれています。「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」神様は、人のために非常に良いものばかりを備えてくださったのです。
 
B夕があり、朝があった
 
 ところで、それぞれの日の最後は「夕があり、朝があった。第何日」という言葉で締めくくられています。夕が先で朝が後という順番は、とても興味深いですね。
 私たちにとって一日の「はじめ」のイメージは、やはり朝です。「新しい朝が来た。希望の朝が」と、ラジオ体操でよく歌いましたね。朝は新鮮だし、朝日はとても心地よいものです。一方、夕方は、黄昏時です。日が沈み暗くなっていくわけですから、終わりのイメージですね。人生を例えるときも、夕暮れといえば、人生の終焉をイメージしますね。
 ところが、創世記の天地創造の記事では、最初に夕があり、そして朝があったと書かれています。先ほど見てきたように、この世界の初めは闇が覆っていました。しかし、神様の「光あれ」のひと言で光がもたらされたのです。ですから、夕があるけれど、その後に希望の朝が来るというこの創世記の書き方は、私たちに勇気を与えてくれると思うのです。
 私たちは、いつも朝のようにさわやかな人生を求めます。しかし、それが長く続くわけではありませんね。
 しばらく前に、埼玉県の教会で二年続けて「ライフ・ラインの集い」を開きました。そこに二年続けて来てくださった方が、私にこう言われたのです。「先生、昨年の先生の言葉に励まされました。」「どんな言葉で励まされたのですか」と尋ねますと、その方がこう言われたのです。「私が『関根先生はいつもさわやかでいいですね』と言うと、先生が『いやー、二時間が限度ですよ』って言われたんです。その言葉に励まされたんです。」ちょっと複雑な気持ちでしたね。
 私たちは、いつもさわやかでいたいと思っても、なかなかそうはいきませんね。疲れも出てくるし、辛いこともあるし、人生がいつも順調なわけではありません。でも、聖書は、夕のあとに朝が来ると教えています。詩篇30篇5節には「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」とあります。私たちの人生には、夕暮れに涙する日もあります。しかし、朝が来るのです。しかし、また夕になります。神様は、昼だけではなく、夜も創造なさいました。神様は、私たちに喜びだけでなく、苦しみや涙もお与えになります。しかし、それは神様が冷たい方だからではなく、夕があり朝があるからこそ、私たちは人として大切なことを学びながら、生きていくことができるのだと思うのです。そして、夕があるけれども必ず朝がくるという聖書が示す人生観は、私たちにいつも希望を持ちながら生きる道へと導いてくれるのです。
 今日は、創世記1章を読みました。「初めに、神が天と地を創造した」という言葉を信じ受け入れることは、自分自身の存在の意味を知り、神様の大きな助けがあることを知り味わいながら生きる人生となっていきます。また、一人一人が神様の愛を受け生きていくために造られた大切な存在であることを知ることができます。そのことを覚えて、今週も歩んで行きましょう。