城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年五月二日              関根弘興牧師
                   創世記一章一節ー五節
 創世記1ー11章連続説教1
   「すべてのはじまり」 
 
 1 初めに、神が天と地を創造した。2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。(新改訳聖書第三版)
 
 今週から何回かに分けて、聖書の最初の部分、創世記1章から11章までを読んでいきましょう。
 創世記1章から11章には、すべてのものの「はじまり」が記されています。天地のはじまり、人類のはじまり、罪のはじまり、神の救いの御計画のはじまり、家庭のはじまり、神様抜きの文化のはじまり、国々のはじまり、言語の混乱のはじまり、そういうことが記されているのです。
 
 だれでも「自分はいったい何者なのだろう?」「本当に自分は、価値ある存在なのだろうか?」「人生の意味は果たしてあるのだろうか?」「なぜ私という存在はこの世に生まれたのだろうか?」こんなことを考えることがあります。そして、こうした問いに関して答えを見つけようとするのですが、なかなか見つかりません。
 そこで、多くの人が、「まあ、あまり深く考えず、とにかく、元気を出しなさい。頑張りなさい。弱音を吐いてはいけません。もっと強くなりさない」と叱咤激励するわけです。それが悪いというわけではありませんが、人は、自らの存在の意味がわからない限り、いくら頑張っても虚しさを感じてしまうのです。
 お父さんと子供がこんな会話をしていました。
「おい、一生懸命がんばって、勉強しろ。」
「どうして勉強しなきゃいけないのさ。」
「勉強すれば、いい学校には入れるだろう」
「どうして、いい学校はいらなきゃいけないんだ。」
「そりゃ、いい学校に入ったら、いい仕事に就けるんだ。」
「いい仕事に就いたらどうなるの。」
「そりゃ、たくさん給料をもらうことができるんだ。」
「それじゃ、たくさん給料をもらったらどうするの。」
「たくさん給料もらったら、自分の家を建てられるんだよ。」
「家を建てたらどうするの。」
「ゆっくりのんびり休めるじゃないか。」
「ふ〜ん。それじゃ。ぼく勉強しなくてもいいや。もうのんびり休んでるから。」
 どうも、お父さんの説明は空回りだったようですね。
 人は、自分の存在や行動の意味や目的を知りたいという欲求を持っています。しかし、なかなか答えが見つからないし、確信も持てないわけです。
 では、人は、どうすれば自分の価値を知り、存在の意味を知ることが出来るのでしょうか。そのためには、「初め」に戻って考えることが必要なのです。
 創世記には、すべてのもののルーツが書かれています。また、天と地を創造された神様がどのようなお方であるかが書かれています。ですから、創世記を読むことによって、私たちは、自分の存在の意味や目的を確認することができるのです。
 
1 初めに、神が天と地を創造した
 
 それでは、まず、創世記1章1節を見ましょう。「初めに、神が天と地を創造した」と書かれていますね。
 聖書は、「神が存在するのか、しないのか」などという議論は一切しません。最初の一ページの一行目から、「初めに、神が天と地を創造した」と新聞の大見出しのように宣言しているのです。つまり、すべては、私たちがこの最初の一行を信じて生きることから出発するのだと聖書は教えているわけです。
 私たちは、時間の中に生きています。今日は、二〇二一年五月二日です。明日になれば、三日になるわけですね。「いや、私は二日のままです」という人はいません。もしいたとしたら、その人の時計が電池切れで止まっているだけですね。時間は、誰にでも同じように経過します。そして、時間は決して止まりません。動いています。それでは、この時間は、どこからスタートしたのでしょう。
 聖書の最初に書かれている「初めに、神が」という言葉は、時間の出発、また、すべてのもの出発が、神様に起因しているということを教えています。
 また、聖書の最後の書物である黙示録の1章8節には、こう書かれています。「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』」
 「アルファ」は、ギリシャ語のアルファベットの最初の文字であり、「オメガ」は最後の文字です。ですから、「わたしはアルファであり、オメガである」というのは、「わたしは、初めであり、終わりである」という意味なんですね。
 聖書は、歴史には、初めがあり、終わりがあるということを教えています。そして、その歴史を支配しているのは神様なのだと教えています。私たちが、こうして歴史の中の限られた時間の中で生きていることも、神様の存在なしにはあり得ないというのです。
 では、聖書が宣言している「神が天と地を創造した」という言葉は、私たちに何を教えてくれるでしょうか。
 
@私たちの存在は偶然ではない
 
 「すべてのものは偶然にできたのだ」と考えている人はたくさんいます。もし偶然が重なり合ってすべてのものができたとするなら、人は何の意味も目的も見いだすことができません。そもそも、偶然とは何の意味も目的もないということだからです。もし人間も偶然に誕生したとするなら、人生に何の意味も目的も見いだせないのは当たり前ということになりますね。
 しかし、実際には、この世界のすべてが偶然に出来たと証明することのできる確実な証拠は、まだ一つも見つかっていないのです。「すべては偶然に出来たのではないか」という仮説を立てた人がいて、それを信じている人がたくさんいるというだけなのです。
 実は、偶然が重なってこの世界ができたという説には、考えれば考えるほど疑問が出てきます。
 たとえば、サイコロの目は六つありますね。その目のひとつ、たとえば一が出るのは、六分の一の確率です。一が続けて二回出るのは、六を二乗して三十六分の一の確率になります。それでは、同じ目が続けて十二回出る確率はどのくらいだと思いますか。なんと二十一億七千六百七十八万二千三百三十六分の一の確率なんです。サイコロの同じ目が続けて十二回出るだけでも気の遠くなるような数の偶然が重なる必要があるわけです。ましてや、この世界のすべてのものが偶然から生まれたというは、到底信じがたいことだとは思いませんか。
 今、私の手元にiPadがあります。「箱の中に数種類の金属を入れて振っていたら、いつのまにか偶然にもこのiPadが出来たんですよ」と説明したら、あなたは信じますか。私は、信じません。
 ですから、クリスチャンでない科学者たちの中にも、研究すればするほど、この世界には「Something Great」、つまり、「何か偉大な存在」があるのではないかと感じる人がいるのです。
 聖書は、その「何か偉大な存在」こそ、天地を創造された神様だと教えています。最初の一行目から、この世界は偶然によってできたのではなく、神様に「造られたもの」だと教えているのです。
 造られたものには、造り手の意図や目的があります。
 たとえば、マイクはマイクとして造られました。マイクの目的は、こうして声を拡大したり録音したりすることです。
 私たちの身の回りのものはみな、何かの目的と意味をもって造られているのです。
 それは、私たちの存在にも言えることです。神様は、私たちを意図や目的をもって造られました。私たちの存在には意味があるのです。
 しばらく前ですが、ある教会で説教を頼まれました。私の説教の前に、一人の方が、どのようにクリスチャンになったのか、という話をしてくださいました。その方は、大手家電メーカーの営業部長をされていました。奥さんは、毎週日曜に礼拝に出かけるクリスチャンでした。しかし、ご主人は、仕事仕事の日々で、一度も教会に行くこともなく、定年を迎えました。定年後は時間があるわけですね。奥さんにこう言いました。「お前、こんどの日曜日は、教会まで車で送ってあげよう。」こうして、教会までの送り迎えが始まりました。そして、しばらくすると、「お前、一度でいいから教会の礼拝に来て欲しいって言ってたな。今度、一度、行ってやろう。」そして、礼拝に出席したのです。奥さんと一緒に初めて礼拝に出たのですが、奥さんは、その日の説教箇所にショックを受けてしまいました。創世記1章1節だったのです。奥さんは、「主人は、理屈っぽいから、『初めに、神が天地を創造した』なんて話を聞いたら、きっと、『馬鹿馬鹿しい。二度と教会には行かない』と言うのではないだろうか」と思ったそうです。しかし、ご主人の反応は違いました。「今日は、いい話を聞いた。神様が世界を造り、俺の命さえも造られたなら、俺のこれからの人生にも意味があるに違いない。」こう言って、続けて教会に行くようになり、クリスチャンになって洗礼を受けられたのです。
 神様が私たちをお造りになったということは、私たち一人一人の存在そのものに意味があるということなんですね。聖書には「神は愛です」と書かれています。神様の本質は、愛です。そして、愛には、愛する対象があります。私たちは、神様の愛を受ける対象として、神様に無条件で愛される存在として創造されたのです。
 
A神様が私たちの助けとなってくださる
 
 もしこのプロジェクターが壊れたら、どこに持っていきますか。近くのスーパーですか。違いますね。壊れたら、製造元に送りますよね。なぜなら、そこで造られたからです。製造元ならプロジェクターのすべてを知っていますから、どこが悪いのか調べて直すことができますね。
 では、私たち自身に問題があるときは、どこに行ったらいいでしょうか。もちろん、私たちを造ってくださった神様のもとに行くのが一番いいですよね。神様は、私たちのことをすべてご存じですから、私たちのどこに問題があるのか、どこを直せばいいのかがわかるのです。
 詩篇121篇1ー2節には、こう書かれています。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」私たちの助けは、天地を造られた主から来るのです。
 人生には、山のように立ちはだかる様々な問題が起こってきます。途方に暮れてしまうこともあるでしょう。しかし、「天地を造られた神様から助けがくる」と聖書は宣言しているのです。
 私たちは、聖書を通して、礼拝を通して、また、日々の生活を通して、神様こそ最もすばらしい助けを与えてくださる方だと知ることができるのです。
 
B祈り、ゆだねる生き方が始まる
 
 では、私たちの助けとなってくださる神様を知ると、こんどは、何が起こるのでしょう。祈ること、ゆだねることが始まるのです。
 人生にはいろいろなことが起こりますが、私たちにはなぜそんなことが起こるのかわからないことが本当に多いのです。「どうして?」という問いは、生きている限り続く問いです。 しかし、私たちは、創造者を知ることによって、「祈り、ゆだねる」ことを始めます。「神様、私にはわからないことがたくさんあります。だから、あなたにお任せします。ゆだねていきます」という姿です。
 詩篇42篇1ー2節には、こう書かれています。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」
 この詩篇の作者は、人生の一番困難なときに、神様の助けを求めています。木や石でできた神に求めるのではなく、生ける神様を求めているのです。聖書の神様は、生ける神様です。創造者である神様は、私たちの求めに、叫びに、耳を傾け、答えることのできる神様なんです。だから、この神様に祈り、ゆだねる姿が生まれてくるのです。
 
2 創造のみわざ
 
 そして、次の2節以降には、神様の創造のみわざが具体的に記されていきます。
 
@「光よ。あれ」
 
 神様は、どのようにしてすべてのものを創造なさったのでしょうか。3節に、こう書かれていますね。「神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」神様は言葉を発することによってすべてのものを創造されたのです。神様の言葉には、力があります。神様の言葉は、私たちのうちに働いて大いなるみわざをなしてくださるのです。
 2節に、この世界が造られたばかりのときの様子が書かれていますね。「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」地は茫漠として、つまり、形が無く、何もなく、闇の中にありました。別の訳では、「地は混沌としていた」と訳されています。
 しかし、混沌として闇に覆われた水の上を「神の霊が動いていた」とありますね。「ひょこりひょうたん島」の元プロデューサーで、後に牧師となられた武井博牧師が、聖書物語を書きました。その中で、この「神の霊が水の上を動いている」という箇所を、「神の愛が覆っていた」と書き記したのです。いい表現ですね。神様は愛そのものなるお方だからです。神様が闇と混沌の状態を愛をもって覆い、「光があれ」と仰せられると、光がもたらされたのです。なんと麗しい光景でしょう。そして、この世界に光が投じられたとき、秩序が生まれ、創造のみわざが進められていったのです。
 このことは、お互いの人生にもあてはまる真理です。神様は、私たちの人生の混沌や闇の中に光をもたらしてくださるからです。
 旧約聖書の預言者イザヤは、イザヤ9章2節でこう預言しました。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」また、新約聖書のヨハネの福音書1章9節には、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」と書かれています。
 ご承知の通り、イザヤが預言した「やみの中を歩んでいる民に与えられる大きな光」、ヨハネが記した「すべての人を照らすまことの光」とは、イエス・キリストのことです。イエス様は、私たちの闇を照らし、私たちの混沌とした状態に秩序を与え、私たちの人生を新しく形造ってくださるお方なのです。
 この世界の創造のみわざは、光が与えられることからスタートしました。同じように、私たちの人生は、光なるイエス・キリストが来てくださることによって、新しく造りかえられていくのです。
 
A夕があり、朝があった
 
 さて、4-5節には、こう書かれています。「神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。」
 この「第一日」という言葉を今と同じ二十四時間と考えるのか、それともある一定の期間を表すのか、様々な説があります。しかし、大切なのは、神様がこの世界を造られたということです。神様は第一日から第六日までの間にすべてのものを造られました。そして、それぞれの日の最後は「夕があり、朝があった。第何日」と締めくくられています。
 夕が先で朝が後という順番は、大変興味深いですね。なぜ「朝があり、夕があった」ではないのでしょう。
 私たちにとって一日の「はじめ」のイメージは、朝ですね。「新しい朝が来た。希望の朝が」とラジオ体操でも歌いますね。朝は、新鮮だし、朝日はとても心地よいものです。一方、夕方は、黄昏時です。日が沈み暗くなっていくわけですから、終わりのイメージですね。私たちは、人生を例えるときも、だんだん夕暮れに近づいているといえば、人生の終焉をイメージするでしょう。
 ところが、創世記の天地創造の記事では、最初に夕を迎えてから朝が訪れるのです。もちろん夕方のあとに朝が来るのは当たり前ではあるのですが、この創世記の書き方に私たちの人生を重ね合わせて考えることができるのではないかと思うのです。
 私たちは、いつも朝のようにさわやかな人生を求めます。しかし、それが長く続くわけではありませんね。
 しばらく前に、埼玉県の教会で二年続けて「ライフ・ラインの集い」を開きました。そこに二年続けて来てくださった方が、私にこう言われたのです。「先生、昨年の先生の言葉に励まされました。」「どんな言葉で励まされたのですか」と尋ねますと、その方がこう言われたのです。「私が『関根先生はいつもさわやかでいいですね』と言うと、先生が『いやー、二時間が限度ですよ』って言われたんです。その言葉に励まされたんです。」ちょっと複雑な気持ちでしたが、でも、いつもさわやかでいたいと思っても、なかなかそうはいきませんね。疲れも出てくるし、辛いこともあるし、人生はいつも順調ではありません。
 でも、聖書は、夕のあとに朝が来ると教えます。詩篇30篇5節には「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」とあります。私たちの人生には、夕暮れに涙する日もあります。しかし、その後に朝が来るのです。涙のあとには、喜びが来るのです。しかし、また夕になります。神様は、昼だけではなく、夜も創造なさいました。神様は、私たちに喜びだけでなく、苦しみや涙もお与えになります。しかし、それは神様が冷たい方だからではなく、夕があり朝があるからこそ、私たちは人として大切なことを学びながら、生きていくことが出来るのではないかと思うのです。そして、夕があるけれども必ず朝がくるということに、私たちは希望を持って生きていくことができるのです。
 
 さて、今日は、創世記1章の冒頭の箇所を読みました。
 「初めに、神が天と地を創造した」という言葉を受け入れることは、自分自身の存在の意味を知り、神様の大きな助けを受けながら生きる人生のスタートです。私たちが今日生きているこの時間も空間も神様によって造られたことを確信し、また、一人一人が神様の愛を受け取るために造られた大切な存在であることを覚えて、今週も歩んで行きましょう。