城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二五年一月一九日            関根弘興牧師
               創世記一章二六節ー二章七節
 
 創世記から士師記まで2
   「人の創造」 
 
 26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。
 1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
 4 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。6 ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。7 神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。(新改訳聖書第三版)
 
 前回お話ししましたように、聖書は「初めに、神が天と地を創造した」という言葉で始まっています。「この世界のすべてのものは、神様が意味や目的をもって造られたのだ」というのです。この宣言を信じ受け取るかどうかで、私たちの生き方が変わっていきます。
 「神などいない。この世界は偶然が重なってできたのだから、何の意味も目的もない」と考える人もたくさんいますね。しかし、世界が偶然によってできたという証拠は、何一つ見つかっていないのです。それどころか、宇宙の天体の運行、地球の絶妙な位置、自然界の水や炭素の循環、食物連鎖、また、人のからだのしくみなどを見ても、それらがすべて偶然できたと考えるのには非常に無理があるのです。「入れ物の中に何種類かの金属を入れて振っていたら、偶然、スマホができました」と言っても信じられませんよね。それと同じくらい「この世界が偶然に出来た」というのは、確率的にも無理があるのです。かえって、クリスチャンでない科学者たちの中にも、この世界の背後に「何か偉大なもの(something great)」があると感じている人たちがたくさんいるのです。
 聖書が教えているとおり、私たちを造った神様がおられるならば、私たちの存在は決して偶然はなく意味があります。神様が私たちを造ったなら、神様は、私たちのことをすべて理解し、必要な助けを与えることができるということですね。私たちは、その神様に祈り、委ね、信頼しながら人生を歩んでいくことができるのです。
 さて、前回は創世記1章の天地創造の経緯を見ました。第一日から第六日までに様々なものが造られたと書かれていますが、この「第○日」というのは、二十四時間の一日というよりは、「第一段階」とか「第一期」という意味で理解するといいでしょう。
 また、創造の光景は、地球上から見た視点で記されていると考えられます。できたての地球は、混沌として闇の中にありましたが、神様の霊が水の上を覆い、そこから麗しい世界と様々な生きものが造られていきました。そして、最後に人が造られたわけです。
 この創造の記録を読んでいくと、神様が人のために様々なものを造り、非常に良い世界を準備してくださったことがわかります。その意味では、人間中心の世界が造られたといっても過言でありません。ですから、人には大きな特権と共に、この世界を適切に管理する責任が与えられているのです。では、神様は、人をどのようなものとして造られたのでしょうか。
 
1 人の創造
 
 ところで、創世記1章1節から2章3節までと2章4節からの内容は、分けて考えるほうがいいでしょう。2章3節までは、天地創造の全体的な記録ですが、2章4節からは、創造の第三日あたりの状態から始まって、人を中心にした出来事が詳しく記録されているのです。ですから、人がどのように造られたかについても、1章26節ー28節と2章7節の二箇所に分けて書かれています。見ていきましょう。
 
(1)人は、神のかたちに似せて造られた
 
 まず、1章26節を見ると、こうありますね。「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。』」人は、神様に似せて造られたというのです。
 ここで、神様はご自分のことを「われわれ」と言っておられます。これは、神様が何人もおられるという意味ではありません。申命記6章4節に「主は私たちの神。主はただひとりである」とあるとおり、聖書は神様は唯一の存在であると教えています。では、なぜ「われわれ」という言葉が使われているのでしょうか。一つは、「威厳の複数」の表現ではないかと考えられます。権威ある王様などが自分を指すときに「われわれ」と言うことがあるからです。また、この「われわれ」という表現は、三位一体なる神様を表していると考えることもできます。 「三位一体」とは、「唯一の神に三つの位格がある」という意味です。「位格」とは、人間の「人格」にあたるもので、神様に「人格」というのはおかしいので、「位格」という言葉を使っているのです。もう少し詳しく言いますと、「唯一の神様には、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神、という三つの位格がある。そして、この父、子、聖霊は同じ本質をもっておられ、いつも一つの思いと目的を持って共にみわざをなされる。だから、真の意味で一体なのである」ということです。これは私たちの頭で理解することは難しいことですが、聖書は、唯一の神様がおられ、その神様は三位一体の方であると教えているのです。そのことは聖書のいろいろな箇所に示されています。天地創造のときも「神の霊が水の上を動いて」いて、神様が「光があれ」と言葉を発せられると光ができました。そして、ヨハネの福音書には、御子イエスこそ神のことばであり、この方によってすべてのものが造られたと書かれています。つまり、三位一体なる神様によって天地創造のみわざが行われたというのですね。
 人は、その三位一体の神様のかたちに似せて造られたというのです。すごいですね。「それでは、神様も私たちと同じように手や足があるんですか」と思う人がいるかもしれませんが、そうではありません。神に似せて造られたというのは、神様の特性を受け継いでいると言うことなのです。それは、具体的には一体どういうことなのでしょうか。
 
@人は、霊的な存在である
 
 2章7節に「神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」とありますね。「神様がいのちの息を吹き込まれた」と書かれているのは、人だけです。日本語で「あいつは俺の息のかかった人間だ」なんて表現をしますが、聖書は「人は神様の息のかかった存在だ」と教えているわけですね。この「いのちの息」とは、別の言葉で言い換えれば「神様の霊」ということです。人は、神様の霊が吹き込まれた存在なのだというのです。どういうことかといいますと、「人は、神様に向かって祈り、叫び、賛美し、あがめ、礼拝することのできる存在、すなわち、神様と応答し合うことのできる存在として造られている」ということなのです。
 伝道者の書3章11節に、「神は、人の心に永遠を与えられた」とあります。人には、永遠を思う心が与えられているのです。人は、誰にも教えられなくても、永遠を思う心があります。それは、人間が肉体だけの存在でなく霊的な存在として造られているからです。
 
A人は、お互いの関わり中で生きる存在である
 
 私たちの神様は、三位一体なる神様です。神様は、父、子、聖霊の三つの位格が一体となり、完全な愛と交わりと調和のうちに存在しておられます。その神様に似せて造られたということは、私たちも、他の人と関わり、愛し合い、調和を持って歩むことができる存在として造られているということなのです。本来、人は調和の中に安息を見いだす存在として造られていいます。つまり 人は、自分一人で生きるようには造られていないのです。
 残念ながら、3章に入ると、神様との霊的な関係も人間同士の愛と調和の関係も破壊されてしまい、その後は様々な問題が起こっていく歴史を見ることになります。そして、現代では、人間関係に疲れたり、人間関係に問題があるために生じる「孤独」が大きな問題になっていますね。しかし、人とは本来、愛と調和の中に生きる存在として造られているのだということを覚えておいていただきたいのです。
 
B人は、知的な存在である
 
 神様は、お造りになった人に使命をお与えになりました。1章28節で、神様は人に「すべての生きものを支配せよ」とお命じになりました。また、2章19節では、神様は、お造りになった生き物に名前を付ける仕事を人にお任せになりました。つまり、人は、生き物の特徴や性質を知り、それに似合った名前で呼び、支配する能力が与えられたということですね。神様のように知的な存在として造られたのです。
 神様が人に与えてくださった知性はすばらしいものです。人は、宇宙に進出たり、海の深みに潜ったり、インターネットや人工知能を開発したり、病原菌や治療方法を発見したり、原子力を利用したり、様々な分野で驚くほどの知性を発揮していますね。しかし、その知性を本来の使命のために使わずに、間違った使い方をするととんでもないことになってしまいます。もし、人間が自分の知恵や力を乱用して欲望のままに身勝手に支配したら、この世界は破壊され、とんでもないしっぺ返しをくらうことになるのです。これまでの歴史を見てもわかりますね。
 神様は人に「すべてのいきものを支配せよ」と言われましたが、誤解しないでください。この「支配せよ」という言葉は、「独裁者のようになれ」という意味ではなく、「管理せよ」という意味です。生きものそれぞれの特性を知り、見極め、管理し、ふさわしく養い、最終的にこの世界を創造された神様のすばらしさがあがめられるようにせよ、ということなのです。そのために必要な知的な能力が人に与えられたのです。
 ある人は、このことをオーケストラにたとえて説明しました。神様は作曲家です。そして、人は、その作曲家の意図に従って演奏する指揮者です。すべての生き物は、それぞれの音色を奏でる楽器です。みなさん詩篇150篇を読むとおもしろいですね。「息あるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ」と書かれているんです。すべての息あるものを指揮して主をほめたたえる素晴らしい演奏をさせることが、人間の役割だというわけです。人は、本来、神様がお造りになったものを適切に管理することが出来る知的な存在として造られたのです。
 
(2)人は、地のちりから造られた
 
 このように、人は神様のかたちに似せて造られました。
 しかし、その材料は、決して高価で貴重なものではありませんでした。2章7節に書かれているとおり、神様は、土地のちりで人を形造られたのです。辞書を見ると、「ちり」とは「利用価値のないこまごました汚いもの。全く値うちのないもの」とあります。神様は、全く価値のない土地のちりから人を造られたというのです。
 もし、神様がダイヤモンドから人を造られたなら、どうでしょう。きらきら輝いて脚光を浴びそうですね。それに、とても硬いので、何がぶつかってきても相手を打ち砕いてしまうでしょうね。もし、人が鋼鉄で造られたとしたらどうでしょう。まるでスーパーマンのような存在になったことでしょう。ただし、ちょっとひんやりと冷たい存在になったかもしれませんね。
 ところが、神様は、私たち人間を、最も価値のない、そして、吹けば飛んでしまうような地のちりから形造られたのです。ダイヤモンドや鉄のような強靱な存在としてでなく、脆く壊れやすい弱い存在として造られたのです。
 旧約聖書はヘブル語で書かれましたが、「人」と訳される言葉はヘブル語では二つあります。一つは「アダム」という言葉です。これは「ちり」とか「土」を意味する「アダーマー」から造られた言葉です。「人」は「土くれ」なのだというわけですね。そして、もう一つは「エノシュ」という言葉です。これは「弱い」という言葉からできたものです。つまり、人間とは、本来、土くれにすぎず、弱い存在なのだ、と聖書は教えているのです。
 しかし、皆さん、神様は、そんな弱い、壊れやすい、ちりに過ぎないような人をご覧になって、なんと「非常に良い」と言われたのです。私たちは、「非常に良い」という言葉をどのような時に使いますか。健康で物事が完璧に進んでいる時や、また見るからに美しい作品ができたら「非常に良い」と言いますね。でも、神様は、ちりから造られた脆い人に対して「非常に良い」と言ってくださったのです。神様は、私たち一人一人にも「非常に良い」と言ってくださる方です。弱く脆い土くれに過ぎない私たちを、大切なものとして扱ってくださるのです。
 ただ、私たちは、自分がそのように弱く脆い存在であることを忘れてしまいがちです。自分が鋼で出来ているかのように勘違いして、高慢になり、失敗するのです。
 自分が弱い土くれにすぎないことを自覚することは、私たちにとって大切なことです。弱い器だからこそ、神様に信頼し生きていく必要を知ることができるからです。
 それと同時に、私たちには、神様のいのちの息が吹き込まれていることを覚えましょう。私たちは、土くれの器の中に神様の御性質を反映させている存在です。弱いけれど、神様は非常に良いもの、尊いものとして見てくださっているのです。
 
2 創造のみわざの完成
 
 さて、2章1節を見ると、「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された」とあります。「完成された」といっても、まったく変化がなくなったということではありません。自然は移り変わり、植物も動物も人も生命の循環を続けています。ですから、ここで「完成された」というのは、「世界があらゆる面で調和のとれた状態になった」という意味なのです。
 そして、2章3節には、「神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである」と書かれています。
 「神様が創造のみわざを休まれた」とは、どういう意味でしょうか。「神様はすべてのみわざを成し終えて引退し、今は天の御住まいで休まれている」というようなイメージを持つなら、それは間違いです。ヨハネ5章17節でイエス様は「わたしの父は今に至るまで働いておられます」と言われました。また、詩篇121篇には「神様はまどろむこともなく眠ることもなく、いつもとこしえまでも守ってくださる方だ」と書かれています。
 ですから、ここで「休まれた」と書かれているのは、「何のみわざもしない」ということではなく、「創造のみわざを休まれた」、つまり、「新たに別のものを創造することはなさらなかった」という意味なのです。
 神様の絶え間のない介在がなければ、この世界の運行や私たちのすべての営みは一瞬たりとも継続できません。神様は、創造の初めから今に至るまで、この世界を治め支え続けてくださっているのです。
 それから、「第七日目を祝福された」と書かれていますが、どういう意味でしょうか。それは、「神様は、第七日目に、創造したすべてのものを祝福することに専念された」ということなのです。
 第六日目までは「夕があり朝があった」という言葉で締めくくられていましたね。しかし、第七日目には「神様は、第七日目を祝福された。そして、夕があり朝があった」というふうには書かれていないのです。つまり、創造のみわざが完成した後は、神様の祝福が絶えることなく今に至るまで継続していているということなのです。私たちもその祝福の延長線上に生かされています。私たちには、毎日主の祝福が注がれ続けているのです。その意味では、第七日目が今に至るまで続いていると考えることもできるわけですね。
 また、「神様は第七日目を聖であるとされた」と書かれていますね。「聖」とは、「分離されている」「ほかのものから取り分けられている」という意味です。
 後にモーセを通して与えられた十戒の中で神様はこうお命じになりました。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」つまり、神様が第七日目を聖であるとされたのは、私たち一人一人が主の創造のみわざを思い起こして、主に感謝し、賛美し、礼拝し、応答していくときとして、特別な日を取り分けることが大切だということ、そして、それが神様の継続的な祝福につながっているということを教えているのです。
 ところで、十戒の戒めだけ読むと「まず六日間働いてから、七日目に安息しなさい」という意味のように思えますね。でも創造の出来事を思い起こしてみてください。人が造られたのは第六日目ですね。ということは、人が造られた次の日が第七日の安息日なんです。つまり、人は、まず安息してから日々の生活をスタートするように造られたわけですね。まず、神様のみまえで安息し、神様のみわざをほめたたえることから一週間が始まるのです。そして、その私たちの人生を神様が祝福すると約束してくださっているのです。
 その祝福が具体的にどのようなものかは、一人一人違うでしょう。でも、私たちがまず神様を礼拝し、自分がちりに過ぎない弱い存在であることを認め、神様の祝福と恵みを祈り求めるとき、神様はかならず必要を満たしてくださいます。それとともに、自分が神様の似姿に造られたこと、そして、自分が神様に愛されている尊い存在であることを喜び、自信と誇りをもって神様とともに歩んで生きましょう。そういう生活の中で、私たちは本来の自分を知り、本来の自分を生きることができるようになっていくのです。