城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年五月九日              関根弘興牧師
                創世記一章二六節ー二章七節
 
 創世記1ー11章連続説教2
   「自分を知り、自分を生きる」 
 
 26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。21 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。4 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。6 ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。7 神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。(新改訳聖書第三版)
 
 今日は、創世記1章から11章までの連続説教の2回目です。私たちは、聖書の最初の書物である創世記を学ぶことによって、すべてのもののはじまりについて知ることが出来ます。
 前回は、この世界のはじまりについて学びました。
 1章1節に、「初めに、神が天と地を創造した」と宣言されています。この世界は神様の創造のわざによって始まったのだというのですね。
 この聖書の宣言を信じるか信じないかによって、私たちの生き方は大きく変わります。
 すべてが偶然にできたという説を信じる人は多いですが、もしそうなら、私たちの存在も偶然であり、何の意味も目的もないことになります。しかし、科学者の中にも「この世界の背後には何か大きな意志が働いている」と感じている人はたくさんいますし、何よりも、私たち人間は、皆、意味や目的のない人生には耐えられないようにできているのです。
 聖書は、神様が愛と知恵をもってすべてのもの、そして、私たち人間も造ってくださったのだから、その神様を信頼して生きることこそ人として最も相応しく満足できる生き方だと教えています。神様に造られたのなら、私たちの存在には意味や目的があります。私たちにとって最善の生き方を知っておられるのも神様ですし、私たちが傷ついたときに直すことができるのも神様です。神様は私たちのすべてをご存じだからです。ですから、私たちは、「私の助けは、天地を造られた主から来る」と告白し、神様に祈り、ゆだねながら生きていくことができるのです。
 そして、2節からは、その天地創造の詳しい経緯が、地球上から見た視点で記録されています。
 この順番について、神話にすぎないと考える人もいますが、実は、科学的にも妥当だと考えている人もいるのです。
 まず、宇宙ができ、原始の地球ができたとき、地球は茫漠とした(混沌とした)状態でした。最初はかなりの高温で、水蒸気と二酸化炭素に覆われていたと考えられます。しかし、地球が冷えてくると水蒸気が水と空気中の雲に分かれていくにつれて、大気が透明になってきて太陽の光が届くようになり、植物が造られて二酸化炭素を酸素に変える働きが始まり、空気が更に澄んで太陽や月や星が見えるようになり、魚や鳥や動物が造られ、最後に人が造られたのだろうというのですね。
 私たちは実際に見たわけではないので、本当に何がどのように起こったのかを知ることはできません。でも、神が天地万物を造られたという聖書の宣言を単なる神話や作り話として無視することはできないのだということは覚えておいていただきたいのです。
 
1 人とは
 
 さて、すべてのものの最後に人が創造されました。その時、すべての創造のわざが完成したと聖書は教えています。そして、31節にこう書かれていますね。「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」ところが、今、私たちは自分自身が非常に良いと思えるでしょうか。
 私たちには、三つの自分があると言われます。
 第一は自分が思っている自分です。「あなたは、どんな人ですか」と問われたら、皆さんは何と答えますか。私の性格は明るいとか、暗いとか、自分が考えている自分の姿がありますね。 第二は、他人が思っている自分です。たとえば、「関根さん。あなたはいつも明るくていいですね」と言われるんですが、自分でそう思わなくても、人に言われると「そうなのかな」と思ってしまう自分があるわけです。もし、いつも同じことを言われ続けたらどうでしょう。いつの間にか「そうに違いない」と思い込んでしまうでしょう。たとえば、「あなたは駄目な人間だ。愛される価値がない」と言われ、そのような態度を示され続けたら、そう思い込んでしまうでしょうね。人の言葉や態度によって作られてしまう自分のイメージがあるわけです。
 第三は、「人は、私のことをこのように思っているに違いない」と勝手に思い込んでいる自分です。本当は誰もそう思っていないのに、「みんな、私のことをこう思っているに違いない」と勝手に思い込んでしまっているのです。遠くで笑っている人をみると、「私を馬鹿にして笑っているに違いない」と思ってしまうのですね。実はこれが大変多いのです。
 ある小学生が、その日学校で習った歌を父親に聞かせました。「コガネ虫は金持ちだ。金蔵建てた。蔵建てた・・・。」すると、父親は激怒して息子を叱りつけたそうです。「自分の貧乏を馬鹿にされた」と思ってしまったというのです。
 このように「自分が思っている自分」「他人が思っている自分」「人がこう思っているに違いないと自分で勝手に思いこんでいる自分」があるわけです。この三つは、必ずしも一致するわけではありません。また、どの自分も状況や環境によって変化する不安定なものですね。ですから、「私は一体どういう存在なのだろうか。本当に価値があるのだろうか。愛される存在なのだろうか」と迷ってしまうことが多いのです。
 しかし、実は、もう一つの大切な自分があります。それは天地を創造された神様が見ておられる自分です。神様が私をどのような意味や役割をもった存在と見ておられるのかということです。それを知る時に、私たちは、自分について、はっきりとした確信を持つことが出来るようになるのです。
 神様が私たちをどう見ておられるのか、ということは、聖書のいろいろな箇所に記されてますが、まず、今日の箇所から、人がどのように造られ、どのような存在であるのかを確認していきましょう。
 
(1)人は、神のかたちに似せて造られた
 
 1章26節に、こう書かれています。「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。』」人は、神様のかたちに似せて造られたというのです。
 ここで、神様はご自分のことを「われわれ」と言っておられます。もちろん神様が複数おられるということではありません。私たちの神様は、三位一体なる神様です。「三位一体」とは、「神は唯一だが、三つの位格をもっておられる」という意味です。「位格」とは、人間の「人格」にあたるもので、神様に「人格」というのはおかしいので、「位格」という言葉を使っているのです。もう少し詳しく言いますと、「唯一の神様には、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神、という三つの位格がある。そして、この父、子、聖霊は同じ本質をもっておられ、いつも一つの思いと目的を持って共にみわざをなされる。だから、真の意味で一体なのである」ということです。これは私たちの頭で理解することは難しいことですが、聖書は、唯一の神様がおられ、その神様は三位一体の方であると教えているのです。
 私たち人間は、この三位一体の神様に似せて人は造られました。つまり、三位一体なる神様の特性を受け継いでいると言うことです。具体的には一体どういうことなのでしょう。
 
@人は霊的な存在である
 
 2章7節に「神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」とありますね。人にだけ、「神様がいのちの息を吹き込まれた」と書かれているのです。人は、「いのちの息」、別の言葉で言い換えれば、「神様の霊」が吹き込まれた存在として生かされているというのです。どういうことかといいますと、「人は、神様に向かって祈り、叫び、賛美し、あがめ、礼拝することのできる存在、すなわち、神様と応答し合うことのできる存在として造られている」ということなのです。
 伝道者の書3章11節には、「神は、人の心に永遠を与えられた」とあります。人には、永遠を思う心が与えられているのです。人は、誰にも教えられなくても、永遠を思う心があります。それは、人間が肉体だけの存在でなく霊的な存在として造られているからです。
 
A人は互いの関わり中で歩んでいく存在である
 
 私たちの神様は、三位一体なる神様です。神様は、父、子、聖霊の三つの人格が一体となった完全な愛と交わりと調和のうちに存在しておられます。その神様に似せて造られたということは、私たちも、他の人と関わり、愛し合い、調和を持って歩むことができる存在として造られている、ということなのです。
 人は、本来、自分一人で生きるようには造られていないのです。ときどき一人の時間を静かに持つことは大切ですが、現代社会では「孤独」が大きな問題になっていますね。孤独によって様々な不調や病が引き起こされます。人は本来、他者との関わりの中で愛し、愛されながら生きていく存在として造られているからなんです。
 
B人は知的な存在である
 
 26節で、神様は「人がすべてのものを支配するように」と言われました。また、今日の箇所ではありませんが、2章19節を見ると、神様は、お造りになった生き物に名前を付ける仕事を人にお任せになりました。
 人が神のかたちに似せて造られたということは、神様のように知的な存在として造られたということでもあります。そして、人には、生き物の特徴や性質を知り、それに似合った名前で呼び、支配する能力が与えられているというのです。
 ただ、誤解しないでいただきたいのですが、「すべてのものを支配する」というのは、人間が自分の力を乱用して欲望のままに支配するという意味ではありません。この「支配せよ」という言葉は、「管理せよ」という意味です。それぞれの特性を知り、見極め、管理し、ふさわしく養い、最終的に神様のすばらしさがあがめられるようにせよ、ということです。人には、そうした知的な能力が与えられているというのです。
 ある本では、このことをオーケストラにたとえて説明していました。神様は作曲家です。そして、人は、その作曲家の意図に従って演奏する指揮者です。すべての生き物は、それぞれの音色を奏でる楽器です。詩篇150篇には「息あるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ」と書かれていますが、すべての息あるものを指揮して主をほめたたえる素晴らしい演奏をさせることが人間の役割だとありました。人は知的な存在として、また、神様がお造りになったものを管理することが出来る存在として造られたのです。
 
(2)人は、土から造られた
 
 人は、神様に似せて造られましたが、その材料は、決して高価で貴重なものではありませんでした。2章7節に、こう記されています。「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」
 人間の材料は、なんと「ちり」です。辞書で調べると、「ちり」の意味は、「利用価値のないこまごました汚いもの。全く値うちのないもの」と記されています。神様は、全く価値のないちりから人を造られたというのです。
 もし、神様がダイヤモンドから人を創造されたなら、どうでしょう。なんだかきらきら輝いて、何がぶつかってきても、その強度で相手を打ち砕いてしまうでしょうね。鋼鉄で造られたとしたらどうでしょう。まるでスーパーマンのような存在になったことでしょう。でも、ちょっとひんやりと冷たい存在になったかもしれませんね。
 しかし、神様は、私たち人間を、最も価値のない、そして、吹けば飛んでしまうちりから形造られたのです。私たちをダイヤモンドや鉄のような強靱な存在としてでなく、もろい、壊れやすい弱い存在として造られたということなのですね。
 旧約聖書はヘブル語で書かれましたが、「人」と訳される言葉はヘブル語では二つあります。一つは、「アーダーム」という言葉です。これは、「ちり」とか「土」を意味する「アダーマー」から造られた言葉です。「人」は「土くれ」なのだというわけですね。そして、もう一つ「人」と訳される言葉は、「エノシュ」という言葉です。これは、「弱い」という言葉から出来たものです。つまり、人間とは、本来、土くれにすぎず、弱い存在なのだ、と聖書は教えているのです。
 しかし、皆さん、神様は、そんな弱い、壊れやすい、ちりに過ぎないような人をご覧になって、なんと「非常に良い」と言われたのです。
 私たちは、「非常に良い」という言葉をどのような時に使いますか。健康で物事が完璧に進んでいるときですね。見るからに美しい作品ができたら「非常に良い」と言いますね。でも、神様は、人をもろいちりから創造して「非常に良い」と語りかけてくださったのです。
 神様は、今日も私たち一人一人を見て、「非常に良い」と言ってくださるのです。弱くもろい土くれに過ぎない私たちを大切なものとして扱ってくださるのです。
 ただ、私たちは、自分がちりで造られた弱くもろい存在であることをいつも心にとめておくことは大切です。私たちは強さを求めます、力を求めます、でも私たちは弱い土くれにすぎないのです。だからこそ、私たちを形造られた神様を信頼しないひとりよがりの人生は、はなはだ危険であることを知らなければなりません。
 私たちは、土くれの器の中に神様の御性質を反映させている存在です。弱いけれど、神様の目には非常に良い尊い存在として造られているのです。
 
2 創造の完成
 
 さて、2章1節を見ると、「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された」とあります。「完成された」とありますが、神様は全く動かない置物を造られたわけではありません。植物は花を咲かせ、木々は生長し、人も動物も増えて生き続けていくわけです。ですから、ここで「完成された」というのは、「世界が調和のとれた、生き動き成長していくものとして完成された」という意味です。
 そして、3節を見ると、「神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである」と記されています。
 「神様が創造のみわざを休まれた」とありますが、一体どういうことでしょうか。「神様が、すべての働きを終えて引退し、今は、天の住まいで休まれている」というようなイメージを持っているなら、それは間違いです。ヨハネ5章17節でイエス様はこう言っておられます。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。」と。神様はいつも休むことなくみわざを行っておられるのです。ですから、ここで「休まれた」と記されているのは、「いっさい何もしない」ということではありません。「創造のみわざを休まれた」、つまり、「新たに別のものを創造することはなさらなかった」という意味なのです。
 神様の絶え間のない介在がなければ、この世界の運行や、私たちのすべての営みは一瞬たりとも継続できません。神様は、創造の初めから今に至るまで、この世界を治め、支えて続けてくださっているのです。
 さて、創造のみわざが六日で完成し、神様は第七日目に休まれ、そして、この第七日目を祝福されたと書かれていますね。
この「第七日目を祝福された」とは、どういう意味でしょうか。それは、「神様は、第七日目には、創造したすべてのものを祝福することに専念された」ということなのです。第六日目までは、「夕があり朝があった」という言葉で締めくくられていましたね。しかし、第七日目には、この言葉はもう出てきません。「神様は、第七日目を祝福された。そして、夕があり朝があった」というふうには書かれていないのです。つまり、神様の祝福は、創造の完成した後は、絶えることなく継続しているのだということです。私たちは、この祝福の延長線上の中で生かされているということなのです。
 哀歌3章22ー23節には、こう書かれています。「私たちが滅びうせなかったのは、の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。」私たちには、毎日主の恵みが注がれ続けているのです。
 私たちの人生には、祝福とは言い難いこともいろいろ起こりますね。先週もお話ししたように、暗くなるばかりの夕闇が迫ってくるようなことが起こるわけです。いったい、どこに神様の祝福があるのだろうと思わされることもありますね。しかし、聖書は、そのような経験を通しても、さらに神様の祝福と恵みを味わうことができると約束しているのです。
 それから、神様は、「この日を聖であるとされた」と書かれています。「聖」とは、「分離されている」「ほかのものから取り分けられている」という意味です。神様は、第七日目を、神のかたちに造られた私たち一人一人が、主を思い、賛美し、礼拝し、応答していく時として定めてくださっているということなのです。 
 
 自分を知り、自分を生きるということは、神様なしには出来ません。私たちは、ちりにすぎない弱い存在です。しかし、神のかたちに似せて造られた高価で尊い存在です。こうして礼拝を捧げ、神様の大きな愛のみ手の中で歩むことがゆるされていることを喜び、生かされていることに自信と誇りをもって歩んでいきましょう。