城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年五月二三日            関根弘興牧師
                 創世記三章一節ー一三節
 
 創世記1ー11章連続説教3
    「はじめの誘惑」 
 
 1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(新改訳聖書第三版)
 
 以前、朝日新聞の「天声人語」に、こんなことが書かれていました。「長い人生は、失意の連続である。失策、失意、失態、失言、失敗を重ねては失笑を買う。生きている限り『失』との戦いである。」確かに、私たちは、いろいろものを得る反面、いろいろなものを失うという経験をしていきます。それが人生かもしれません。
 しかし、人生の中で決して失ってはいけないものがあります。それをしっかりと理解しておくことが非常に重要なのです。
 創世記は、「初めに、神が天と地を創造された」という一行から始まります。そして、この世界やいろいろなもののはじまり、ルーツを記しています。ルーツを探ることは、物事の本質を知る最良の方法です。人とはいったいどういう存在なのかを知りたければ、創世記を読むといいのです。
 前回、お話ししましたように、創世記には、人が特別な存在として、神のかたちに似せて造られたと書かれています。といっても、人の材料は、何の価値もない土地のちりです。つまり、人は、本来、もろく、弱い存在なのです。しかし、神様は、人に御自分のいのちの息を吹き込んで、神のかたちに似た者としてくださいました。それは、私たちが神様に対して応答することのできる存在、神様に祈り、叫び、賛美し、感謝することができる存在、神様に愛され、神様を愛することのできる存在として造られたということです。そして、神様は、人をお造りになったとき、「非常に良い」と言われたのです。
 ところが、人は、その後、大切ないろいろなものを失ってしまうことになります。そのきっかけとなった出来事が今日の箇所に記されているのです。
 まず、今日の箇所の直前に書かれている出来事を見ておきましょう。
 神様は、最初にお造りになった人アダムをエデンの園というすばらしい場所に住まわせてくださいました。そこには、食べるによい様々な実をつける木々が生え、人は自由に取って食べることができました。園を潤す川も流れていました。
 しかし、足りないものがありました。人にとってふさわしい助け手が見当たらなかったのです。そこで、神様は、人を深く眠らせて、彼のあばら骨の一つを取り、ひとりの女エバをお造りになりました。女性は男性のあばら骨から造られたわけです。これは、とても大切な意味があると思いませんか。もし、男性の足の骨から造られた、というなら、女性はいつも踏まれるばかりの存在のような感じがしますね。まるで奴隷のようです。また、頭の骨から造られたら、男性を支配するような存在となったかもしれません。しかし、あばら骨から造られたということは、お互いが対等の存在として造られたということでしょう。そして、人の最も大切な心臓に近い骨から造られた女性は、本来、男性にとって、とても大切な存在だということでもあるわけです。2章23節で、アダムはエバに向かってこう言っています。「私の骨からの骨。私の肉からの肉。」これは世界最初のラブ・ソングですね。そして、24節には、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」とあります。二人は、平和と調和の中でひとつとなっていたわけですね。
 ところが、今日の箇所では、その二人の麗しい姿が失われてしまう出来事が起こりました。蛇がこの二人を誘惑するためにやってきたというのですね。
 聖書では、サタンが蛇の姿で登場します。サタンは、人を誘惑し、神様と人との麗しい関係を破壊し、人を神様から引き離して滅ぼしてしまおうとする存在です。そのサタンの誘惑を、最初の人であるアダムとエバは退けることができませんでした。その結果、人が抱える根本的な問題である「罪」と「死」がもたらされたのだと聖書は教えているのです。
 神様は、人をエデンの園に住まわせ、満ち足りた生活をさせてくださいました。しかし、神様は、一つの禁止命令を人にお与えになりました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(2章16節ー17節)と言われたのです。
 これにはどういう意味があるのでしょうか。「善悪の知識の木から取って食べてはならない」というのは、善悪の判断は、人ではなく、神様がなさることだということです。「善悪の絶対的な基準は、神の領域にあるのだ」ということを示すために、神様は善悪の知識の木を園の中央に置かれたわけですね。人の領域と神の領域は、きちんと区別すべきであり、人が勝手に神の領域に手を伸ばすのはよくない、それは、自分の本来の存在価値を見失い、自らに滅びをを招くことにつながる、ということなのです。
 神様は、はっきりとした意図を持って、善悪を知る木の実を園の中央に置かれました。そして、「それを取って食べると死ぬ」と警告されました。「ここは、立ち入り禁止だ。神の領域に入ってはならない」と言われたのです。
 でも、この箇所を読んで、「なんで神様はそんな木を中央に置いたのか。置いた神様が悪い!」なんて言い出す人がいるんですよ。でも、例えば、どうでしょうか。あなたがお子さんと道を歩くとき、「絶対、道に飛び出しては行けませんよ!」と言いますね。その時に子どもが「どうしてこんなところに道なんかあるんだよ。こんなもの造らなければいいのに」と言ったらおかしいですね。また、高圧電線が通っている場所に「立ち入り禁止」の札がかけられていたとしましょう。「どうして電気なんか流すんだよ。こんなもの置かなければいいのに」と言ったり、「僕は高圧電線に触ったってへっちゃらだよ」と言って立ち入り禁止区域に入ったらどうなるでしょうか。結局、自分自身が危険にさらされるわけです。「なんで神様はそんな木を園の中央に置いたのか」というのは、「なんで道なんか造ったのさ。造った方が悪い!」と言っている子どもと同じ発想なんです。私たちにとって必要なものだけれど、私たちが触れるべきでないもの、神様にお任せすべきもの、それが善悪の知識の木だったわけです。
 また、こう言う方もいます。「そもそも、人がいつも神様の命令に従うように造ってくれれば、こんな問題は起こらなかったじゃないか」と。
 けれども、神様は、あえて人に自由意志をお与えになりました。自分で判断し選ぶ自由をお与えになったのです。なぜでしょうか。真実の愛は、自由な意志に基づくものだからです。もし何でも命令を聞くロボットに「あなたを愛しています」と言われても嬉しくありませんね。自由意志を持つ人が「あなたを愛します」というからこそ価値があるのです。神様は、人に自由意志をお与えになり、「神様を愛し信頼するか」、それとも、「神様を疑い神様から離れてしまうか」を選ぶ自由意志を、あえて人にお与えになったのです。
 また、「神様は、なぜサタンを造ったんだ」と言う方もいます。あるいは、「神様がサタンより強いなら、なぜサタンが人を誘惑するのを阻止しなかったんだ」という方もいます。
 それに対して、聖書にははっきりした答えは書かれていませんが、聖書全体を読むとわかることがあります。神様は、あえてサタンの存在を許容し、サタンが人を誘惑するのをお許しになりましたが、その結果、人は、自分の意志をもって神様を愛することの大切さを学ぶことができました。また、神様に逆らって罪の状態に陥ってしまった人を、なおも愛し、どんな犠牲をもいとわずに救おうとしてくださる神様の恵みの素晴らしさを知ることができたのです。
 最初の人アダムとエバは、神様のみもとで生きるのがどんなに幸いなことであるかをよくわかっていなかったのかもしれませんね。残念ながら、神様の言葉に信頼して従う道ではなく、禁じられた木の実を取って食べる道を選んでしまいました。
 では、誘惑者は、どのような手口を使って誘惑してきたのでしょうか。
 
1 誘惑の手口
 
@神様の言葉に疑いを持たせる。
 
 誘惑する者は、やって来て、こうささやき始めました。「神様は本当にその木から取って食べてはならない、と言われたのですか?」と。つまり、神様の言葉に疑いを抱くように誘導していったのです。神様は、「食べたら必ず死ぬ」とはっきり警告なさいました。しかし、誘惑者は、「大丈夫ですよ。間違っても死にはしませんよ」、こんな具合ですね。神様の言葉を曖昧にしていって、いつのまにか、神様の言葉は真実ではない、と思わせ、まるで神様が信用できない嘘つきであるかのように思わせてしまったのです。
 
A禁じられたものが良いものだと思わせる。
 
 誘惑者は、エバにこう言いました。「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたは神のようになりますよ!」と。「あなたもこの実を食べると神のようになれる!」これが誘惑者の偽りの誇大広告のキャッチフレーズです。そして、このキャッチフレーズを言われ続け、その木の実を見ると、なんとどうでしょう。3章6節には「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」と書いてありますね。誘惑者は、巧妙な演出家です。神様が「食べたら死ぬ」と言われたのに、いつの間にか「食べたら神のようになれる」と錯覚させていくのです。「これをとって食べたら、神様のようになれますよ。食べてみなさい。食べないと損しますよ。食べたら、善悪を知るようになって、神様と対等の立場を手に入れることが出来きますよ」と誘惑したわけです。
 今でもよく「あなたもこれを使えば○○のようになれる!」というような広告がありますね。たとえば、雑誌などに「金運財布」なるものの広告が載っています。「この財布を持っていると、あなたも億万長者になれる!」というのです。実際にその財布を買った人がこう言っていました。「私はこの財布で億万長者になれませんでしたが、これを巧妙に売った業者はこの財布のおかげで億万長者になったかも知れませんね」と。笑えない話ですね。
 エバは、「これを食べたらあなたも神様のようになれる!」という誘惑者の宣伝文句に引っかかって、ついに実を食べてしまいました。しかし、いくら誘惑されても、その人の心に興味がなければ、誘いに乗ることはありません。釣り嫌いの人は、いくら釣りに誘っても来ないですからね。人は、どこかで、「神のようになりたい。神のような力が欲しい。すべてを支配し、あがめられたい」という思いがあるのです。しかし、人は、けっして神にはなれません。どんなに「神のようになれる」と言われても無理です。何故なら、人は神様によって造られたものだからです。神様から離れ、神のようになろうとする生き方は、本来の人の生き方ではないのです。
 しかし、誘惑に引かれ、また、神のようになりたいという傲慢な思いに負けて、まずエバが食べ、そして、夫のアダムも食べてしまったのです。
 
2 実を食べた結果
 
 その実を食べた結果、どうなったでしょうか。人は、神のようになれたでしょうか。いいえ、もちろんなれませんでした。善悪の知識の実を食べて、彼らが知ったのは、神様に対する罪の意識や恐れ、人への批判や憎しみ、自分自身を恥じる思いでした。そして、自分たちが大切なものを失ったことを知りました。何を失ったのでしょうか。
 
@神様との親しい関係を失った。
 
 8節に「彼らは園を歩き回られる神であるの声を聞いた。それで人とその妻は、神であるの御顔を避けて園の木の間に身を隠した」と書いてありますね。神様の「あなたは、どこにいるのか」という呼びかけに対して、彼らは恐れて隠れたというのです。神様の言葉を疑い、神様に背いた結果、人は神様に対して後ろめたさを持ち、真正面から神様に相対することができなくなってしまいました。それまでは、人は、裸のままで神様の前で安心して生活することができていました。「裸であった」というのは、象徴的な言葉ですね。それまでは、神様の前に安心してありのままの自分でいることができたのです。しかし、今は神様を恐れ、神様から身を隠す存在となってしまった、というのですね。つまり、神様との親しい関係が破壊されてしまったのです。
 この神様との関係がずれてしまった状態を聖書では「罪」と言います。「罪人」とは「ずれ人」という意味の言葉です。人は創造者なる神様から離れ、関係がずれてしまったために、恐れ、迷い、さまよい、不安をもって生きるようになってしまいました。「分離不安」という言葉がありますね。それは、幼い子が母親から離れたときに味わう不安のことですが、それと同じように、人は創造者なる神様から離れたために、本当の安息を持つことができなくなってしまったのです。また、神との親しい応答もできなくなってしまいました。その状態を「霊的な死」と言います。人は、善悪の知識の木の実を食べて、肉体も死を迎えるようになりましたが、肉体だけでなく、神様との関係がずれてしまった霊的な死も味わうことになったのです。
 
Aお互いの麗しい関係を失った。
 
 アダムはエバにラブ・ソングを歌いましたよね。「あなたは、私の骨からの骨。肉からの肉」と。しかし、今は、どうでしょうか。3章12節で、アダムは神様にこう言っています。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」と。「木の実を食べたのは、私が悪いのではありません。この女が悪いんです」というのです。しかも、「この女を私のそばに置いたあなたも悪いですよ。神様。そもそも何でこんな女をお造りになったんですか」と言わんばかりですね。すると、エバも黙っていません。「私が悪いんじゃありません。蛇が私を惑わしたのです。蛇が悪いんです」と言うのです。自分の罪を認めずに、他人のせいにして、互いにさばき合うようになってしまったのです。
 人は、どうして素直に、「ごめんなさい」が言えないのでしょう。どうして、自分の罪を認めたがらないのでしょう。責任転嫁は、創造の当初からの人間の得意技です。責任転換に関しては皆エキスパートです。私たちは、すぐに社会が悪い、世界が悪い、親が悪い、先生が悪い、牧師が悪い、と批判します。でも、自分が悪い!とは、なかなか言えない癖があるのです。しかし、そのような責任転嫁の結果、人間関係が破壊されていくのです。
 
B本来のあるべき自分を失った。
 
 本来、人は、はなはだ良かったのです。ちりから造られた弱いもろい器ではありますが、神様の息を吹き込まれ、神様を信頼し、神様に応答しながら生きる存在として造られたのです。
 ですから、本来、人は、神様が与えてくださった自分自身を大切にし、自分に自信を持ち、自分を喜んで生きるべきです。神様に非常に良いと言われた存在として生きていくことができるのです。しかし、神様の言葉を疑い、神様に従わなかった結果、人は、自分自身を恥じて隠れるようになってしまいました。神様に創造された大切な存在としての本来の自分を失ってしまったのです。
 
 さて、アダムとエバは、神様との親しい関係を失い、お互いの人間関係が破壊され、自分自身を見失ってしまいました。そして、そのような状態は、今に至るまですべての人に受け継がれてきています。私たちも自分自身の姿を正直に見れば、それを納得するのではないでしょうか。この状態を、聖書では、罪の中に生きている姿なのだと教えています。
 私たちは本来価値ある存在として造られました。しかし、神様に対して不信感をもち、高慢になり、神様から離れて生きていくなら、それは、大切なものを失いながら歩んでいる人生なのだと聖書は教えているのです。
 しかし、神様は、人を愛しておられますから、人をそのままの状態に見捨てておかれるのではありません。もう一度、人としての本来の生き方に戻ることができる道を備えてくださったのです。それの知らせが福音です。福音とは、「失われたものが回復される」という良き知らせなのです。
 ルカの福音書19章10節には、「人の子(イエス・キリスト)は失われた人を探して救うためにきたのです」と書かれています。イエス様は、私たちと神様との信頼を回復する架け橋となるために来てくださいました。このキリストにあって、私たちの人生は新しく造られていくのです。第2コリント5章17節には「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と書かれています。イエス様によって新しくされるとは、人が本来の姿に回復されていくということ、つまり、神様との関係が回復され、互いの関係が回復され、自分自身の本来の価値を自覚して生きることが出来るようになるということなのです。
 神様は、今日も一人一人を「あなたは私の目には非常に良い存在だよ」と見ていてくださいます。私たちがここに生かされているのは、神様の許しなしにはありえないことです。ですから、神様の愛のまなざしから隠れ逃げるのではなく、また、神のようになろうとして立ち入り禁止区域に入って人生を無駄に費やすのでもなく、神様に信頼し、神様と応答しつつ、神様が与えてくださる豊かないのちの実をいただきながら歩んでいきましょう。