城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年五月三〇日             関根弘興牧師
                 創世記三章一四節ー二四節
 
 創世記1ー11章連続説教4
        「愛の衣」 
 
 14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」17 また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」20 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。(新改訳聖書第三版)
 創世記は「初めに、神が天と地を創造した」という一文で始まっています。この世界は偶然に生まれたのではなく、神様が愛をもって創造されたのだというのです。
 また、神様は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれたと書かれています。神様のいのちの息が吹き入れられることによって、人は生きる者となったというのです。しかも、人は、神様のかたちとして創造されたと書かれています。それは、つまり、人は、神様の御性質である愛や真実や永遠を求める存在であり、神様と親密な関係を築くことのできる存在、神様と応答できる存在として造られたということです。神様が造ってくださった私たち一人一人の存在には、意味があり目的があります。私たちの肉体はちりにすぎない弱いものですが、内側に神様のいのちを宿す高価で尊い存在として造られたのです。
 しかし、前回、その神様との麗しい関わりが失なわれてしまう出来事が起こりました。
 エデンの園の中央には、「善悪を知る知識の木」がありました。神様は「その実を取って食べてはならない。その実を食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と警告なさっていました。それは、善悪の基準は神様の領域に属しているということです。神様は、人は神にはなれないこと、また、神の領域を侵すことは人の破滅につながることをはっきりと示すために、この善悪の知識の木をエデンの園に置かれたのです。
 しかし、誘惑する者、サタンが蛇の姿でやってきて、「これを食べても死にませんよ。それどころか、食べたら目が開かれて、神のようになれますよ!」と誘惑したのです。それで、最初の人であるアダムとエバは、その実を食べてしまいました。
 彼らは目が開かれましたか。神のようになれたでしょうか。いいえ、彼らは、ただ自分の姿を恥じるようになり、神様から身を隠すようになってしまったのです。以前は、ありのままの姿で神様の前に出て、神様と自由に応答することができたのに、今は、神様を恐れ、避け、隠れて生きる者となってしまったのです。
 また、お互いの人間関係もぎくしゃくし始めました。互いに責任をなすりつけ合って「この女が悪い!」「いや、蛇が悪い!」と問題を他人のせいにするようになったのです。責任転嫁が始まったのですね。自分が悪いとは決して認めようとしないのです。その結果、神様との関係だけでなく、人間関係も悪くなってしまったのです。
 では、誘惑者の誘いに惹かれて神様の警告を無視し、罪を犯してしまった二人に対して、神様は、どのような対応をなさったでしょうか。今日の箇所を詳しく見ていきましょう。
 
1 エデンの園からの追放
 
 23節に「神である主は、人をエデンの園から追い出された」と書かれていますね。これを読んで、「神様は厳しすぎる。追い出さなくても、二度としないように注意を与えて、そのままエデンの園に住まわせればいいじゃないか」と思う方がいるかもしれませんね。
 しかし、そのままエデンの園にいたとして、人は元通りに神様との麗しい関係を取り戻すことができたでしょうか。
 前回お話しましたが、神様は、人に自由意志を与えてくださいました。神様の言葉に信頼して従うか、神様の言葉を無視して自分の欲求のままに生きるか選択する自由があるのです。
 人は、自分が神のようになろうとして、神様の警告を無視してその実を食べるという選択をしてしまいました。その結果、神様に対する罪悪感が芽生え、神様を恐れて隠れるようになったのです。しかし、彼らがその実を食べたことを後悔したとはどこにも書かれていません。神様の警告を破ってしまったという後ろめたさは感じていましたが、自分の行為がいかに重大な結果をもたらすのか、まだよくわかっていなかったようです。
 20節に「人は、その妻の名をエバと呼んだ」と書かれています。「エバ」とは、「いのち」という意味がある名前です。神様は「その実を取って食べると死ぬ」と言われましたね。しかし、アダムは、妻を「いのち」と呼んだのです。もちろん、女性として子を産む働きも含めて、「すべて生きているものの母」と名付けたということでしょうが、神様に「死ぬ」と言われたことに対して、必死に「そうではない。妻は『いのち』を宿して産み出すことができるのだ」と叫んでいるかのようにも聞こえますね。
 そして、22節には、神様が彼らをエデンの園から追い出された理由が書かれています。「神であるは仰せられた。『見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。』」
 ここで、「人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった」とありますが、アダムとエバが神様のようになったということではありません。人が、自分の基準で勝手に善悪を判断して生きるようなったということです。自分がすべての基準になろうとしたのです。
 しかし、人が自分自身を基準とするなら、相対の世界で生きることになります。昨日は「良い」と言っていたことが、今日は「全くだめだ」となることが起こるのですね。これは、とても良い、ちょっと良い、少し良い、いや、そうでもない、少し悪い、ちょっと悪い、やや悪い、とても悪い、・・・。一体何が正しくて何が悪いことなのか、わからなくなってくるのです。私たちの人生には、決して変わることのない「絶対的な基準」がどうしても必要なのです。そうでないと確信を持って生きることができません。だからこそ、決して変わることのない神様の言葉を信頼し基準とすることが大切なのです。イザヤ40章7ー8節にこう書かれているとおりです。「主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
 また、人が自分勝手な善悪の判断で生きるようになり、神のような振る舞いをするようになったらどうでしょう。神様から与えられた「この世界を賢く管理する」という務めが難しくなるばかりか、自分自身も、互いの関係も、また、自然をも、歪め、破壊することになってしまうのです。
 ですから、神様は、人が「いのちの木」からも取って食べて永遠に生きないようにするために、人をエデンの園から追い出されたというのです。そして、そこに近づけないようにケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれたと24節にあります。ケルビムは翼のある天使のような存在であり、炎の剣がどのようなものかわかりませんが、神様は人が勝手にいのちの木に近づけないようになさったということですね。
 さて、一方、追い出されたふたりは、どう感じていたでしょうか。彼らは、まだ事態の深刻さがよくわかっていなかったと思います。「神様に世話してもらわなくても大丈夫」というような思い上がりがあったかもしれません。彼らを園から追放されたのは神様ですが、人の側から言えば、「これからは、自分たちだけでやっていけますよ。神様に世話にならなくても大丈夫ですよ。それじゃ、さようなら!」というような意識を持っていたかもしれません。
 ところが、彼らを待ちかまえていた現実はどうだったでしょうか。神様の宣告通りのことを経験することになったのです。
 16節で神様は女にこう言われました。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」本来、夫婦は対等の関係であるはずです。支配したりされたりする関係ではなかったのに、本来の姿からずれてしまう現実を味わうことになっていくと言われたのです。
 また、17節-19節ではアダムに対してこう言われました。「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。」確かにこの言葉の通り、人は、苦労しながら額に汗を流して作物を作り、最終的にはちりに帰る、という現実をこの後、突きつけられていくことになったのです。「神のようになれる!」と思っていたのに、逆に、「ちりに帰る」という終焉を迎えていくことになるわけです。
 人がエデンの園から追放されたということは、人の側からすれば、「自分こそがすべての基準だ」という価値判断の中で生きていく道を選んだことであり、あたかも自分の力ですべてを成し遂げることができるような錯覚の中で生きていこうとする道を選んだと言えるのです。しかし、そこに待っている現実は、厳しいものでした。この後に延々と記されているとおり、人は、罪と死の支配の中で、多くの問題や苦しみに遭遇しながら生きていくことになったのです。
 しかし、そんな彼らに対して、神様は、ただエデンの園から追放し、完全に関係を断ってしまわれたのでしょうか。「わかった。それでは、自分たちの好き勝手にしなさい。もう知らん!」と言われたのでしょうか。そうではありませんでした。 それどころか、神様は、彼らに将来の希望を与えてくださったのです。
 
2 救いと回復の希望
 
(1)女の子孫
 
 15節で、神様は、蛇の姿をした誘惑者サタンに対してこう宣告されました。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
 これは、女から生まれる子孫の一人が、サタンの頭を踏み砕いて滅ぼすという宣言です。つまり、人の子孫の中から救い主が誕生し、その救い主が、サタンにかかとをかみつかれて苦しむけれど、最終的にサタンの頭を踏みつけてサタンに打ち勝つのだというのです。
 エデンの園を追い出された人間の歴史には、目を背けたいほどのドロドロとした出来事も起こっていきます。しかし、最終的に、人を惑わすサタンは滅ぼされるということ、そして、人が失ったものを回復させてくださる救い主が来てくださることがここで約束されているのです。
 この箇所は、救い主の到来という福音が初めて示されている箇所として知られています。神様は、人をエデンの園から追い出す時、すでに救いの計画を立ててくださっていたのです。
 聖書の啓示は、漸進的啓示といいまして、歴史の中で順を追ってだんだんと少しずつ示されていきます。救い主についても、これから、少しずつ詳しいことが明らかになっていきます。今日の箇所では、救い主が「女の子孫」であることだけしかわかりませんが、旧約聖書を読み進めていくと、救い主は、「セツの子孫」「ノアの子孫」「アブラハムの子孫」「イサクの子孫」「ヤコブの子孫」「ユダの子孫」「ダビデの子孫」であるというふうに、だんだん的が絞られていくのです。救い主が生まれる場所や、どのような方であるかについても、次第に明らかになっていきます。
 今日の箇所で覚えておいていただきたいのは、神様は、人をエデンの園から追い出されましたが、それと同時に救いと回復の計画も始めておられたということ、そして、人を追い出した時すでに、救い主の約束を与えてくださっていたということです。
 
(2)皮の衣
 
 さて、人は、神様の命令を無視して、善悪を知る知識の木の実を食べてしまった結果、自分たちの姿をみじめに感じるようになりました。3章7節を見ると、人は、自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせて腰のおおいを作ったと書かれています。本来、人は神様の前で、裸のありのままの姿でいることができました。しかし、その自分自身の裸が、恥に満ちたものになってしまったのです。そこで、いちじくの葉をつづり合わせて腰をおおいました。他にもたくさんの木々があったはずなのに、なぜいちじくの葉を使ったのでしょうね。肌がかぶれて痒くなりそうな気がしますね。しかも、それで恥を完全に隠そうとするわけですから、何と浅はかな姿でしょう。神様の前には、まったく意味のないものです。
 人は、その場しのぎの安易な方法で取り繕ってしまおうとすることが多いですね。しばらく前ですが、洗面所の水道の蛇口が水漏れしていました。蛇口の付け根にヒビが入ってしまっていたのです。それで、いろいろと私も考えるわけですよ。強力な接着剤でヒビを塞ごうとしたり、いろいろと無駄な努力をするわけです。初めから部品を交換すれば一番良いのですが、自分で何とかできるんじゃないかと考えるんです。しかし、結局、即席の方法は一時しのぎにすぎませんでした。「よし、これで大丈夫だ」と思った途端、また、水がジャーっと吹き出るんです。結局、メーカーに問い合わせて、しばらく時間がかかりましたが部品が届くのを待って付け替えたわけです。
 人が一時しのぎで自分の罪の恥を覆おうとしても、効果はありません。うまくいくはずがありません。
 しかし、21節にあるように、神様は、そんなふたりに、皮の衣を作り、着せてくださいました。これから厳しい生活を経験する彼らのために、神様は、守り保護する衣を着せてくださったのです。
 考えてみてください。この衣は、皮で作られました。ということは、この衣が作られるために、動物のいのちが犠牲になったということです。つまり、皮の衣は、人が神のようになろうした結果、人の罪の恥を覆うために動物のいのちが犠牲になったということを象徴的に示しています。
 もちろんこの皮の衣は、次第に古びて使えなくなってしまったことでしょう。しかし、この出来事の中には、神様が、将来、決して朽ちることも消えることのない衣を人のために用意してくださるということが暗示されているのです。
 では、その将来与えられる決して朽ちることのない衣とは何でしょう。パウロは、ガラテヤ3章27節でこう記しています。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」
 アダムとエバに皮の衣を着せてくださった神様は、私たちに、救い主であるイエス様を着せてくださいました。
イエス様は、私たちの罪も恥も呪いもすべて背負って十字架についてくださいました。そのイエス様を信じる私たちは、キリストという衣を着たというのです。それによって、私たちは、神様の前に罪のない者と認められ、もはや神様を恐れることなく、隠れることもなく、自由に神様の前に出ることができるようになりました。また、神様の永遠のいのちによって生かされる者となったのです。この衣は、決して、一時しのぎの衣ではありません。永遠に続く愛の衣です。この愛の衣に覆われた人生、それがクリスチャンの人生なのです。
 
 感謝なことに、来週の礼拝で洗礼式があります。それは、永遠に変わることのない衣であるキリスト御自身を身につけ、キリストと共に生きる人生の出発となる時です。
 そして、すでにクリスチャンの方々、私たちは、このイエス・キリストという愛の衣を着ていることを喜びましょう。この愛の衣こそ、人に最もふさわしい最高ブランドの衣なのです。