城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二五年二月九日              関根弘興牧師
                創世記三章一四節ー二四節
 創世記から士師記まで4
       「再出発と悲劇」 
 
1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。7 あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。9 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」10 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。11 今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。12 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」13 カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。14 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」15 主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。16 それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。(新改訳聖書第三版)
 創世記は「初めに、神が天と地を創造した」という一文で始まっています。この世界は偶然に生まれたのではなく、神様が愛をもって創造されたのだというのです。
 また、神様は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれたと書かれています。神様のいのちの息が吹き入れられることによって、人は生きる者となったというのです。しかも、人は、神様のかたちとして創造されたと書かれています。それは、神様を礼拝し、親しい関係の中に生きることが出来る存在、神様と応答できる存在として造られたのですね。
 しかし、前回、その神様との麗しい関係が失なわれてしまう出来事が起こりました。エデンの園の中央には、「善悪を知る知識の木」がありました。神様は「その実を取って食べてはならない。その実を食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と警告なさっていました。神様は、なぜ善悪を知る知識の木を園の中央に置かれたのでしょうか。それは、善悪の基準は神様の領域に属しており、人が神の領域を侵すことは自らの破壊につながることをはっきりと示すためだったのです。しかし、アダムとエバは、「これを食べると神のようになれますよ」という誘惑する者の言葉に惑わされ、その実を食べてしまいました。その結果、彼らは神のようになれたでしょうか。いいえ、そんなことはありませんでした。以前は、ありのままの姿で神様の前に出て、神様と親しく自由に応答することができたのに、今は、神様を恐れ、隠れて生きる者となってしまいました。神様との親しい関係を失ってしまったのです。また、互いに責任のなすり合いが始まり、人間関係にも問題を抱えることになったのです。
 では、神様の警告を無視し、神様に背を向けてしまった二人に対して、神様は、どのような対応をなさったでしょうか。
 
1 エデンの園からの追放
 
 3章23節に「神である主は、人をエデンの園から追い出された」と書かれています。ここを読むと、「神様は厳しすぎはしませんか。追い出さなくても、二度としないように注意を与えて、そのままエデンの園に住まわせてもいいじゃないですか」と思う方がいるかもしれません。しかし、そのままエデンの園にいたとして、人は元通りに神様との麗しい関係を取り戻すことができたでしょうか。
 前回お話しましたが、神様は、人に自由意志を与えてくださいました。神様の言葉に信頼して従うか、神様の言葉を無視して自分の欲求のままに生きるか選択する自由を与えたのです。
 人は、神様の言葉に逆らう選択をしてしまいました。その結果、神様を恐れ隠れるようになったのですが、聖書をじっくりと読んでください。彼らがその実を食べたことを後悔したというようなことは、どこにも書かれていません。
 3章22節で、神様はこう言っておられます。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」ここで、「人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった」とありますが、アダムとエバが神様のようになったという意味ではありません。人があたかも自分が神になったかのように自分の基準で勝手に善悪を判断して生きるようなった、つまり自分こそすべての基準の源であるかのような生き方を始めたということなのです。
 しかし、どうでしょう。人の基準はあてになるでしょうか。昨日は「良い」と言ったのに、今日は「全くだめだ」というようなことが起こるわけですね。それは、不正確な物差しを使って家を作るようなものです。私たちの人生を確かなものに建て上げるためには、決して変わることのない「絶対的な基準」、確実に信頼できる神様の基準が必要なのです。しかし、人はそれを手放して生きようとし始めたわけですね。そこで、神様は、人をエデンの園から追い出されたのです。
 一方、追い出されたふたりは、どう思ったでしょう。彼らはまだ事態の深刻さがよくわかっていなかったと思います。きっと「神様に世話してもらわなくても大丈夫さ。俺たちは俺たちで生きていけるさ」というような思い上がりがあったでしょう。彼らを園から追放されたのは神様ですが、人の側から言えば、「これからは、自分たちだけでやっていけますよ。神様の世話にならなくても大丈夫です。それじゃ、さようなら!」というような意識をだったのかもしれませんね。
 人がエデンの園から追放されたということは、人の側からすれば、「自分こそがすべての基準だ」という価値判断の中で生きていく道を選ぶことでした。自分の力ですべてを成し遂げることができるという思い込みの生き方を選んだと言えるのです。
 ところが、待ちかまえていた現実はどうだったでしょうか。人は、この後、罪と死の支配の中で、多くの問題や苦しみに遭遇しながら生きていかなければならなくなりました。そして、最終的にはちりに帰らなければならない、という現実を突きつけられることになったのです。「神のようになれる!」と思っていたのに、逆に、「ちりに帰る」という終焉を迎えることになったわけですね。
 しかし、神様は彼らをエデンの園から追い出して、完全に関係を断ってしまわれたのでしょうか。「では、お前たちの好き勝手にしなさい。わたしはもう何もしてやらない。今後、一切関知しないぞ」と言われたのでしょうか。そうではありませんでした。神様が彼らをエデンの園から追放なさった背後には、神様の深い配慮と御計画があったのです。そして、神様は、彼らに将来の希望を与えてくださったのです。
 
2 救いと回復の希望
 
(1)女の子孫
 
 3章15節で、神様は、蛇の姿をした誘惑者サタンに対してこう宣告されました。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
 これは、女から生まれる子孫の一人が、サタンの頭を踏み砕いて滅ぼすという宣言です。つまり、人の子孫の中から救い主が誕生し、その救い主は、サタンにかかとをかみつかれて苦しむけれど、最終的にサタンの頭を踏みつけてサタンに打ち勝つのだというのです。
 エデンの園を追い出された人間の歴史には、目を背けたいほどのドロドロとした出来事が次から次へと起こっていきます。しかし、最終的に、人を惑わすサタンは滅ぼされるということ、そして、人が失ったものを回復させてくださる救い主が来てくださることがすでにここに約束されているのです。
 この3章15節は、将来、救い主が来てくださるという福音が初めて示された箇所として知られています。神様は、人が罪を犯してしまった直後から、すでに救いの御計画を立ててくださっていたのです。
  
(2)皮の衣
 
 さて、人は、神様の命令を無視して、善悪を知る知識の木の実を食べてしまった結果、自分たちの姿をみじめに感じるようになりました。3章7節を見ると、人は、自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせて腰のおおいを作ったと書かれています。本来、人は神様の前で、裸のありのままの姿でいることができました。しかし、その自分自身の裸が、恥に満ちたものになってしまったのです。そこで、いちじくの葉をつづり合わせて腰をおおいました。他にもたくさんの木々があったはずなのに、なぜいちじくの葉を使ったのでしょうね。肌がかぶれて痒くなりそうな気がしますね。しかも、それで恥を完全に隠そうとするわけですから、何とも浅はかで滑稽な姿ではありませんか。それは神様の前には、まったく意味のないものです。人は、その場しのぎの安易な方法で取り繕ってしまおうとするのですね。それは問題の解決にはなりません。
 しかし、3章21節にこう書かれているんです。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」神様に逆らい背を向けた彼らに、これから厳しい生活が待っている彼らに、神様は、彼らを守り保護する衣を着せてくださったというのです。
 考えてみてください。この皮の衣が作られるために、動物のいのちが犠牲になったということですね。つまり、この皮の衣は、人が神のようになろうして罪を犯した結果、その罪の恥を覆うために動物のいのちが犠牲になる、ということを象徴的に示すものでした。また、最終的には、人の罪を完全に覆うために神の小羊なるイエス・キリストが十字架でいのちをささげてくださることを予め示すものでもあったのです。これから、苦難の多い生活を始めることになった人に対して、神様は、愛の衣を与えて、御自分の変わらぬ愛を示してくださったのですね。
 
3 カインとアベルの誕生
 
 エデンの園を離れた人は、まったく異なった環境で再出発することになったわけですが、すぐに日々の生活の現実に直面することになりました。毎日の労働は厳しく、互いの関係にも問題をかかえながら、困難な日々を過ごすことになったのです。しかしそんな彼らに、新しい命、赤ちゃんが与えられました。
 4章1節で、エバは「私はによってひとりの男子を得た」と言いました。わざわざ「によって」と言ったのですね。神様から離れて生きていた彼らでしたが、いのちの誕生という出来事を経験したとき、その背後に神様の働きがあるということを実感したのでしょう。赤ちゃんが生まれるという経験の中で、神様のみわざを見た思いだったのでしょう。彼らは、生まれた子を「カイン」と名付けました。「カイン」は「獲得」という意味です。名前には親の期待が込められていますよね。さきほどお話ししましたように、神様は「将来、女の子孫の中からサタンの頭を踏み砕く救い主が生まれる」と宣言なさっていました。ですから、二人は、「このカインこそ、神様が約束してくださった救い主ではないか。私たちの希望の星だ」と思ったのかもしれません。しかし、現実はどうだったでしょう。次の子供が生まれた時、二人は、その子を「アベル」と名付けました。「アベル」というのは「息」とか「蒸気」を意味する言葉ですが、「すぐ消えてしまうもの」「実体のないもの」「むなしさ」を意味する言葉でもあります。彼らは、カインが生まれた時、「遂に獲得したぞ」と思ったけれど、子供の成長を見ていると「どうもそうではないらしいぞ」と思ったのかもしれませんね。2番目の子供には「むなしい」という意味の名前を付けたのです。
 
(1)神様へのささげ物
 
 そんな二人が成長し、カインは土を耕す者、弟アベルは羊を飼う者となりました。それぞれが生活のために働いていたわけですね。彼らは一つのことを教えられて育ったようです。それは、「神様に感謝をささげることの大切さ」です。アダムとエバは、神様から離れてしまいましたが、様々な出来事の中で人間の弱さというものに気づいていったのでしょう。自分こそすべての判断基準だという生き方が高慢なものであることに気づいたのでしょうね。こうして生かされていることは、決して当たり前ではない、神様の支えがあるからだと感じるようになり、子供たちにも、天地万物をお造りになった神様がおられることを伝え、神様に感謝のささげ物をするように教えたようです。
 そこで、カインとアベルは、神様へのささげ物を持って来ました。カインは、自分が収穫した地の作物、アベルは自分が育てた羊の初子です。
 ところが、こう書かれていますね。はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」これを読むと、「神様がえこひいきするなんて、ひどい。カインが怒るのも無理はない」とか、「神様は、自分が気に入ったささげ物しか受け入れないのか。肉は好きだけど、野菜は嫌いなのか」と思う方もおられるかもしれません。でも、皆さん、誤解しないでください。神様は、えこひいきなさる方ではありません。また、ささげものを選り好みなさる方でもありません。神様がカインのささげ物に目を留められなかったのは、カインのささげる心に問題があったからでした。
 6ー7節に、こう書いてあります。「そこで、は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。』」
 神様は、「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる」と言われました。つまり、カインのささげ物が受け入れられなかったのは、カイン自身の中に正しくない姿があったからだというのですね。 カインは、ささげものを持ってきました。しかし、心の中では、こんな風に考えていたのだと思います。「なんで神様にささげる必要があるんだ。俺が汗水たらして働いたから収穫できたんだ。神様は、何も手伝ってもくれてないじゃないか。その上、この忙しい中、せっかくこうしてささげたのに、俺のささげ物には目もくれないで、弟のささげ物だけを受け入れるなんて、一体どういうことだ。まったく頭にきちゃうぜ!」こんな具合ですね。カインは、自分が持っているものはすべて自分の力で得たのだという思いを持っていたようです。神様の支えや助けがあったことに気づいていませんでした。そして、自分を反省するどころか、神様への怒りを抱き、その怒りを内側にため込んでいったのです。その怒りは、破壊へ向かわせる大きなエネルギーとなっていきました。
 
(2)怒りの行く末
 
 神様は、憤っているカインに対して一つの忠告をお与えになりました。「あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」と。神様は、カインが怒り、ふてくされている姿をご覧になり、「その怒りを治めなさい。さもないと、その怒りがだんだんエスカレートしていきますよ。怒りを適切に処理しないと、怒りに引きずられて罪を犯すことになってしまいますよ」と告げられたのです。しかし、なんとカインは、怒りが収まりません。そして、その怒りは弟アベルに向かっていきました。カインはアベルを野に連れ出し、殺してしまったのです。なんという悲劇でしょう。まだ創世記を4章までしか読んでいないのに、殺人まで起こってしまったのです。
 エペソ426には、こう書かれています。「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」
 誰でも怒りを覚えることがあります。怒ること自体は決して罪ではありません。しかし大切なのは、怒りを感じた時に、それをどのように治めるか、どのように対処するかということです。もし、私たちが怒りや妬みや嫉妬などをいつまでも抱き続けるなら、それがエスカレートしてとんでもないことを引き起こす危険があるということ知っておくことは大切です。ですから、私たちは自らの心を見張ることが大切なんです。そしてそのバロメーターは、「感謝」なんです。ある人がいいました。「感謝を失った人生は毒蛇より怖い」と。まるでカインの姿を言い当てているような言葉ですね。
 さて、カインは弟を殺してしまった結果、大きな代償を支払わなければならなくなりました。彼は自分の土地に住めなくなり、さすらい人となってしまったのです。また、カインは、自分が弟を殺した結果、今度は、自分が復讐され殺されるのではないだろうかと恐れるようになっていきました。怒りに身を任せて犯してしまったことの故に、彼の心は恐れに覆われ、平安を失っていったのです。
 しかし、15ー16節にこうあります。は彼に仰せられた。『それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。』そこでは、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。」
 「カインを殺す者は、七倍の復讐を受ける」というのは、いったいどういうことでしょうか。人間が互いに殺し合いを繰り返すことは、結局、何倍もの痛みと苦しみが降りかかってくるのだということです。神様は、復讐の連鎖を決して願ってはいないのです。また、「だれもカインを殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった」とあります。これが、どのようなしるしなのかはわかりませんが、神様は、愚かなことをしたカインを、なおも守ってくださるというのです。
 カインは、怒りにまかせて弟を殺してしまった結果、住み慣れた土地を出て行かざるをえなくなりました。3章では、アダムとエバがエデンの園を追い出され、4章では、カインが自分の土地から出て行くことになったのです。章を追うごとに、まるで神様から遠ざかっていく人の姿を見ているかのようです。しかし、神様は、アダムとエバには皮の衣を与え、カインに対しては、カインを殺すもののがないように一つのしるしをお与えになりました。人は様々なものを失っていくわけですが、一方で、神様は決して人を見捨てず、なお守ろうとしてくださるのです。
 カインは「地上をさまようさすらい人」となってしまいました。しかし、今日、私たちは、行き先がわからないさすらい人ではありません。一人一人が永遠の天を目指す旅人へと変えられたことを感謝しながら歩んでいきましょう。