城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年六月六日              関根弘興牧師
                  創世記四章一節ー一六節
 
 創世記1ー11章連続説教5
   「さすらい人から旅人へ」 
 
 1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。7 あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。9 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」10 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。11 今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。12 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」13 カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。14 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」15 主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。16 それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。(新改訳聖書第三版)
 
 最初に造られた人アダムとエバは、神様が用意してくださったエデンの園に住んでいました。園の中央には、「善悪を知る知識の木」がありました。神様は「その実を取って食べてはならない。その実を食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と警告なさっていました。それは、善悪の絶対的な基準は神様の領域に属しているということを示すためでした。人が自分勝手に「自分こそすべての基準だ」と考えて生きていくことは、自分自身の破滅につながるのだということを示されたのです。
 しかし、誘惑する者、蛇がやってきて、「これを食べても死にませんよ。それどころか、食べたら目が開かれて、神のようになれますよ!」と誘惑したのです。彼らはその実をとって食べてしまいました。その結果、人は、神様に対して罪意識や恐れを感じるようになりました。また、自分勝手に判断して生きようとする傲慢さを持つようになり、神様との麗しい関係が破壊されてしまいました。また、互いに責任転嫁をして批判し合うようになり、人間関係にも様々な問題を抱えるようになりました。そして、自分自身のありのままの姿を恥じて覆い隠すようになってしまったのです。
 そんな状態に陥ってしまった人が永遠に生きることがないように、神様は、いのちの木のあるエデンの園から人を追放なさいました。その神様の対応について、「神様は厳しすぎる。人を園から追い出すなんて意地悪なことをしないで、二度としないように注意を与えて、そのままエデンの園に住まわせればいいじゃないか」と考える方もおられるかも知れません。しかし、神様の側から見れば、「彼らを園から追放された」という書き方になりますが、人の側からすれば、神様ではなく自分自身がすべての基準になって生きていく生き方を選び取ったとも言えるのです。「これからは、自分たちだけでやっていけますよ。神様のお世話にならなくても大丈夫ですよ。それじゃ、さようなら!」ということなのです。
 しかし、神様は、そんな彼らを見捨てることはなさいませんでした。神様は、人がエデンの園から出て行くときに、彼らを保護する皮の衣を着せてくださいました。また、将来、救い主が生まれるという希望も与えてくださいました。そして、その後もずっと語りかけ、教え、助け、導こうとしてくださったのです。つまり、エデンの園追放の直後から、神様は、壮大な救いの計画を開始してくださっていたのです。
 人は、どれほど大きな神様の愛の中に生かされているのかを忘れて、すべてが当たり前のように思ってしまうことがよくあります。こうして毎日生きていることも当たり前。空気を吸って生きていることも当たり前。何かしてもらって当たり前。何でもかんでも当たり前としか見えない人生は寂しいですね。何でも当たり前というふうにしか考えられない人生には、決して生まれないものがあるんです。それは「感謝」です。何でも当たり前なんですから、どうして感謝が生まれるでしょうか。
 感謝を表す言葉は「ありがとう」ですね。日本語で「ありがとう」を漢字で書くと、有ることが難しいと書きますね。本当なら無くて当たり前なのに、そこに有るからこそ「有り難う」なんです。
 創世記を学んでいる大切な意味は、ここにあります。神様はこの天地を創造され、私たち一人一人を「あなたはこの世界に存在しなさい!」と生み出してくださったのです。私たちがここに生かされていること、こうして生活していること、存在していること自体、決して当たり前ではありません。本来、有ること自体が難しいのに存在しているのです。だから、感謝が生まれるわけです。「ありがとう」は、人間が最初に学ぶべき大切な人生のキーワードなのです。それは、お互いに対してだけでなく、まず、私たちを存在する者としてくださった神様に対して告げられるべき言葉なのです。このことを覚えながら、今日の箇所を読んでいきましょう。
 
1 カインとアベルの誕生
 
 さて、今日は4章です。エデンの園から離れた人は、日々の生活の現実に直面することになりました。エデンの園の生活とは大違いです。毎日労苦して働かなくてはならず、自分にも互いの関係にも問題をかかえながら、困難の連続だったことでしょう。
 そんな彼らに、待望の赤ちゃんが生まれました。
 1節には、エバが「私はによってひとりの男子を得た」と言ったと書かれています。ここには、わざわざ「によって」と言葉が添えられています。彼らは、エデンの園から離れ、神様から離れて生きていこうとしていましたが、赤ちゃんの誕生という出来事を経験したとき、これは人のわざではない、このいのちの背後に神様の介入があるということを実感したのでしょう。赤ちゃんが生まれるということの中に、神様のみわざを見た思いだったのでしょう。
 そして、彼らは、生まれた子を「カイン」と名付けました。「カイン」という名前には「獲得」という意味があります。
 名前は、両親の希望や期待を込めて付けられることが多いと思います。私の「弘興」という名前は、父が神学校で学んでいる時に私が生まれたものですから、福音を「ひろめおこす」という意味を込めて「弘興」と付けたそうです。プレッシャーのかかる名前ですね。
 アダムとエバが、生まれた子を「カイン」と名付けたのは、相当期待していたのでしょうね。彼らがエデンの園を追い出される前に、神様は「将来、女の子孫の中からサタンの頭を踏み砕く救い主が生まれる」と宣言なさっていました。ですから、二人は、「このカインこそ、神様が約束してくださった救い主ではないか、私たちの希望の星だ」と思ったのかもしれません。
 しかし、現実はどうだったでしょうか。次の子供が生まれた時、二人は、その子を「アベル」と名付けました。「アベル」という名前は、伝道者の書1章2節に「空の空」という言葉が出てきますが、この「空」と訳されている言葉と同じです。元来「息」とか「水蒸気」を意味する語ですが、「すぐ消えてしまうもの」「実体のないもの」「むなしさ」を意味する言葉なんです。彼らは、カインが生まれた時、「遂に獲得したぞ」と思ったけれど、子供の成長を見ていると「どうもそうではないらしいぞ」と思ったのかもしれませんね。アベルは、「ため息」という意味ですから。
 
2 神様へのささげ物
 
 そんな二人が成長し、カインは土を耕す者、弟アベルは羊を飼う者となりました。それぞれが生活のために働いていたわけですね。
 彼らは一つのことを教えられて育ったようです。それは、「感謝をささげることの大切さ」です。アダムとエバは、神様から離れて行きましたが、いろいろな出来事の中で人間の弱さというものに気づいていったのでしょう。こうして生かされているのは決して当たり前ではないということを生活の中で思わされるようになったのかもしれません。そして、子供たちに、すべてお造りになった神様のことを伝え、定期的に神様にささげ物をするように教えたようです。
 そこで、カインとアベルは、神様へのささげ物を持って来ました。カインは、自分が収穫した地の作物、アベルは自分が育てた羊の初子です。つまり、自分の働きの背後に神様の支えがあるということを認め、感謝を表すためのものでした。
 ところが、こう書かれていますね。はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」
 これを読んで、「神様は、えこひいきしてひどい。カインが怒るのも無理はない」とか、「神様は、自分が気に入ったささげ物しか受け入れないのか」と思う方もおられるかもしれませんね。でも、皆さん、誤解しないでくださいね。神様は、カインよりアベルが好きでえこひいきしているというわけでもありませんし、ささげる物によって差別なさる方でもありません。
 第一サムエル15章22節にこう書かれています。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」また、第一サムエル16章7節には、「人はうわべを見るが、主は心を見る」と書かれています。神様は、何をささげるかではなく、どのような心でささげるかを御覧になる方です。人が真心からの感謝をもってささげる姿を神様は喜ばれるのです。
 ですから、神様がカインのささげ物に目を留められなかったのは、カインの心に問題があったと考えられます。
 6ー7節に、こう書いてあります。「そこで、は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。』」
 神様は、「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる」と言われました。つまり、カインのささげ物が受け入れられなかったのは、カイン自身の中に正しくない姿があったからだというのですね。そして、「なぜそんなに憤っているのか」と言われました。怒るのではなく、まず自分自身の姿を反省する必要があるのだということですね。
 カインは、心から感謝していたからではなく、義務感だけでささげ物を持ってきたのでしょう。いやいやながらささげるのでは、本当の感謝とはいえませんね。
 神様が求めておられるのは、感謝する心です。神様は、本来、存在すら難しい私たちを生かしてくださり、赦し、育み、愛してくださる方です。だから、こうして人生を歩んでいけることに対して心からの感謝をささげることが人間本来の姿でなのですね。そして、その感謝が生活を潤していく源となるのです。
 神様との関係においても、また、人間関係においても、キーワードは「ありがとう」なんです。今週、朝に夕に、「神様ありがとうございます!」、そして、周りの方々に「ありがとう!」と言ってみてください。景色が変わりますよ。
 二十年以上前になりますが、家出をしてきた年配のご婦人が教会に来たことがありました。昼頃来て、ずっと、口を開けば嫁の悪口が延々と続くわけです。私は、早く家に帰そうとして「どこから来たんですか?」と尋ねても、教えてくれません。そして、三十分周期で同じ事を繰り返すわけです。結局、どこから来たのかわからないので、我が家に泊まることになりました。そして、夜九時過ぎになって、ようやく、住所や電話番号を教えてくれました。それで、家族に連絡が付き、翌朝迎えに来ることになりました。そのとき、私は、このご婦人に言いました。「大変ですね。でも、問題を解決したいと思いませんか。」すると、「解決したい」とおっしゃっるんです。そこで、「これから一ヶ月間、二つの言葉を朝に夕に言い続けたら、すべての問題が解決しますよ」と言いました。その二つの言葉とは、「ごめんね」と「ありがとう」です。すると、このご婦人は、「そんなことは、口が裂けても言えません。死んでも言えません」とおっしゃるんです。「ごめんね」と「ありがとう」、簡単な言葉ですね。でも、言うのがとても難しいのですね。
 カインは、ささげものを持ってきました。しかし、心の中では、こんな風に考えていたのではないかと思います。「なんで神様にささげる必要があるんだ。俺が汗水たらして働いたから収穫できたんだ。神様は、何も手伝ってくれてないじゃないか。その上、この忙しい中、せっかくこうしてささげたのに、俺のささげ物には目もくれないで、弟のささげ物だけ受け取るっていうのは、一体どういうことだ、まったく頭にきちゃうぜ!」こんな具合ですね。カインの問題は、いま手にしているものがすべての自分の力のなせるわざであり、すべて当たり前にしか映っていないことにあるのです。そして、彼の内側に生じた怒りは、破壊へ向かわせる大きなエネルギーとなっていきました。
 
3 怒りの行く末
 
 神様は、憤っているカインに対して一つの忠告をお与えになりました。「あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」と。神様は、カインが怒り、ふてくされている姿をご覧になり、「その怒りを治めなさい。さもないと、その怒りがだんだんエスカレートしていきますよ。怒りを適切に処理しないと、怒りに引きずられて罪を犯すことになってしまいますよ」と告げられたのです。
 しかし、結果はどうだったでしょう。カインは、弟アベルを野に連れ出し、殺してしまったのです。カインは、自分の過ちを指摘され、自分が認められなかったことに怒りを覚えました。その時、自分を反省して怒りを治める必要があったのに、かえって、怒りにまかせて殺人まで犯してしまったのです。
 エペソ426には、こう書かれています。「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」
 誰でも怒りを覚えることがありますね。怒ること自体は決して罪ではありません。クリスチャンになっても怒りますよ。大切なのは、怒りを感じた時に、それをどのように治めるか、どのように対処するかということです。もし、私たちが怒りや妬みや嫉妬などをいつまでも抱き続けるなら、罪を犯してしまう危険があるということなのです。私たちをさらに大きな混乱へと引きずり込もうとして、罪が、まるで招き猫のように手招きしているというのですね。ですから、いつも自らの心を見張ることが大切ですね。そのバロメーターは、「感謝」なんです。
 さて、カインは弟を殺してしまった結果、大きな代償を支払わなければならなくなりました。土地を耕しても作物が出来なくなってしまい、そして、結局、その土地に住めなくなり、さすらい人となってしまうというのです。また、カインは、自分が弟を殺した結果、今度は、自分が殺されることを恐れるようになってしまいました。怒りに身を任せて犯してしまったことの故に、彼の心は恐れに満たされ、平安を失っていったのです。
 しかし、15ー16節にこうあります。は彼に仰せられた。『それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。』そこでは、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。」
 「カインを殺す者は、七倍の復讐を受ける」というのは、いったいどういうことでしょうか。人間が互いに殺し合いを繰り返すことは、結局、何倍もの痛みと苦しみを生じさせるだけだ、と神様は教えようとしておられるのではないでしょうか。神様の思いは、復讐の連鎖が起こることがないようにということなのです。それで、「だれもカインを殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった」のです。これが、どのようなしるしなのかはわかりませんが、神様は、愚かなことをしたカインを、なおも守ってくださるというのです。 
 カインは、怒りにまかせて弟を殺してしまった結果、住み慣れた土地から出て行かざるをえなくなりました。3章では、アダムとエバがエデンの園を追い出され、この4章では、カインが自分の土地から出て行かなくてはならないという事態になってしまったのです。
 
4 さすらい人から旅人へ
 
 カインは、私は地上をさまよい歩くさすらい人にならなければなりません」と嘆きました。でも、それは、カインだけのことでしょうか。私たちも、実際に人を殺すことはなくても、心の中は、カインとなんら変りのない存在だと思います。妬みがあり、怒りが暴走し、神様への不平を平気で言う者です。そして、何の解決も見い出せずに同じようなことを繰り返してしまうことも多いのです。確かに、神様から離れていくとき、人はまるでさすらい人のようになっていくのだと思いますね。
 しかし、聖書には、素晴らしい約束があります。私たちは、「地上をさまようさすらい人」から「天国を目指す旅人」へと変えられるのだというのです。行き先のわからないさすらい人ではなく、天国を目指す旅人です。
 私たちは、いのちを与え、必要を備えてくださる父なる神様がおられることを知っています。救い主イエス様が十字架によって私たちの罪の問題を解決してくださり、永遠の救いの衣となってくださったことを知っています。また、聖霊が私たちのうちに住んでくださり、新しい心を与え、いつも共にいて天の御国に入る日まで守り導いてくださることを知っているのです。
 この三位一体の神様と共に歩む私たちは、虚しいさすらい人ではなく、天の御国を目指す旅人です。今は、集まることが自由にできない状況ですが、様々な方法で礼拝をささげ、感謝をささげることができますね。なんと大きな恵みでしょう。
 そして、今日は、洗礼式があります。主イエス様を信じ、神の家族とされる人が起こされることは、大きな喜びです。
 今週も、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝していく週となりますように。