城山キリスト教会 礼拝説教
二〇二五年二月二三日 関根弘興牧師
創世記四章一七節ー二六節
創世記から士師記まで5
「強さと弱さ」
17 カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。18 エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。21 その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。23 さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」25 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。(新改訳聖書第三版)
前回、アダムとエバが善悪を知る知識の実を取って食べてしまった結果、エデンの園から追い出され、困難の多い生活が始まったこと、そして、長男のカインが次男のアベルを殺してしまったことをお話ししました。
アダムとエバが神様に背いて自分が神のようになろうとしたために、神様との麗しい関係が破壊され、その結果、互いの人間関係も、自然との調和も破壊されてしまいました。彼らが神様との関係がずれた状態、つまり、罪の状態のままでいるなら、神様とともに永遠に生きるのにはふさわしくありません。そこで、神様は、いのちの木のあるエデンの園から彼らを追い出すことになさったのです。しかし、それと同時に、神様は、「女の子孫から救い主が生まれる」と約束してくださったのです。また、神様は、彼らがエデンの園から出て行くとき、皮の衣を着せてくださいました。彼らが恥じている裸のからだを動物のいのちを犠牲にして作った皮の衣で覆ってくださったのです。それは、将来、救い主が自らのいのちを犠牲にして、人のすべての罪を覆ってくださることを象徴するものでした。
さて、アダムとエバは、エデンの園から追い出されたとき、最初は「神様から離れても大丈夫。自分の力で自分の思うままに生きていける」と思っていたかもしれません。しかし、実際の厳しい生活に直面して、自分の弱さや愚かさを自覚するようになったのでしょう。二人の息子カインとアベルには、神様に感謝のささげものをするように教えたようです。ところが、神様は、アベルのささげ物には目を留めてくださったのに、カインのささげ物には目を止めてくださいませんでした。カインの心に問題があったからです。「自分の力で獲得したものをなぜ神様にささげなければならないのか」というような思いがあったのでしょう。自分の生活の背後に神様の恵みと支えがあることを認めていなかったのです。神様は、そのことを示そうとなさったのですが、カインは、反省するどころか怒りを募らせ、弟アベルを殺してしまいました。その結果、カインは、住み慣れた土地から離れ、さすらい人になってしまったのです。
こうしてアダムとエバは、長男カインも次男アベルも失ってしまったわけですが、神様は、セツという三男を授けてくださいました。今日は、カインの子孫とセツの子孫を対比しながら、人生を考えていきたいと思います。
1 カインとその子孫
さて、17節に「カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ」とありますね。
私が中学生の時でしたが、同級生の中でも成績の大変良い友人が、私にこう言ってきました。「おい、関根、俺も聖書読んだぞ。でもな、あれはデタラメだ。創世記4章を読んでみろ。最初の人はアダムとエバだろう。そして、そこから生まれたのがカインとアベルだろう。そして、アベルはカインに殺されたんだから、その時点では、アダムとエバとカインの三人しかいないじゃないか。それなのに、なんでカインは結婚できちゃうわけ?誰と結婚したんだよ。」
皆さんは、どう思いますか。創世記の著者が、中学生でも指摘できるような誰にでもわかる初歩的なミスを犯したのでしょうか。「創世記は、あまり知的レベルが高くなく理論的に整理出来ない人が書いたんだろう」とか「これは神話やおとぎ話のようなものだから、細かいことにこだわらなかったのだ」と思いますか。しかし、もし聖書がその程度の書物なら、なぜこれほどまでに大きな影響力を持っているのでしょうか。
カインの妻がどこから来たのかということについて、聖書は何も説明していません。ただ、推測することはできます。
創造されたばかりの人は、遺伝子が傷ついていなかったので、寿命はかなり長かったようです。5章5節には「アダムは九百三十年生きた」と書かれています。神様は、アダムとエバをお造りになったとき、「生めよ。ふえよ。地を満たせ」とお命じになりました。ですから、アダムとエバから多くの息子や娘たちが生まれ、また、その子どもや孫たちもどんどん増えていったことでしょう。それに、遺伝子が傷ついていなければ、近親結婚をしても問題が起こらなかったと考えられます。実際に近親結婚が禁じられるようになったのは、かなり後のモーセの時代です。ですから、カインは、アダムとエバから生まれた女性、つまり、妹を妻にしたと考えることもできるわけです。
ただ、聖書は、そのことについては何も説明していません。カインが誰を妻にしたかということよりも、カインのその後の生き方に焦点をあわせているからです。
さて、カインは、生まれた子供をエノクと名付けました。また、自分が建てた町にも同じエノクという名を付けました。この「エノク」という名前は、「奉献する」「新しい家を公式に開く」という意味のある名前です。彼は、過去を忘れて新しい歩みをしていきたいと思って、再スタートのために町を建てたのかもしれません。しかし、ここには、神様のかの字も出て来ません。カインは、神様に頼らず、自分の力と強さに頼って生きていこうとしたようです。そのような態度は、カインの子孫にも脈々と受け継がれていきました。それは、19節に登場するレメクという人物を見るとわかります。「レメク」とは、「強い者」という意味です。19ー24節に、彼がどのような人物であったかが書かれていますね。
(1)ふたりの妻
19節に「レメクはふたりの妻をめとった」とあります。以前にもお話ししましたが、創世記2章14節には、次のように書かれています。「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」結婚とは、一人の男性と一人の女性が結び合い、ふたりが一体となることだと神様は創造の初めから定められておられるのです。
ところが、レメクは、結婚という大切な人格的な結び付きを否定する行動を取りました。ふたりの妻を持ったのです。これが聖書に記録されている最初の一夫多妻です。
私たちが旧約聖書を読むとき違和感を感じることの一つは、この一夫多妻ということですね。旧約聖書に登場する人物の多くが複数の妻を持っていました。有名なダビデも何人もの妻を持っていました。聖書には「一夫多妻はいけません」という言葉はどこにも書かれていません。では、聖書は「一夫多妻」を認めているのでしょうか。答えは「いいえ」です。聖書には、一夫多妻のゆえに家族の中に争いや憎しみや悲しみや痛みがもたらされた出来事が繰り返し記されています。そういう出来事を通して、聖書は一夫多妻の愚かさを教えているのです。
しかし、レメクは、自分の強さや力を誇示するために二人の妻をめとったのでしょう。
(2)復讐
その二人の妻の前で、レメクはこう宣言しました。「私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」つまり、「俺を傷つけた奴は、殺してやったぞ。やられたら、七十七倍返しだ!」と言ったわけですね。
以前、レメクの先祖のカインが弟を殺して故郷を追い出されるとき、「今度は自分が誰かに殺されるのではないか」と恐れていました。そんなカインに神様は「カインを殺す者は七倍の復讐を受ける」と言われましたね。神様がこう言われたのは、「復讐は愚かなことであり、後で七倍になって自分に返ってくる。だから、復讐してはならない」ということを教えるためでした。それなのに、レメクは、その言葉を自分の都合のいいように解釈して、「俺は、カインより偉いんだから、七倍では足りない。七十七倍の復讐をしてやる」と言ったわけです。自分の強さを誇り、恐怖を与えることによって人を支配しようとしたのですね。このような態度は、結果的に何を産み出すでしょう。消えることのない復讐の連鎖です。そして争いは激化していくのです。残念ながら、これほど文明が発展したはずの今でも、レメクのような人はたくさんいて、復讐の連鎖が続いていますね。しかし、いくら自分の強さを誇ったとしても、それは本当の強さではないのです。
2 セツとその子孫
さて、その一方で、25節からは、セツとその子孫のことが記されています。こう書かれていますね。「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」
長男カインはアベルを殺した後、両親の元を去ったので、アダムとエバはカインもアベルも失ってしまったわけです。二人は大きな衝撃と悲しみを感じたでしょう。
しかし、神様は、セツを授けてくださいました。「セツ」とは、「置く、備える」という意味の名前です。アダムとエバは、このセツが誕生した時、「神様が私たちにこのセツを備えてくださった」と思ったのでしょうね。
(1)エノシュの誕生
そして、そのセツに男の子が生まれました。セツはその子を「エノシュ」と名付けました。「エノシュ」とは、「弱い、もろい」という意味の名前です。先ほどの高慢なレメクは「強い」という意の名前でしたから、正反対ですね。
この「エノシュ」という言葉は、聖書の中で「人」という意味でも使われています。人は、弱くもろい存在だということですね。いくら威張っても、自分の力を誇っても、神様なしでは、ただの脆い土くれにすぎないのです。しかし、そんな自分の存在のはかなさや弱さを自覚する時にこそ、私たちは、神様の支えの中で生かされていることを知ることができるのですね。
自分を「レメク=強い」と思って、自分の力と強さを見せつけて生きていこうとする人生があります。その一方で、自分は「エノシュ=弱い」と認め、神様の支えの中で生かされていく人生があるのです。この二つの人生は、大きく違いますね。
(2)主の御名による祈り
人が自分はエノシュ(弱い存在)であると認めるとき、生まれてくるものがあります。それは「祈り」です。26節に「そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた」とありますね。
「主の御名によって祈る」は、直訳すると「御名を呼ぶこと」となります。それは、どういうことでしょうか。「御名」とは神様御自身を表しています。つまり、天地を創造し、いのちを与え、支えてくださっている神様に向かって、「神様、私にはあなたが必要です」と呼び求めることなのです。
そして、ここで祈ることを「始めた」とありますが、それまで祈ることがまったくなかったという意味ではありません。人は、この頃から、神様に祈ることの大切さを特に深く感じ始めたのでしょう。
レメクは、自分の力を誇り、七十七倍の復讐を宣言しました。それは結果的に、終わりのない壮絶な復讐の連鎖へと繋がっていくことになります。一方、自分自身の弱さを知り、主の御名によって祈り求める人生は、恵みが恵みを呼ぶという神様の恵みの連鎖に繋がっていくのです。ですから、自分が弱く、もろい存在だからといって、決して悲観的、消極的に考える必要はありません。神様にあって力強く生きていくことができるからです。
(3)セツの系図
さて、次の5章には、セツの系図が記されています。ここからは、エバの子どもたちの中で特にセツの子孫に焦点が絞られていきます。以前、神様は「女の子孫から救い主が生まれる」と言われましたが、女の子孫の中でも、特にセツの子孫から救い主が生まれることがわかってきたわけです。
その系図を見て驚くのは、ここに名が挙げられている人物がみな考えられないほどの長寿だということです。「アダムは九百三十年生きた」とありますね。また、セツは九百十二年、エノシュは九百五年です。
こういう箇所を読むと、いろいろ考える人が出てくるわけです。「当時の年数の数え方は、今と違ったのではないか」と考える人もいます。また、「当時は地球の環境や空気中の酸素濃度などが今と違っていたから長生きができたのではないか」とか、「遺伝子が今ほど傷ついたり劣化したりしていなかったので長生きだったのではないか」と考えることもできるのです。
しかし、この後、の寿命がだんだん短くなっていくことがわかります。11章10節ー32節には、5章の系図の続きが記されていますが、それを見ると、人の寿命がどんどん短くなっていったことがわかります。五百年、四百年、三百年、二百年と減っていき、アブラハムやモーセの時代になると今とあまり変わらなくなります。そして、そのように寿命が短くなっていく間に起こった様々な出来事の記録を読みますと、人の寿命が激減したのは人の罪の結果なのだということを暗示しているかのように思われるのです。
ただ、5章の系図で大切なのは、寿命の長さではありません。ここには普通の系図にはない独特の表現が出てくるのです。それは、「こうして彼は死んだ」という表現です。普通、系図は死んだ先祖の名前を記録していくわけですから、わざわざ「彼は死んだ」などと記す必要がありません。しかし、この5章の系図には、いちいち「何年生き、こうして彼は死んだ」と繰り返し記されているのです。ある聖書学者は、この創世記5章を「弔いの鐘が鳴っている」と表現しました。人は、どんなに長寿であったとしても、必ず死に直面しなければならないという現実を突きつけているわけです。
神様はアダムとエバに「善悪を知る知識の木の実を取って食べるなら、あなたは必ず死ぬ」と言われましたね。その現実が5章で明確に示されているわけです。
(4)神とともに歩む生涯
しかし、この5章にはキラリと光る希望が示された箇所があります。5章22節ー24節にこう書かれています。「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」
エノクは、六十五歳でメトシェラを生みました。その子の誕生が人生に大きな影響を及ぼしたのかもしれません。エノクの人生はそこから変わっていったのでしょう。その後、三百年、神と共に歩んだ、と記されています。
このエノクは、先ほど出てきたカインの息子とは別の人物です。5章の系図に登場する人はみな「こうして彼は死んだ」で終わっているのに、エノクだけは、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」と書かれているのです。エノクが生きた年数は三百六十五年で、この系図の中では最も短い生涯です。他の人々の寿命から見ると、三百六十五歳のエノクは、まだ働き盛りです。一家の大黒柱として、なすべき仕事は山ほどあったでしょう。しかし、そんな彼が突然いなくなったのです。家族は大いに悲しんだでしょう。なぜこんなに若くして取り去られたのかと嘆きや叫びも起こったことでしょう。残された家族には、これからの生活の不安や混乱もあったかもしれません。
しかし、ヘブル人への手紙11章5節には、こう書かれています。「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」
残された人々は、最初は、神様がエノクを取られたという現実を理解したり受け入れることが難しかったかも知れません。しかし、時間の経過と共に「エノクは神とともに歩んでいたのだから、エノクの行く所にはどこにでも神様がおられるではないか。とするなら、生きるにしても死ぬにしても神様がエノクとともにおられるということだ」と、うなずくことができるようになり、安息と平安を見いだしていったのではないかと思うのです。
エノクに関しては、彼が何か立派なことをしたとか、功績をたてたなどということは何も記されていません。ただ「神とともに歩んだ」と短く書かれているだけです。エノクは、日常の生活の中で神様を身近な方として見上げ、辛い時や悲しい時があっても、まるで神の園を歩むかのように神様と親しく歩んだということなのでしょう。
この「神とともに歩んだ」という表現は、聖書の中では、このエノクと6章から登場するノアだけに使われています。桁外れの寿命が列挙されている系図の中にあって、エノクは、神と共に歩み、寿命を、いや死さえも忘れさせるほどの人生を送ることができたのです。
さて、私たちは皆、寿命は違います。歩む人生は違います。しかし、イエス様は「わたしを信じる者は死んでも生きる」と約束してくださいました。私たちは、イエス様とともに歩み、死も年齢も関係なく、最終的にイエス様とともに天の御国で生きる者とされているのですね。「○○は死んだ。しかし、今、キリストと共に生きている。」これがクリスチャンの系図の書き方なのですね。感謝ではありませんか。