城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年六月一三日             関根弘興牧師
                 創世記四章一七節ー二六節
 
 創世記1ー11章連続説教6
    「強さと弱さ」 
 
 17 カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。18 エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。21 その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。23 さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」
  25 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。(新改訳聖書第三版)
 
 前回は、カインとアベルのお話をしました。
 最初の人アダムとエバがエデンの園から出た後、長男カインと次男アベルが生まれました。カインは地を耕す者となり、アベルは家畜を飼う者となりました。
 二人はそれぞれ神様にささげものをしました。カインは土地の産物、アベルは羊です。神様は、アベルのささげものには目をとめられました。しかし、カインのささげものには目をとめられなかったのです。それで、カインは、憤り、ふて腐れてしまいました。そんなカインに、神様は、「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる」と言われたのです。
 神様は、ささげられる品物にこだわる方ではありません。ささげる人の心をご覧になるのです。私たちは、神様によって生かされ、支えられ、赦され、人生を歩んでいます。そのことを認める時に湧いてくる思いは、感謝です。「ありがとう」です。神様にこの感謝の心を持ってささげることが、人間本来の姿なのです。
 しかし、カインは、違いました。カインは、ささげものを持っては来ましたが、心の中では、こんな風に考えていたのではないかと思います。「なんで神様にささげる必要があるんだ。俺が汗水たらして働いたから作物ができたんだ。神様は何も手伝ってくれていないじゃないか。それでも、この忙しい中、わざわざ、ささげものを持ってきたのに、神様は、弟のささげものだけ受け取って、俺のささげ物は無視した。一体どういうことだ。まったく頭にきちゃうぜ!」こんな具合ですね。カインの間違いは、いま自分が手にしている全てのものが当たり前にしか映っていないことにあるのです。それで、心から感謝することができなかったのですね。
 そして、彼は怒りだし、その怒りは、破壊へ向かわせる大きなエネルギーとなっていきました。神様は、カインが怒っている姿をご覧になって、こう言われました。「その怒りを治めなさい。さもないと、その怒りがだんだんエスカレートして、罪のわなにはまってしまう。罪はあなたを引きずり込もうと戸口で待ち伏せしているのだ。だから、今のうちに怒りを静め、治めなさい」と。しかし、結局、カインは、その神様の警告を聞かずに、弟を野に連れ出し、殺してしまったのです。
 その結果は、どうだったでしょうか。カインは、住み慣れた土地から離れざるをえなくなり、今度は、誰かが自分を殺すのではないかという恐れをいだきながら、地上をさまようさすらい人になってしまったのです。
 今日の箇所には、カインのその後と、彼の子孫の姿が書かれています。また、アダムとエバに、セツという息子が生まれたことも書かれていますね。今日は、カインの子孫とセツの子孫を対比しながら、人生を考えていきたいと思います。
 
1 カインとその子孫
 
 さて、17節に、「カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ」とありますね。
 私が中学生の時でしたが、同級生の中でも成績の大変良い友人が、私にこう言ってきました。「おい、関根、俺も聖書読んだぞ。でもな、あれはデタラメだ。創世記4章を読んでみろ。最初の人はアダムとエバだろう。そして、そこから生まれたのがカインとアベルだろう。そして、アベルはカインに殺されたんだから、その時点では、アダムとエバとカインの三人しかいないじゃないか。それなのに、なんでカインは結婚できちゃうわけ?誰と結婚したんだよ。」
 皆さんは、どう思いますか。創世記の著者が、中学生でも指摘できるような誰にでもわかる初歩的なミスを犯したのでしょうか。創世記は、あまり知的レベルが高くなく理論的に整理することが出来ない人が書いたからこうなったと思いますか。あるいは、単なる神話やおとぎ話のようなものだから細かいことにこだわらなかったのだと思いますか。
 しかし、もし聖書がその程度の書物なら、なぜこれほどまでに大きな影響力を持っているのでしょうか。
 カインの妻がどこから来たのかということについて、聖書は何も説明していません。ただ、推測することはできます。
 創造されたばかりの人は、遺伝子が傷ついていませんから、近親結婚をしても問題が起こらなかったと考えられます。実際に近親結婚が禁じられるようになったのは、かなり後のモーセの時代です。それに、当時は人の寿命はかなり長かったようです。5章5節には「アダムは九百三十年生きた」と書かれています。神様は、アダムとエバをお造りになったとき、「生めよ。ふえよ。地を満たせ」とお命じになりました。ですから、アダムとエバから多くの息子や娘たちが生まれたことでしょう。ですから、カインは、アダムとエバから生まれた女性、つまり、妹を妻にしたと考えることもできるわけです。
 ただ、聖書は、そのことについては何も説明していません。それは、カインが誰を妻にしたかということよりも、カインがその後どのような歩みをしたかということのほうが大切な主題であったからです。カインのその後を記録することによって、聖書は、人としてのあり方を教えようとしているわけです。そのことが大切なんですね。
 さて、カインは、生まれた子供をエノクと名付けました。また、自分が建てた町にも同じエノクという名を付けました。この「エノク」という名前は、「奉献する」「新しい家を公式に開く」という意味のある名前です。彼は、過去を忘れて新しい歩みをしていきたいと思ったのかもしれません。自分の再スタートのために町を建てたのかもしれません。しかし、そこには、残念ながら神様の「か」の字も登場しません。
 詩篇127篇1節ー2節にはこうあります。「が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」また、箴言3章5節ー7節にはこう書いてあります。「心を尽くしてに拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。」
 町を作ることは決して悪いことではありません。しかし、カインは、神様に頼るのではなく、神様抜きの自分の力のみに頼って自分たちを守ろうとしたようです。
 その神様抜きの態度は、カインの子孫にも伝えられていったようです。そのことは、19節に登場するレメクという人物を見るとわかります。
 「レメク」とは、「強い者」という意味です。彼は、まさにその名の通り、頼れるのは自分の強さ、力だけ、と考えているような人でした。このレメクの姿から三つことを見ていきましょう。
 
@ふたりの妻
 
 19節に「レメクはふたりの妻をめとった」とありますね。
 以前にもお話ししましたが、創世記2章14節には、次のように書かれています。「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」ここには、「男は、妻たちと結び合い」とは書かれていません。結婚とは、一人の男性と一人の女性が結び合い、ふたりが一体となることだと神様は創造の初めから定められておられるのです。
 ところが、レメクは、結婚という大切な人格的な結び付きを否定する行動を取りました。ふたりの妻を持ったのです。それは、自分の強さや力を誇示するためだったのでしょう。これが一夫多妻のはじまりとなりました。
 私たちが旧約聖書を読むとき、違和感を感じることの一つは、この一夫多妻ということですね。神様に従ったダビデさえ、何人もの妻を持っていました。「一夫多妻はいけません」とはっきり書かれている箇所は、聖書のどこにもありません。
 では、聖書は「一夫多妻」を認めているのでしょうか。答えは「いいえ」です。聖書には、一夫多妻のゆえに家族の中に争いや憎しみや悲しみがもたらされたことが繰り返し記されています。そうした数々の出来事を通して、一夫多妻の愚かさを教えているのです。神様は男女が一体となって助け合い愛し合う結婚の形を定めてくださったのに、人はそれを軽んじ、その結果、様々な問題が生じることになったのです。
 
A神なしの文化
 
 20節ー22節には、こう書かれています。「アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。」
 ここにレメクの三人の子供たちが出てきます。ヤバルは、牧畜を行う者となり、その働きを発展させていきました。そして、ユバルは、竪琴と笛を巧みに奏する者となりました。これは、芸術家のはしりですね。芸術を発展させる者となったのです。そして、トバル・カインは、青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であったとありますね。これは、技術や科学の発達を意味しています。
 人には、生理的欲求があります。生きていくために必要な衣食住ですね。また、美的な欲求もあります。芸術的なものを求める欲求です。美しい絵画を見たり音楽を聴くと、感動し、心が癒やされますね。芸術がなければ、無味乾燥な世界になってしまいますね。そして、人間には知的欲求があります。それによって、新しい発見や発明がなされていきます。科学や技術の発達は、知的欲求のなせるわざですね。
 こうした欲求はどれも決して悪いものではありません。神様が人に備えてくださったものであり、生活を豊かにしていくためのものです。しかし、人が謙遜さを失い、神様をあがめようとせず、自分の欲求をただ自分の力の誇示のために使い、自分がまるで神であるかのように高慢になっていくなら、その文化は限りない危険性をはらんでいるのです。
 
B復讐
 
 さて、23節ー24節で、レメクは、自分の妻たちの前で復讐の歌を歌っています。自分の強さを誇り、恐怖を与えることによって人を支配しようとする歌です。レメクは、「私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した」と歌っていますね。どういうことかといいますと、「人が自分をちょっとでも傷つけたら容赦しない、必ず殺してしまうぞ!」というわけです。さらに彼は、「カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍」と豪語しました。「やられたらやり返せ。倍返しだ!」はまだかわいいほうですよ。やられたら、七十七倍返しだ!というのがレメクの姿です。つまり徹底的にやり返す、というのです。このような態度は、結果的に何を産み出すでしょう。復讐の連鎖です。そして争いは激化していくのです。残念ながら、私たちは、文明が発展したはずの今でも、レメクの語った言葉は生きているわけですね。同じような光景を見ています。何と寂しいことでしょう。
 このように、聖書は、カインの子孫が自分の力により頼み、人を恐怖によって支配しようとする姿を記しています。これは、結局、破壊へと向かっていく姿です。それは、本物の強さと言えるでしょうか。
 
2 セツとその子孫 
 
 一方で、聖書は、25節から、アダムとエバから生まれたもうひとりの息子セツとその子孫のことを記しています。こう書かれていますね。「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々はの御名によって祈ることを始めた。」
 カインはアベルを殺した後、両親の元を去って行きました。アダムとエバは、カインもアベルも失ってしまったわけです。この出来事で、二人は大きな衝撃を受けたでしょう。それは悲しい現実でした。
 しかし、神様は、アベルの代わりにセツを授けてくださいました。「セツ」とは、「置く、備える」という意味の名前です。アダムとエバは、このセツが誕生した時、「神様が私たちにこのセツを備えてくださった。この子をアベルの信仰を受け継ぐ者としてくださるように」と願ったのでしょう。
 そして、そのセツに男の子が生まれました。セツはその子を「エノシュ」と名付けました。この「エノシュ」という名前は、「レメク(強い)」とは正反対の言葉で、「弱い、もろい」という意味です。
 この「エノシュ」という言葉は、聖書の中で「人」という意味でも使われています。人は、神様なしには全く弱くもろい存在だということですね。私たちは、いくら威張っても、いくら自分の力を誇っても、皆、もろい土くれにすぎないのです。そんな自分の存在のはかなさや弱さを自覚する時にこそ、私たちは、神様の支えの中で生かされていることを知ることが出来るのですね。
 自分を「レメク=強い」と見て、自分の力のみによって生きていこうとする人生があります。その一方で、自分は「エノシュ=弱い」と認め、神様の支えの中で生かされていく人生があるのです。この二つの人生は、大きく違いますね。
 そして、自分がエノシュであると認めて生きていく時に、生まれてくるものがある、と聖書は教えています。それは、「祈り」です。26節に、「そのとき、人々はの御名によって祈ることを始めた」とあります。
 人は、自分の弱さを自覚したとき、祈ることを始めます。レメクのように自分を誇り、自分の力を拠り所にしている人にとっては、「祈り」はただの自己満足や現実逃避にしか見えないかもしれません。しかし、自分の弱さを知る時、人は神様を求め、神様への祈りが生まれるのです。
 ただ漠然と誰に向かって祈っているのかわからないような祈りではありません。「彼らは主の御名によって祈ることを始めた」とありますね。「主の御名によって祈る」とは、どういうことでしょうか。「御名」とは神様御自身を表しています。つまり、天地を創造し、いのちを与え、支えてくださっている神様御自身に向かって祈ることが始まったのです。といっても、もちろん、それまでに祈ることがまったくなかったということではないでしょう。しかし、人は、この頃から神様に祈ることの大切さを特に感じ始めたようです。
 そして、祈り始めると、何がわかるでしょう。神様が祈りに答えてくださる方だということを体験的に知ることができるようになるのです。
 先日、ある方の講演で、心に染み入る祈りの言葉を聞きました。
   天のお父様
   どんな不幸を吸っても
   吐く息は感謝でありますように
   すべては恵みの呼吸ですから」
 第一テサロニケ5章16ー18節には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」とあります神様が私たちに望んでおられるのは、祈りと感謝の人生なのです。
 時には辛い現実があります。避け難い困難があります。苦しみも襲います。
 旧約聖書に登場するヨブのことをご存じでしょう。彼は正しい人でした。しかし、次から次へと不幸が襲ってきました。財産を失い、子供たちを失い、健康を失い、大変な苦しみの中に突き落とされたのです。そのとき、ヨブはどうしたでしょう。こう書かれています。「このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。は与え、は取られる。の御名はほむべきかな。』」
 私たちは、「主は与え」ということは受け入れることができます。「主は、私にこれを与えてくださいました。ハレルヤ」と感謝できますね。しかし、「主は取られる」というとき、どうして「主の御名はほむべきかな」と言えるでしょうか。なかなか言えないのです。これは、クリスチャンの生涯の大きなテーマです。一生をかけて学んでいくことです。簡単ではありませんが、愛なる神様が共にいてくださるとするなら、不幸と思える現実も、最終的には神様が善なるものに変えてくださると信頼し、最終的に「主の御名はほむべきかな!」と告白することができる生涯と変えてくださると信じるのです。それが信仰生活の醍醐味です。
 レメクは、七十七倍の復讐を宣言しました。それは結果的に、壮絶な復讐の連鎖へと繋がっていくことになります。
 その一方で、どんな時にも主の御名によって祈っていくなら、恵みが恵みを呼ぶという神様の恵みの連鎖を味わうことができるようになるのです。
 聖書に、「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」と記されているとおりです。
 私たちはみな弱く、もろい存在ですが、決して悲観的、消極的に考える必要はありません。イエス様が弱い私たちを覆ってくださっているので、私たちは、神様にあって力強く生きていくことが出来るのです。
 最後に、パウロの言葉を紹介しましょう。「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4章11節ー13節)