城山キリスト教会 礼拝説教
二〇二五年三月九日 関根弘興牧師
創世記九章八節ー一七節
創世記から士師記まで6
「契約のしるし」
8 神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。9 「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。10 また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。11 わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」 12 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。14 わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。15 わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。16 虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」 17 こうして神はノアに仰せられた。「これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」(新改訳聖書第三版)
1 人の悪の増大
最初の人アダムとエバは神様に背いてエデンの園を追われ、息子のカインは弟アベルを殺して自分の故郷から離れざるを得なくなりましたが、その後、人はさらに神様から遠く離れていきました。6章5節には「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった」と書かれています。また、6章11節には、「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた」とあります。
思い出してください。創世記1章31節には、「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」と書かれていましたね。最初に神様がこの世界のすべてのものを造られた時は、神様の目には「非常によかった」のです。神様は、愛をもってこの世界をお造りになりました。そこには調和がありました。人は、神様と共に、神様と応答し合いながら生きていく存在として造られました。
ところが、人は自分が神のようになって自分こそすべての基準であるかのような欲望に引かれて、神様との麗しい関係を自ら破壊してしまいました。神など必要ない、と自分の人生から神様を追い出して、自分勝手な生き方をするようになっていったのです。聖書でいう「罪」とは、本来のあるべき状態から「ずれ」てしまっている、ということを指す言葉です。人は、そのずれた状態に陥ってしまったわけですね。そして、この6章のノアが生きた時代になると、その「ずれ」は、もはや修復出来ないほど大きなものとなり、暴虐で地が満ていたほどになってしまっていたというのです。
ただ、そんな中でも、前回お話ししたエノクや今日登場するノアのように「神とともに歩んだ」人々がいたのです。今日は6章ー9章の有名な大洪水の記事から、ノアの生き方、また、神様の救いについて学んでいきましょう。
ところで、6章2節に「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした」と書かれています。これを読んで疑問に思われる方は多いでしょう。「神の子ら」とは、どういう存在なのでしょうか。この箇所にはいろいろな解釈があるのですが、「神の子ら」とは、「神様がいることを信じている人々」という意味ではないかと思われます。つまり、神様がいることを信じていた人々も、この時代になると、ただ自分の欲望のままに、どんどん悪い方向に向かっていったことを表しているのでしょう。
また6章4節には、当時、ネフィリムが地上にいて、名のある者たちであったとも記されています。この「ネフィリム」とは、「堕落した者たち」とか「力の人」「巨人」という意味のある言葉です。つまり、自らの強さと力を誇り、神様に敵対しているような存在が当時のヒーローとされていたわけです。その結果、人の悪は増大し、地は暴虐で満ちてしまうという、悲惨な状態になっていったのです。
神様は、そんな人々の姿をご覧になって、心を痛められました。なぜなら、このままの状態が続くなら、結果的に、人は自らを滅ぼしてしまうからです。人は、自らの罪によって、自らの滅びを引き寄せていたのです。
神様は、そんな人々に対して、6章3節で「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられました。これは、どういうことでしょうか。人の寿命を百二十歳までとすることだという解釈もあります。実際、今、どんなに長生きをする人でも百二十歳ぐらいまでですね。しかし、別の解釈もあります。それは、「自らが滅びを引き寄せているような生き方をやめて、神様に向きを変えていきなさい。そのための猶予期間として百二十年を定める」という意味だとする解釈です。つまり、人は、自らの行動の責任を問われているわけです。
2 ノアの箱船造り
そんな混沌とした時代に、 ノアという人物がいました。5章の系図を見ると、ノアは、アダムの息子セツの子孫であることがわかります。6章9節に「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ」と書かれていますね。これは、ノアが欠点がひとつも無い完全な人だったという意味ではありません。神様と正しい関係をもって、神様に信頼して歩んでいたということです。ノアは、自分が神様により頼まなければ生きていけないと感じていたのでしょう。神様を無視して暴虐の中に生きている人々の姿に、崩壊に向かいつつある危険性を感じていたのかもしれません。
神様は、そんなノアに重大な命令をお与えになりました。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。」箱舟を造ってそれに乗れば、ノアと家族は滅びから救われると言われたのです。 でも、ノアは、舟を造る専門技術など持っていなかったと思います。ですから、神様は、箱舟の材料、構造や寸法、防水加工などについて細かく指示をなさいました。
材料となる木材は、ゴフェルの木です。この木がどういう木なのかわかりませんが、船の材料ですから、相当硬い種類の木のはずです。ですから、切り出すのも加工するのもかなり苦労したはずです。箱舟の寸法も出てきます。メートルに換算すると、長さ約百四十メートル、幅約二十三メートル、高さ約十四メートルです。この長さ、幅、高さの比率は、荷物をたくさん積むことを目的としている船としては、理想的なバランスだそうです。まるでタンカーみたいな舟ですね。それに、前に進むのが目的ではなく、安定して浮いていることが目的ですから、形は普通の舟のような舳先(へさき)がとがった形ではなく、長方形でまさに箱のような形だったかもしれません。内部は三階建てです。
こうして、ノアは、今まで経験したことのない箱舟の建造に取り組んでいくわけです。もちろん家族の協力が必要でした。家族総出で造っていくわけですが、こんな大きな舟を造るのですから、一年、二年の単位ではありません。先ほどお話ししたように、神様は、当時の人々に対して、神様に立ち返るために百二十年という猶予期間をお決めになりました。この期間とノアたちが箱舟を建造した期間とは、ほぼ同じだったのではないかと考えられています。つまり、箱舟を造るのに、百二十年ぐらいかかったのではないかというのです。
考えてみてください。あなたが、ノアの妻、または息子だったらどうでしょう。「お父さんは、神様の命令だっていうけど、勝手に思いこんでるだけじゃないですか」「大洪水が起こるなんて、どうしてわかるんですか」「こんな大きな舟を造っても無駄でしょう」などと言ったかもしれません。長い間、大変な苦労をして箱舟を造っているうちに反発や疑いを抱くこともあったでしょう。しかし、この箱舟の建造のためには、家族の協力が不可欠でした。家族の同意なしにはできません。ですから、ノアは、熱心に家族に神様の言葉を伝え、暴虐に満ちている時代の中で神様を信頼して生きることの大切さを分かち合っていたはずです。神様と共に歩むのでなければ、到底続けられないと思ったはずです。実際に箱舟を造ることは大変な作業ですが、ノアにとっては、家族が同じ思いで行動していくことができるように家族のみんなを支えていくということははさらに大きな仕事だったのです。
ヘブル11章7節には、こう書かれています。「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」ノアは、愛する家族の救いのために何としても箱舟を造ることに専念したのです。
では、まわりの人々はどうだったでしょうか。彼らから見れば、ノアは完全に変わり者です。「神様がこの地を滅ぼすだって。馬鹿げてる。この場所に大洪水が起こるはずがない。こんな大きな舟を造ってどうするんだ」とノアを笑いものにしたことでしょう。人々の嘲笑は、ノアの心を揺さぶったと思います。しかし、ノアは、箱舟を作り続けました。そして、それだけでなく、嘲る人々に向かって神様の警告を伝え、自らの救いを考えるようにと訴え続けたはずです。しかし、人々は、まったく聞く耳を持ちませんでした。そして、そのようにして長い年月が経っていったわけです。
3 大洪水
さあ、遂に箱舟が完成しました。神様は、ノアに、つがいの動物たちや食糧を集めて箱舟に乗せるように命令なさいました。彼らが箱舟に動物たちや食糧を乗せるのに七日間くらいかかったようです。ちなみに、7章2-3節で、きよい動物と鳥は七つがいずつ舟に乗せるようにとありますが、ここで「きよい」とは、神様にささげるものということですから、多めに乗せておくわけですね。箱舟の中は、まるで動物園のような状態ですね。しかし、動物は非常事態で冬眠状態になったのではないかと言う人もいます。
さて、準備が終わると、最後にノアとその家族が船に乗り込みました。ノア夫妻と三人の息子たちとその妻ですから、八人ですね。そして、七日目に、遂に大雨が降り出したのです。
7章16節には、大変象徴的な言葉が記されています。「主は、彼のうしろの戸を閉ざされた」と。戸というのは、一番浸水しやすい場所です。神様は、一番浸水しやすいその戸をしっかりと閉ざしてくださいました。ノアたちが大洪水から救われるためにです。そして、それは同時に、ノアを馬鹿にし、あざ笑っていた人たちの救いの道が閉ざされた、ということも意味しているわけです。第二コリント6章2節に、こう書かれています。「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」神様の恵みの言葉、招きの言葉が語りかけられている間に、その言葉に応答して救いを受けることは、どれほど大切なことでしょう。しかし、ノアの家族以外の人たちは、神様からの招きを無視して、箱舟に乗ろうとはしなかったのです。
さて、この大洪水をもたらした雨は、四十日四十夜降り続きました。水かさは増し、雨がやんだ後も百五十日間、水は増え続けていき、すべてが水に覆われてしまいました。
その後、次第に水が減り始めましたが、ノアたちが箱舟から出られるようになるまでに、なんと丸一年も経っていたのです。
ところで、地球全体を覆う大洪水が起こるなど、科学的に考えてありえないから、この大洪水は架空の作り話にすぎないと言う人もいます。しかし、こう考えたらどうでしょうか。人が全世界に散らされるのは11章になってからです。ですからそれ以前のノアの時代においては、その地域全体を覆う大洪水が起これば、その地域にいる人の目線で見れば、全世界を滅ぼす大洪水だったということになりますね。それなら箱舟に乗せる動物もその地域にいる種類だけでよかったことになります。そうであっても考えられない大洪水であったことは変わりありません。
さて、大洪水が終わったとき、8章17節で、神様は、ノアたちにこう命ぜられました。「あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい」と。
これは、すべてのものの再スタートです、神様は、彼らに、もう一度、この自然を管理し、豊かにしていくようにと命じられたのです。そのために、神様は、8章22節に書かれているように「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない」と約束してくださいました。
さて、ノアの家族が箱舟から出て最初に行ったのは、祭壇を築いて礼拝することでした。神様に全焼のいけにえをささげたのです。全焼のいけにえは、すべてを焼き尽くして煙にするわけですね。煙は上に上っていきますね。これは、「すべてを神様にささげます」という献身の表明であり、「すべてをあなたに委ねて生きていきます」と言う信仰の表明でもありました。また、大洪水から救われたことへの感謝と賛美の表明でもあったのです。すべての再スタートは、神様に礼拝をささげるということから始まったのです。
4 神様の契約
神様は、そんなノアたちを祝福し、大切な契約を与えてくださいました。その契約のことが、先ほど読んでいただいた9章8節から17節に書かれています。
ところで、通常の契約では、甲と乙という双方が当事者になり、それぞれの責任を負いますね。しかし、ここでは主ご自身が一方的に契約を立てておられます。それは、この契約においては、主が全ての責任を取ってくださるということです。しかも、この契約は、変更されたり破棄されることのない永遠の契約だというのです。
@契約の内容
契約の内容は、9章11節に書かれています。「すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない」という契約です。これには、どういう意味があるのでしょうか。二つの側面から考えていきたいと思います。
まず一つは、結局、大洪水では、人の罪の問題は解決しない、大洪水が人に本当の救いをもたらすことはできない、ということです。大洪水が起こる前の6章5節ー8節を見ますと、「神様は、人が心に計ることが、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になって、人や生き物を地の面から消し去ろうと決められた」ということが書かれています。しかし、大洪水の後の8章21節では、神様は、「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい」と言っておられるのです。なんだか神様は矛盾するようなことを言っておられるように思えますね。一体、どういうことなのでしょう。
大洪水の結果、地上に残った人といえば、ノアとその家族だけでしたね。ノアは、神と共に歩んだ人でした。しかし、そのノアであっても、全く罪のない完全な人というわけではありませんでした。アダムの罪の性質を受け継ぐ一人でした。そして、その子孫たちは、やはり、神様にそむき、神様から離れていくようになってしまいました。ですから、もし罪人をその罪の故に罰し滅ぼしたとしても、それをいくら繰り返しても、いつまでたっても根本的な罪の問題は解決せず、本当の救いはもたらされないのです。
つまり、神様が「もはや大洪水で滅ぼすことはしない」とおっしゃるのは、「ただ人を罪のゆえに罰するだけでは、決して本当の救いは成就しない」ということを私たちに徹底的に教えておられるということでもあるのです。
その一方で、神様は、私たちの罪の問題を根本的に解決する救いの道を備えてくださいました。その道とは、新約聖書の中で明らかにされた神のひとり子、救い主イエス・キリストを信じて救われるという道です。キリストは、私たちのすべての罪を背負い、私たちの身代わりに十字架についてさばきを受けてくださり、私たちの罪の問題を解決してくださいました。また、三日目によみがえることによって、私たちに神様と共に生きる新しいいのちを与えてくださったのです。私たちはそのイエス・キリストの十字架と復活を信じることによって、罪赦され、神様との関係を回復し、永遠のいのちをもって、主とともに生きることができる、つまり、永遠の救いを得ることができるのです。ノアは神様の言葉を信頼して箱舟に乗り大洪水から救われましたが、私たちは神様の言葉を信頼してイエス・キリストを信じることにより滅びから救われるのです。つまり、神様の「わたしはあなたを滅ぼさない」という約束は、イエス・キリストによって完全に成就されることになると聖書は約束しているわけです。私たちはその約束の中にいま生かされているのですね。
そして、神様が「大洪水で滅ぼすことはしない」という契約を立ててくださったもう一つの大切な意味について考えてみましょう。ノアたちは、大洪水によって約一年もの間、日常の生活が出来なくなってしまいました。まさに異常気象の極みのような一年でした。そして、それは、神様のさばきでもあったわけです。しかし、神様は、「もはや大洪水が地を滅ぼすことはない」という契約を立ててくださいました。そして、「これからは、種蒔く時も、刈り入れの時も、暑さも寒さも、夏も冬も、昼も夜もやむことはない」と約束してくださいました。
「これからこの自然界は規則正しく季節を繰り返していきますよ」という約束です。自然のサイクルの中で様々な穀物が育ち、産物が実るわけですが、そうした自然のサイクルの中に神様の契約を見ることが出来るということなのです。もちろん、地域的な洪水や氾濫は季節ごとにやってきます。しかし、それは季節の巡りであって、決してさばきのしるしではない、ということです。また、頻繁におこる自然の災害自体も、決して神様の裁きの手段ではないということを、この契約は教えているのです。
A契約のしるし
9章12節ー13節で神様はこう仰せられました。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。」
「虹」は、雨が上がり、光が差し込むときに現れますね。つまり、嵐の後の平和と安息の象徴です。神様が「虹は、わたしと地との間の契約のしるしだ」と言われたのは、これから大水が襲ってきても、必ず雨はやみ、光が差し込み、平和が、いこいが、安息が訪れるという希望の約束です。
詩篇30篇5節には、「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」とあります。「虹」は、私たちが決して失望に終わることのないという約束の象徴です。暗くたれ込めた雨雲があっても、人生に暗闇や困難が襲ってきても、やがて光りが差し込み、虹を見ることが出来るのです。
そして、今、私たちは、イエス・キリストご自身が私たちの人生の光となり、暗闇を照らすまことの光となって来てくださっていることを知っています。また、聖書の約束のみ言葉が、私たちの心を照らしてくれることを知っています。
私たちは、空に「虹」を見るとき、この自然界に働かれている神様の恵みを思い起こします。また、私たちの人生においても、暗闇の中に恵みの光が差し込み、平安の「虹」を見させてくださる主がおられるのです。この主をあがめ、賛美しながら、希望を告白しつつ歩んでいきましょう。