城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二五年三月一六日             関根弘興牧師
                 創世記一一章一節ー九節
 
 創世記から士師記まで7
    「バベルの塔」 
 
 1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」5 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。6 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」8 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。(新改訳聖書第三版)
 
 前回は、ノアの箱舟についてお話ししましたね。
 神様は、愛をもってこの世界を創造されました。創造されたばかりの世界は「非常に良かった」のです。しかし、人は、神様のもとを離れ、自分が神のようになってすべてを支配することを求めるようになりました。その結果、ノアの時代には、地は暴虐に満ち、人々は、自ら滅びを招くような生活をするようになっていたのです。そこで神様は、人々を大洪水で滅ぼすことになさいました。ただ、神様を信頼していたノアとその家族には救いの道を用意してくださったのです。神様は、ノアに大きな箱舟を造らせました。箱舟が完成し、ノアとその家族と動物たちが乗り込むと、雨が降り始め、大洪水が地を覆いました。そして、ノアたちは、地が乾くまでの約一年間、箱舟の中で生活したのです。ノアたちは、箱舟から下りると、まず祭壇を築いて神様を礼拝し、新しい生活をスタートしました。
 そのノアたちに、神様は、永遠の契約をお与えになりました。「これからは、もはや大洪水で人を滅ぼすことはしない」という契約です。この契約は、二つのことを表していました。
 一つは、「大洪水によっては、本当の救いをもたらすことはできない」ということです。罪人をその罪の故に罰して滅ぼすことをいくら繰り返しても、人の罪の性質は変えることはできません。大洪水を何度起こしても、いつまでたっても根本的な罪の問題は解決できず、本当の救いはないのです。つまり、神様が「もはや大洪水で滅ぼすことはしない」と言われたのは、「ただ人を罪のゆえに罰するだけでは、決して本当の救いは成就しない」ということをはっきりと教えておられるわけです。そして、神様は、人の罪の問題を根本的に解決して救いを与えるために、別の道を備えてくださいました。それは、神のひとり子、救い主イエス・キリストを信じる者は救われると言う単純明快な救いの約束です。神様の「わたしは、あなたを滅ぼさない」という約束は、イエス・キリストによって成就されていくことが旧約聖書の長い歴史の中で明らかにされていくのです。
 神様の「もはや大洪水で人を滅ぼすことはしない」という契約が表しているもう一つのことは、「神様がさばきのために大洪水を起こすことは、もう二度とない」ということです。神様は、「これからは、種蒔く時も、刈り入れの時も、暑さも寒さも、夏も冬も、昼も夜もやむことはない」という約束してくださいました。「自然界は規則正しく季節を繰り返していきますよ」という約束です。時には、地域的な洪水や氾濫が起こりますが、それは季節の巡りであって、さばきのしるしではないということなのです。
 さて、大洪水を生き延びたノアとその家族は、神様を礼拝し、神様からの契約を与えられ、新しい出発をしました。しかし、それで、めでたしめでたしではありませんでした。以前、6章9節に「ノアは神と共に歩んだ」と書かれていましたね。ところが、9章には、ノアが大変な失態をさらしてしまった出来事が書かれています。ノアは、ぶどう畑を作りましたが、ある時、ぶどう酒を飲んで酔っ払い、天幕の中で素っ裸になっていたのです。ノアのような高潔な人でも、弱さや失敗があるのですね。
 ノアには、セム、ハム、ヤペテという三人の息子がいました。末の息子ハムが最初に父の裸を見て、兄たちに知らせました。セムとヤペテは父の裸を見ないようにしながら着物を持って天幕に入り、父の裸を覆ったと書かれています。ノアは酔いからさめて息子たちのしたことを知り、「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべとなれ」「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ」と言ったというのですが、わかりにくい箇所ですね。カナンはハムの息子です。おそらく、ハムは父親の裸の醜態を見て、兄弟に「お父さんが、恥ずかしい格好で酔い潰れているぞ。見に行ってみろよ。面白いから」というような父親を馬鹿にするような態度をとったのではないでしょうか。一方、セムとヤペテは父親への尊敬の心を忘れずに配慮のある行動をしました。しかし、それにしても、ノアは、自分が失敗したのに、ハムの息子カナンに「のろわれよ」というのは言い過ぎではないかと思ってしまいますね。しかも、ハムではなく、なぜその息子カナンなのでしょうか。おそらく、ノアは、ここで、息子たちやその子どもたちの様子や性格を見て、預言的な言葉を語ったのではないかと思われますが、ノアの中にも人間の弱さを見るわけですね。
 そして、10章には、この息子たちから生まれた諸民族の名前が記されています。この系図は、正確さを目的としているというよりは、ここに出てくる七十の民族を紹介することによって、すべての人類を表そうとしているのだ、と考えることができます。つまり、すべての民族は一つのルーツから出ているのですよ、ということを伝えたいわけですね。聖書を読んで、「これは私とは全く関係ないことだ」と言える人は誰一人いないということなのですね。
 そして、10章の最後には、「大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった」と書かれていますね。人々が地上の様々な場所に散って行ったわけですが、その前に、一つの出来事がありました。それが、11章1節ー9節に書かれているバベルの塔の出来事です。
 この出来事がいつ起こったのかは、はっきりと書かれていませんが、いくつかの説があります。
 一つは、10章8節ー12節に登場するニムロデという人物の時代ではないかという説です。ニムロデが所有する町の一つがバベルであったと書かれています。ニムロデは、「地上で最初の権力者となった」と書かれています。また、「主のおかげで力ある猟師になった」と書かれていますが、彼は、神様の支えによって力を得たのにもかかわらず、自分自身が神の力を手に入れたと思い上がっていたのかもしれません。
 もう一つの説は、10章25節に名前が記されているペレグの時代にバベルの塔の出来事が起こったのではないかというものです。こう書かれています。「エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの名はペレグであった。彼の時代に地が分けられたからである。」ペレグとは「分ける」という意味の言葉に由来する名前です。この「地が分けられた」というのが、人々が全地に散らされたバベルの塔の出来事ではないかと考えるのです。
 しかし、いつの時代に起こったにせよ、バベルの塔の出来事は、私たちすべての人間と関係のある出来事なのです。
 それでは、どんなことが起こったのでしょう。
 
1 一つのことば
 
 最初、すべての人が一つの言葉を使っていたと書かれています。言葉が統一されているということは、国を統治していくためにはとても大切です。歴史の中で大帝国を築いた人たちは皆、言語の統一を考えました。たとえば、ギリシャ帝国を築いたアレキサンダー大王は、ギリシャ兵同士が、それぞれの出身地のギリシャ語の方言が強くてコミュニケーションがとれず、命令系統がうまく機能しなかったことに危機感を覚えて、ギリシャ語の学者を動員し、ギリシャ語の共通語を作らせたといわれています。それが「コイネー・ギリシャ語」といいまして、後のローマ帝国の時代に公用語として利用されました。新約聖書もコイネー・ギリシャ語で書かれたのです。
 言葉は、コミュニケーションの大切な手段です。それとともに、物事の本質や考え方を伝えるために非常に大切なものです。私もこうして毎週説教をしていますが、言葉を用いているわけです。毎週の説教で言葉を使わなくていいなら、説教者は楽ですね。「皆さん、今日は、目で語ります!」というわけですね。しかし、それでは、説教の内容がまったくわからないと思います。ですから、言葉を大切にするわけです。
 しかし、言葉は、使い方を間違うと大変です。言葉によって正しいことも伝わりますが、間違ったこともすぐに伝わるからです。誰かが巧みな言葉によって誤った思想を植え付け、人々をコントロールすることも容易にできてしまうのです。そう考えると、私たちは何を語るか、どのように語るか、ということにいつも注意しなければなりませんね。特に説教者は注意が必要です。言葉の持つ力が人に真の自由を与えることもあれば、逆に、人を縛り付けて不自由にしてしまうこともあるからです。
 今日の箇所では、言葉が人々を危険な生き方に誘う大きな原動力となっていたことを教えています。
 
2 塔の建設 
 
 当時の人たちは、言葉が一つだっただけでなく、考え方も同じだったようです。彼らは「さあ、町を建て、頂が天に届く塔を建てよう」と互いに言い合い、一致団結していました。また、当時はすでに、れんがや瀝青を使って高い塔を建てる技術がありました。そこで、塔の建設を熱心に進めていったのです。
 もちろん、心を一つにして熱心に仕事をすることは、悪いことではありません。大きな成果をあげることができるでしょう。しかし、彼らは、目的が間違っていました。11章4節で彼らはこういっていますね。「頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
 彼らの目的の一つは、「頂が天に届く塔を建てる」ということでした。つまり、天にある「神の住まい」「神のみもと」に達しようとすること、つまり、自分たちが神と同じようになろうとすることだったのです。
 以前にもお話ししましたように、人は、アダム以来、みな罪の性質を引き継いでいます。エデンの園での出来事を思い出してください。アダムとエバは、神様から禁じられていたのにもかかわらず、「善悪を知る知識の木」から実を取って食べてしまいました。なぜでしょうか。「その実を取って食べると神のようになれる」と誘惑されたからです。しかし、実を食べた彼らは神のようになれたでしょうか。なれませんでした。かえって惨めな自分の姿に気づき、神様のもとを離れてしまうことになったのです。それ以降も、人は「神のようになろう」とする愚かな失敗を繰り返し続けました。今日の箇所にも、「自分たちの力と技術を用いれば神の領域にまで達することができる」という思い上がった姿があります。
 そして、彼らが塔を建てるもう一つの目的は、「名をあげる」ということでした。自分たちの名が称賛されることを求めたわけですね。私たちは、毎週の礼拝で「主の祈り」を祈ります。その中に「御名があがめられますように」いう祈りがありますね。どんな場所や状況の中でも神様の御名があがめられていきますように、と毎週祈っているわけです。でも、バベルの塔を建てている人々は、神様の御名があがめられる、などということは眼中にありません。ただ、自分たちの力で頂きが天に届く塔を建て、自分たちの名があがめられることを求めたのです。そして、その快感の上にいつまでも留まり、力を誇示しようと考えていたわけです。
 また、彼らは、全地に散らされないようにという目的で塔を建てようとしました。神様は、人をお造りになったとき、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と命令なさいました。「与えられたこの世界を有効に用い、ふえ広がっていきなさい」と祝福をもってお命じになったのです。しかし、人は、自分たちが神のようになり、名をあげることによって、全地に散らされることがないようにしようと考えたのです。神様の命令を無視し、神様と肩を並べて生きていけるかのような振る舞いをしていこうとしたわけです。しかし、そういう生き方は、必ず、どこかでほころびが出て、躓いてしまいます。
 
3 神様の介入
 
 この出来事に対して、神様はどのように対応なさったでしょうか。5節に「そのときは人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた」と書かれています。なんと皮肉な表現でしょう。人は、一生懸命、天に届く塔を建てているんです。しかし、神様はそれを見て「降りて来られた」というのです。想像してみてください。シヌアルの平野で彼らは高い塔を建てるために煉瓦を積み上げていくわけです。人から見れば、ずいぶん高く積み上げたように見えたでしょう。しかし、神様がご覧になると、まるで米粒ほどの小さな突起のようなものにすぎません。神様が降りて来なければ見えないような、小さな、小さな物に過ぎないのです。人間が神のようになろうとすることも、天に届く塔を建てようとする試みも、神様の目から見れば、滑稽な姿です。しかし、人は、そのことに気づかず、あたかも自分たちの力を神様と同等であるかのように錯覚するのです。
 6節で、神様は、「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない」と言っておられます。もちろん神様はどんなことでもとどめることができるお方です。しかし、人が一つとなって何かを行おうとするなら、とんでもない力を発揮し、考えられないようなことができるということを神様はご存じです。神様が人に優れた知性と大きな可能性をお与えになったからです。多くの発明がなされ、技術が進み、様々なものが次々と生み出されていきました。しかし、人が間違った動機で一つとなって力を発揮していくなら、それは大変な悲劇につながることを、今までの歴史が繰り返し証明していますね。
 そこで、神様は、7節で 「さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう」と言われました。
 「ことばが混乱し、互いにことばが通じなくなる」とは、どういうことでしょうか。それまでの発音やアクセントが瞬時に変わって外国語のようになってしまったということでしょうか。それもあるかもしれませんが、それよりも、互いの意思の疎通が出来なくなってしまった、心が通じ合わなくなってしまったということですね。これまで、心一つにしてレンガを積み上げていた人々が、互いに耳を貸さなくなり、分裂が起こってきたのでしょう。「名をあげよう」と頑張っていたけれど、なんであの人の名前が一番最初にくるのだ、というような不平不満も出てきたのでしょう。いつしか、互いの言葉を聞こうとしない、耳を傾けることも、耳を貸すこともできない、そのような状態になってしまったのです。そして、結局、「神のようになるために天にも届く塔を建てる」という壮大な事業は頓挫し、団結心も失われ、彼らは地の全面に散っていってしまったのです。
 高慢は、結局、人間関係を破壊し、人を散らしていくことにつながります。このバベルの塔の出来事は遙か昔の出来事ですが、今日でも同じようなことが日常的に起こっているように思いませんか。人間の高慢さがコミュニケーションを破壊し、結局、混乱や分裂しかもたらさなかったというのは、よくあることです。また、これまではお互いが理解し合えたのに、今では理解できない、心を通わせることができない、という経験もたくさんあるではありませんか。バベルの塔の出来事は、罪の中にいる人の典型的な姿を示しているのですね。
 
4 神の門
 
 9節に、「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。が全地のことばをそこで混乱させたから」とあります。ここでは、言葉の語呂合わせがなされています。「その町の名は、『バベル』と呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱『バラル』させたから」と書かれているのです。
 「バベル」とは「神の門」という意味です。人々は、自分たちが築いた町を、この場所は神の門だ、神が出入りする特別な場所だという意味で「バベル」と名付けたわけです。ところが、聖書は、その町の名前は「混乱」を意味しているのだと教えているのです。
 人々が「神の門」と呼んだ町は、まことの神の門ではありませんでした。人がいくら頑張って神のようになろうとして高い塔を建てても、自分で神の門を開くことなどできないのです。
 では、本当の神の門とは何でしょうか。まことの神様にお会いできる門、神様のみもとに通じる門はどこにあるのでしょう。それは、聖書にはっきりと書かれています。ヨハネ10章9節で、イエス様はこう言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」また、ヨハネ14章6節では、イエス様はこう言っておられます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
 何と幸いなことでしょう。私たちは、神様のもとに上るために自分で頑張って天に届く何かを作る必要はありません。なぜなら、神様御自身が天から私たちのもとに下って来てくださったからです。それが神の御子イエス・キリストです。私たちは、イエス様を通して神様を見、神様を知り、神様のみもとに近づき、神様の救いを受け取ることができるのです。イエス・キリストこそ「神の門」そのものなる方なのです。この門は、私たちの目の前にいつも開かれていて、信じる人は誰でも入ることができます。今日集っている皆さん、あなたはこの門を通って救われているのです。
 また、ガラテヤ3章26節ー28節には、こう書いてあります。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」キリストを信じて神様のもとに集められた人はみな、互いを隔てる壁が取り除かれて、一つとされているというのです。それは、皆が同じような人間になるという意味ではありません。いろいろな違いはあるけれども、同じ主に信頼し、同じ主の愛と恵みを受け、同じ希望を持ち、同じ神の家族に属する者として、互いを尊重し、補い合いながら一つとされているのです。
 また、使徒の働き1章8節では、こう約束されています。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」主にあって一つとされた人々は、神様に支えられて世界中に広がっていくのです。
 バベルの塔を作ろうとした人々は、自分の力で神の領域に達しようとしましたが、結局、混乱と反目と離散を招いただけでした。
 それとは逆に、私たちは、神様が遣わしてくださった救い主イエス様という救いの門を通って神様のみもとに行き、互いの間の隔ての壁が取り壊されて一つとなり、神様の御名があがめられることを喜びながら生きる者へと変えられたのですね。そのことを覚えて、今週も感謝しつつ歩んでいきましょう。