城山キリスト教会 礼拝説教
二〇二五年四月一三日 関根弘興牧師
創世記一五章一節ー六節
創世記から士師記まで9
「主を信じた」
1 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」2 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。4 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(新改訳聖書第三版)
前回は、創世記11章10節から13章4節までの内容をお話ししました。神様はアブラムに「わたしの示す地に行きなさい。そうすれば、あなたは大いなる国民となり、地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と言われました。妻のサライは不妊の女性で、七十五歳のアブラムには子どもがいませんでしたが、アブラムは、神様の言葉を信頼し、カナンの地に向かいました。
カナンの地に入るとアブラムはまず祭壇を築き、神様を礼拝しました。これから、良いことが起こるだろうと期待していたことでしょう。しかし、その地に大きな飢饉が起こったのです。この時、アブラムが神様に必死に助けを求めた様子はありません。それどころか、神様に示された地をあっさりと離れて当時繁栄していたエジプトに下って行ってしまったのです。しかも、美しい妻サライに目をつけた人々が夫の自分を殺すのではないかと恐れて、サライは自分の妻ではなく、ただの妹だと偽ったのです。すると、サライは、すぐにエジプト王の後宮に召し入れられてしまいました。その代わりにアブラムは多くの富を与えられましたが、心の中は平安とはほど遠い状態だったでしょう。神様の約束の地を勝手に離れ、エジプトの地で偽りを語り、約束の子孫を産むはずの妻サライが王に召されてしまったのです。アブラムは立派な信仰の持ち主というイメージがありますが、この時は、弱さのゆえに大きな失敗をしてしまったわけですね。
しかし、神様はそんなアブラム夫妻を守るために、パロの家に災害をお下しになったのです。パロは、災害の原因を調べ、サライが本当はアブラムの妻であることを知り、サライをアブラムに返し、多くの贈り物を与え、エジプトから送り出しました。アブラムの背後に力ある神様の存在を感じて恐れたのでしょう。
この出来事を通して、アブラムは、自分の弱さや愚かさを改めて思い知るとともに、そんな自分を赦し、助け、祝福してくださる神様の無条件の愛と恵みに感謝したことでしょう。以前祭壇を築いたベテルという場所に戻ってくると、「その所で主の御名によって祈った」と書かれています。主の前で再スタートを誓ったのかもしれませんね。
1 ロトとの別れ
さて、13章を見ると、エジプト王から家畜や金銀を与えられたアブラムは、非常に豊かになっていました。しかし、持ち物が増えると問題も起こります。今まで一緒に旅してきた甥のロトも多くの家畜や持ち物を持っていたので、同じ場所に一緒に住むことが難しくなってきたのです。皮肉なことに、何もないときには肩を寄せ合い助け合って生きていたのに、物が増えるにつれて共にいることが困難になってしまったのです。それぞれの家畜を世話するしもべ同士の間にも争いが起こりました。
考えてみてください。甥のロトは、アブラムが行き先がよくわからないまま生まれ故郷を出発したときに、一緒についてきたのです。アブハムを尊敬していたのでしょう。「アブラム叔父さんについていけば大丈夫さ。神様を信頼している頼りがいのある叔父さんだからね」と思っていたでしょう。しかし、一緒に行動してみると今まで見えなかったところがいろいろ見えてくるわけです。エジプトでも、アブラムは自分が殺されることを恐れて、妻を妹だと偽り、私服を肥やしているかのように見えました。そんな姿を見てロトは複雑な思いだったでしょう。もちろんロトも豊かさの恩恵にあずかったのですが、人は自分のことは棚に上げて考えますからね。ロトは、もしかするとアブラムの姿につまずいてしまったのかもしれません。人は一度つまずくと、そこから回復するためには時間がかかりますね。アブラムはエジプトでの自分を反省し、神様を礼拝して再出発しました。しかし、ロトは、それをなかなか認められず、心の中に怒りや失望感をもったままでいたのかもしれません。そういう思いは、しもべたちにも伝わっていくものですね。もしかすると、そういう背景があって、アブラムとの間に争いが起こったのかも知れません。
互いの争いを収拾するためには、距離を置く必要がありました。そこで、アブラムは13章8節ー9節でロトに言いました。「どうかわたしとあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは親類同士なんだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ロトよ、あなたの好きな方を選びなさい、と提案したわけですね。
アブラムもロトも家畜や作物を育てるためになるべく緑豊かな潤った土地が欲しかったでしょう。しかし、アブラムは、自分が年長であるにもかかわらず、まず、ロトに選ばせたのです。本来なら、ロトは、「いいえ、アブラム叔父さんがまず先に選んでください」と言ってもいいはずでした。これまで世話になってきたのですから。しかし、ロトは、ヨルダンの低地全体が主の園のように、また、エジプトの地のように、どこもよく潤っているのを見て、その土地を選んだ、と書かれています。「叔父さん、私たちはあのヨルダンの低地に行きます。それじゃ、さようなら!」ってな具合でさっさと移動していってしまいました。アブラムは、そのロトの姿を見て、一抹の寂しさを覚えたかもしれません。
しかし、ロトが去って行った後、13章14節ー17節で神様はアブラムにこう言われました。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」神様は、「アブラムよ。気落ちするな。約束したとおりわたしはあなたの子孫を増やし、見渡すかぎりの地をあなたに与える」と改めて約束してくださったのです。
18節には「そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた」とあります。マムレの樫の木はそこに住んでいたマムレという人の所有していた木で、14章13節には「マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた」と書かれています。盟約の詳しい内容は書かれていませんが、ヘブロンの地に住ませてもらうかわりに、お互いに助け合おうというような約束を交わしたのでしょう。それからしばらくアブラムは、ヘブロンに住むようになりました。ヘブロンは、荒れ地の中に横たわる山地の町です。水や泉があったようですが、ロトの選んだヨルダン低地ほど豊穣な地ではありません。しかし、そこに、祭壇を築いてアブラムは新たな歩みを始めることになったのです。
2 シャレムの王メルキゼデク
アブラムは、これからは落ち着いて生活ができるぞ、と思っていたかもしれません。しかし、しばらくすると、大変なことがおこりました。ヨルダン低地にあるソドムやゴモラなどの王たちは、北方のメソポタミヤ地方にあるエラムの王ケドルラオメルに十二年間仕えていたのですが、十三年目に反旗を翻しました。すると、ケドルラオメルと連合国の王たちがヨルダン低地に攻め込んできて、ソドムや近隣の町の全財産と食糧全部を奪っていきました。そして、そのときソドムに住んでいたアブラムの甥ロトとその家族も連れ去られてしまったのです。
その知らせがアブラムのところに届いたとき、アブラムは非常に悩んだことでしょう。相手は大軍勢です。それに引き替えアブラムの手勢は知れたものです。とても太刀打ちできません。しかし、アブラムは、なんとしてもロトたちを救出しようと決断し、すぐにしもべたち三百十八人を召集して、敵を追跡したのです。マムレの兄弟たちも参加したようです。そして、夜の間に奇襲攻撃を仕掛け、ロトを含め、すべての財産や人々を取り戻すことに成功し、一躍ヒーローになったのです。エジプトで恐れて自己保身に走ったアブラムの姿とは別人のようですね。
この勝利の知らせを聞いて、逃げ隠れていたソドムの王たちが戻って来たアブラムたちを出迎えました。
そこに突然、不思議な人物が登場します。14章18節ー20節にこう書かれています。「さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。『祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。』アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。」メルキゼデクが登場するのは、この箇所だけで、詳しい背景はまったくわかりません。
「シャレム」とはエルサレムのことで「平和」という意味ですから、この人は「平和の王」ということになりますね。また「メルキゼデク」のメルキは「王」、ゼデクは「正義」という意味ですから、「正義の王」という名前です。そして、「いと高き方の祭司」とありますが、祭司は神様と人を仲介する役割があります。そのメルキゼデクが神様からの祝福をアブラムに与え、アブラムに勝利を与えてくださったのは神様だということを伝えたのです。そして、アブラムは、神様に遣わされたこのメルキゼデクに神様への感謝の印としてすべての物の十分の一をささげました。
詩篇110篇や新約聖書のヘブル人への手紙を読むと、このメルキゼデクが後に来られるイエス・キリストを象徴的に示す存在であったことがわかります。イエス様こそ、まことの平和の王、正義の王であり、いと高き神様の祭司として、神様の祝福を私たちに届け、私たちの感謝を受けてくださる方だからです。
さて、アブラムを出迎えたソドムの王は、こう提案しました。「奪われた人々は私に返していただきたい、しかし、財産はあなたが取ってください」と。しかし、アブラムは答えました。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」
アブラムは、自分が犠牲を払って取り返した物を、何の代償も求めずにもとの持ち主に返しました。メルキゼデクが語ったように、自分が祝福されるのも敵を打ち負かすことができるのも、すべて神様のみわざだということをわかっていたからです。
3 恐れと信仰
さて、敵に大勝利を収めたアブラムですが、その後、意気揚々と過ごしたかというと、そうではありませんでした。人は、何か大きな事を成し遂げた後に急に徒労感に襲われることがありますね。アブラムも急に無力感や恐れを感じたようです。敵が復讐のために襲ってきたらどうしようと不安になったのかも知れません。また、「子どもがなかなか生まれない、神様の約束はどうなっているのか」という焦燥感も感じたようです。マイナス感情というものは、次から次へと増幅していくものですね。
そんなアブラムに神様は15章1節でこう言われました。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」神様は、「あなたは今、恐れているけれど、わたしがあなたの盾になって、あなたを守るから心配するな」と励ましてくださったのです。
すると、アブラムは言いました。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。・・・・あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」当時、直接の相続人がいない場合は、親族や奴隷の中から相続人が選ばれたようです。ダマスコのエリエゼルというのは、アブラムに仕える忠実なしもべだったようです。
アブラムは自分の中にくすぶっていた疑問をそのまま正直に神様に伝えました。すると、神様は「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」と言われました。そして、アブラムを外に連れ出し、満天の星を見せて言われたのです。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」と。そして、15章6節にこう書かれています。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」これは、大変有名な言葉です。
この時、アブラムはどんな状況だったでしょうか。恐れていました。無力感を感じていました。神様の約束が実現するのをこれまで待って待って待ってきましたが、自分も妻もどんどん歳を取って子どもが生まれる可能性が少なくなってきています。神様の言葉に疑いが起こらないはずがありません。しかし、彼は、まるで声を振り絞るかのように告白したのだと思います。「主よ、信じます」と。ここまで来たら、「主よ、最後まであなたの言葉にかけて生きていきます」と告白するしかないではありませんか。「信じる」というのは、疑いも迷いもないということではありません。様々な戸惑いや葛藤の中で、とても信じられないと思える状況の中で、声を振り絞るようにして告白することが時にはあるのです。
神様は、このアブラムの「主よ、信じます」という告白を義と認められたとあります。神様は、「アブラムよ。あなたの告白は正しい」と言われたのです。また、「義と認める」という表現は、関係を表す言葉でもあります。つまり、疑いや戸惑いの中にあっても、あえて「主よ、信じます」と告白することは、神様とまっすぐな関係を築くことなのだ、と聖書は教えているのです。このことを、神学用語では「信仰義認」と言います。この「信仰によって義と認められる」ということこそ、聖書の教えの真髄なのです。
4 暗黒の恐怖と神様の契約
そして、神様はアブラムに続けてこう言われました。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」すると、アブラムは、「それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか」と尋ねました。この時のアブラムは何か確証が欲しいと願っていたのですね。すると、神様は、アブラムに三歳の雌牛、三歳の雌やぎ、三歳の雄羊、山鳩とそのひなを持って来て、鳥以外は真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせに置くようにとお命じになりました。不気味な光景ですね。これは、当時の契約の儀式の準備でした。双方の当事者が引き裂かれた動物の間を通り、「契約を破ったらこのように切り裂かれてもよい」ということを誓うのです。
ところが、この契約の動物の準備をした後、15章12節に「日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った」と書かれています。神様は、「恐れるな。あなたの子孫は星のようになる。この地を与える」と言われましたね。それならば、安心してぐっすり眠ることができてもいいではありませんか。しかし、アブラムを襲ったのは、ひどい暗黒の恐怖だったのです。そして、神様はこう宣言されました。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」神様は、将来、良いことばかりが起こるわけではないことを知っていなさいと言われたのです。そして、これから起こることを予告なさいました。アブラムの子孫が他国で奴隷となって四百年間苦しめられるけれど、神様がその国の国民をさばき、アブラムの子孫たちはそこから多くの財産を持って出てくる、そのときにエモリ人、つまり、カナンの地に住んでいる人々の咎が満ちているので、この地は彼らから取り上げられ、アブラムの子孫に与えられることになるというのですね。
これから、自分の子孫が困難な時期を経験すること、また、今アブラムが滞在している土地の人々は自分たちの咎の報いを受けることになると予告されたわけですから、アブラムは、心穏やかではいられなかったことでしょう。
しかし、15章17節で不思議なことが起こりました。「さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた」と書かれています。そして、神様は言われました。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」将来アブラムの子孫に、エジプトの境界からメソポタミヤ地方までの広い領土を与えると言われたのです。
先ほど説明しましたように、普通は、契約を結ぶときは双方の当事者が切り裂かれた動物の間を通ることになっていました。しかし、ここでは、神様だけが通り、アブラムは何もしませんでした。つまり、神様が一方的に契約を与え、それを必ず実現させると保証してくださったのです。
歴史を見ると、確かに、何百年も後のソロモン王の時代にアブラムの子孫は繁栄を極め、この契約の通りの広大な地域を支配するようになります。しかし、その後、国は南北に分裂し、領土は次第に敵に奪われ、最後に国は滅びてしまいました。
では、神様のアブラムに対する約束は、ほんの短い期間に実現しただけだったのでしょうか。そうではありません。神様のアブラムに対する約束や祝福は、新約聖書の視点から理解する必要があるのです。ガラテヤ3章7節には「信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい」とあります。3章9節には、「信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです」、3章29節には「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」と書かれています。
つまり、アブラム(後のアブラハム)への祝福は、イエス・キリストを救い主として信じる人々に引き継がれているのです。「子孫が増え広がる」というのは、信じる人々が増えていくことですし、「この地を与える」という約束は、実際の限定された地域を所有することではなく、世界中のすべての場所で福音が伝えられ、神様の支配を喜ぶ人々が起こされていくということなのです。
神様を信頼していても暗黒の恐怖に襲われることがあるでしょう。しかし、その先に確かな希望があることを覚え、神様の一方的な恵みを感謝して歩んで行きましょう。